Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》loves me,or loves me not

vol.592.
1/15(土)
砂連尾理+寺田みさこ『loves me,or loves me not』AI・HALL

雨なので、肌寒い。アートコンプレックス1928。ここでは、音楽つきの劇を見ることが多い。そういうことがしたくなる空間なのかも知れない。パッショーネ『玉響(たまゆら)』。作と演出:蟻蛸蛆。13:40〜15:48。始まりと終わりがかっこいい。ドタバタ部分はもう少し整理して欲しいが。音楽を聴きに行ったが、いろいろ参考になる。劇中音楽については、これからも気にしていこうと思う。

京橋の駅前でビッグイッシューを買う。いつも、「気をつけて」と言ってもらえるので、今日は先に「寒いですね」と言った。すると、やっぱり、いつものように、おじさんの「気をつけて」がやってくる。
時間があるので、京橋のインターネットカフェに寄る。

砂連尾理+寺田みさこ『loves me,or loves me not』アイホールダンスコレクションvol.38、take a chance project 010(関西を拠点とするパフォーミング・アーティストとの共同製作事業)。ジャスト1時間(19:35〜20:35)。ワークインプログレスのときに見た(11/29、京都芸術センターフリースペース)のだが、こぐれ日録に一言も書いていない。どうしてだったのか、確かに作りつつあるものを見たので印象が希薄だったことや、難しい地点に来ているなあとは思ったが。

AI・HALLの本番はさすがだった。
美術(池田ともゆき)のオレンジの砂にまずやられる。踏み越えてはいけない「結界」なのかと思っていたら実際はこれに無造作に入り、砂遊びにもなる。掃除するということが、日常からダンスへと行き着くのだが、そのために掃除機とモップがダンス道具になる。結ばれた朱色の椅子二つ。座るのは一人だけである。服を着る男がすわり、下着の女がお辞儀する。なにやら心ざわめく始まり。

視覚への刺激とともに、耳への対応もぬかりがない。いつもそうなのだが、音楽のコラージュの巧みさには、唸らされる。たとえば、ベートーベンの歓喜の歌にかぶさる声=音(阿鼻叫喚という四字熟語が連想される)。二つのギャップは、ダンスすることが思考であり時代との呼応でもある、というサンプルである。

奥で踊る寺田みさこのシーンがダンスシーンでは一番心に残っている。
昨日見たこともあり、このデュオが、ダンスユニット・セレノグラフィカとは鏡像関係にあるデュオであることを再確認する。生活の断片、日常の仕草、癖になる無意識の動作さなどに共通点があるデュオ同士なのだが、男女が交叉するので、その対比はじつに鮮やかである。

よく動く寺田みさこに阿比留修一が、構成する砂連尾理に隈地茉歩がちょうどうまく対応するのである。ただ、砂連尾理が寺田みさこの上に乗ると十分、男性による女性への抑圧などの意味が発生するので、そのあたりは、セレノグラフィカとまったく点対称として考えることはできない。それだけ男女が対称点ではないことが、逆に分かる。

ラブについてダンスすると言う主題をどう言葉に出来るのだろう。loves me,or loves me not。主語のない英語の文、の欠片。でも、主語は単数である、しかも現在で三人称のheかshe(itやthatかも知れない)。そして、あいまいな「or」のためらい。

ダンスとしての構造分析。ここには二人の男女(A´、 B´)が存在している。でも、実はもう二人(A、B)が隠れている、それを踊ることであぶり出てくる構造としてのダンスシーンたち。
いわば、A´と B´はそれぞれの「me」、そして、AとBが、(表示されていない、隠された)三人称単数としての主語だとしてみよう。A´と B´は、天井から落ちてくる人形(me)が象徴している社会的役割的自分と仮定してみたい。寺田みさこの足指に挟まっている人形(B´だけでなくA´も同じく)が実に象徴的だと感じるから。

さて、いつもの自分A´は、自己Aを意識しない。まるで人形と同じようにその表情や動きはパタン化されている。いつも、B´とのつき合いはパタン化され表面的にすぎず、つき合っているのに、なかなかにA´はBそのものに向き合えない。そもそも、A´がA自身のことを忘れているからだ。Aはとても愛おしく無意識にBを見ているのだが・・・
他方、B´はやはり自己であるBにやっぱり向かい合わないので、Aそのものには出会えない。二人(A´とB´)は抱き合ってもそれは瞬間のことにすぎず、また遠ざかる。AとBを置き去りにして。
残っているのは人形で遊んだ記憶だけだ。A´の自意識AもA´に向かい合っていない限り、Bに対して同じことを繰り返す。解答はない。筋道も分からない。

だが、何かのきっかけ(突然の出来事、病気や仕事の失敗など個人的な事件かもしれないし、世界的な事件かも知れない)で、A´はAを自覚するとともにB´の奥にいるBに気づく。自覚したAがダイレクトにBへ話しかける。ぎこちなく、いつもではないそぶりで。まだあいまいな確率ではあるが、B´もまた自分のBにうすうす気づいている。だからこそ、Aのアプローチに世界が動く可能性を見る。世界はいつものようではあるが、うっすら、いつものようではなくなる。

音楽が鳴るのはそのためだ。踊りがまだ踊られるのは、そのせいだ。
断片的なのはフラグメント化されたいまの時代そのもの、その忙しさ故だとしても。
その先はまだ見えない、そして、踊りはまた変容していくだろう。


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