Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》hodokeru

vol.596.
2/12(土)
うえたけもとこ卒業公演『ほどける』京都造形芸術大学楽心荘など

ダンス公演で、「ほどける」というタイトルから連想するのは、「ほぐれる」ほど明白ではないが、硬くなっていた身体が自由になっていくこととか、自分の隠されたものが明らかになっていくようなイメージである。あるいは、見ている鑑賞者との関係性づくりとか、場の変容とかもすぐに思い浮かべられる。結び目がほどけて、なかを開くことができるからだろうか。

コミュニケーション型のアーツである実演芸術の場合は、タイトルは、第1人称か、一緒にみているあなたへの語り掛けである第2人称であることが多い、と昨日の日録に書いた本、佐々木健一『タイトルの魔力〜作品・人名・商品のなまえ学』に書いてあった。絵画などの視覚芸術では作品の第3人称のものが近代の古典的な芸術タイトルである。他方、より、身体的であり、メッセージ呼びかけ方であるのが舞台表現であるというわけだ。これは、「劇場的」という言葉がモダニズム美術評論ではネガティブな評価に使われるものであることとも対応している。

ところが、読み出した『死んだらどうなるの?』(玄侑宗久、ちくまプリマー新書、2005.1)のなかでは、「ほどける」というのは、「死」を表していてびっくりした。つまり、仏教では「死」を四大分離といって、もともと私たちのからだは、地・水・火・風という4つの要素が縁によって集まっているのだそうで、その4つが分離する(=縁がほどける)のが、つまり死なのだという。でも、仏教の悟りとは死を悲しいものではなく、「空」への回帰、つまり簡単に理解すれば、自然へと帰っていくことだとわかることで、確かに、どういう葬法でも、地球上の元素となることは間違いない。

枕が長くなった。1年間のプロジェクトの締めくくりとして、京都造形芸術大学楽心荘で踊られた『ほどける』。うえたけもとこ卒業公演は、こんがらがってしまった糸を、「無理にほどくでもなく ほどけるのを待っている」というような感じで、このタイトルを提示している。大きな階段からもっともっと細い階段を上ると、見晴らしのいい野外の能舞台に出る。そこにある楽心荘へと案内される。午前中の公演というのも珍しいし、卒業制作なので、大田省吾さんや岩下徹さん、そして直接の指導教員である山田せつ子さんらが見ている。山田せつ子さんと久しぶりに話したら、渡辺勝さんの音楽で踊ったことがあると言っていて、またはなに話さなくちゃ。

11:12〜11:53。見えないところから踊りが始まっていた。和紙のような白い幕が客席と舞台をさえぎっている。下半身は開いていて、ちょうど上半身がぼんやりとしか見えない。倒れると全身が見えるというのも、いつもとは逆な関係なので、興味を高める。いつこれを除くのか、ずっと隠したままなのか。

音は、映画自体の音声。男と女。何語だろう、ポルトガル語?自分で足踏みする音なども効果的に使われる。小さなCDデッキが下手に置かれていて、自分で操作して、高揚するときにはボリュームを上げたりする。ガラス戸の奥には日本風の庭があるのだが、そのガラス戸をあけて出て行き、大きな動きになったと思ったら、遮蔽幕ははずされてしまう。11:26。

あかちゃんのためのオルゴールがなる人形があって、それが小道具であるが、そんなに大きな役割はしない。ただ、止まっていたのに、振動で少し鳴ったときがあり、そのとき無音だったために、カラスの遠くで鳴く声とともに強く印象づけられている。その場その場は即興的なのだろうが、全体としてみると、古典的な構造がぼんやりあるような感じがするし、これぐらい長いと、そういう構築は必要になると思う。

それまでは、互いが手探りの部分もあり、じわじわと寒さが床から、ガラス戸の外からやってきた。クライマックスだと思ったのは、座ってのけぞる姿を生むシークエンスのところで、思わず正座してみた。動きに迷いがなくなってきたと思う所から、こちらが踊る方へと自然に誘われていく。それまでは、お互いが臆病だったような感じがあり、それっていつもどこでも同じことで、だから彼女は「ほどける」瞬間を待ちたいと希求しているのである。

そのあたりのどこかで(「ぞくっ」とする瞬間の記憶はいつも霞がかかっているもので、霞むことで反応の位相が変容するのである)、見ているぼくの内部から「ぞくっ」とする震えが駆け上ってくるのを感じられて、ここまで上ってきた甲斐があったと思う。帰り、細かい雪が少し舞っていて、大田さんは、滋賀の方からまぎれてきたんでしょうねえと言う。

COCON烏丸のshin-biのスタジオへ。
15時なると、椅子を追加するほどの人気。確かに40分ぐらいだけれど、栗コーダーの演奏を1000円で、しかも生音で楽しめるというのはおいしい企画。小暮はなにとっても、4人のリコーダーカルテットの同時演奏のもと、歌えるというのは貴重な体験だった。「ある日・・」と「海の真ん中」。海の真ん中が特にだが、いま、ちょうど、小声と引き算の演奏スタイルを作ろうとしていることもあり(CDの演奏といまのライブではずいぶん印象が違うはずだ)、マイクを使うことになったのだろう。

栗コーダーだけの演奏は、アンコール(大友良英作曲の映画『青い凧』から)を含めて、9曲。中には、20秒の曲もあるが、リコーダーのかわいらしさと意外に強い音のインパクトで、メリハリのある演奏だったと思う。はなが入る直前の「サニーデイ」の緩急はさすがで、早くなる突然さが、すぐに緩く戻るあたりの微妙な穏健性って、映画やアニメ音楽のなかでの、貴重な立ち位置感覚だと感心する。磔磔での栗コーダーの演奏、大友さんも出演し、はなもアンコールでまた2曲、歌わせてもらったようだ。


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