Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》bricolage art now

vol. 606.
3/26(土)混沌のなかで(1)
『きのうよりワクワクしてきた〜ブリコラージュ・アート・ナウ〜日常の冒険者たち』
国立民族学博物館



606.bricolage art now
3/26(土)混沌のなかで(1)『きのうよりワクワクしてきた〜ブリコラージュ・アート・ナウ〜日常の冒険者たち』国立民族学博物館
混乱(混乱の度合い)がそのものの誠実さを示すことは多い。
混乱する事態がいまそこで生きようとすることの確証そのものだからかも知れない。
整然としたプログラム進行に嘘っぽさを感じることもままある。
はじめから分かっているのなら、「そんなん、やらんといてもいいんちゃう」と思いながら、座席でうとうとする公演や企画(イベント!)に出会うこともよくある。

今日は、二つの混沌に出会った。
さまざまな一筋縄でいかないという意味での「混乱」のなかで、その着地点が見えないまま、戸惑いつつそれでも行うことの大切さをとても感じさせてもらえる展示と公演がそこには存在していた。
だから、書くことが、わんさとあるのに、どうもうまく伝えきれない気がすでにしている。

門真からモノレールで万博記念公園駅へ。駅下に並んでいる450円のふるさと弁当を買って(お茶もここで買った方が安上がりだった。中は高い)橋を渡り、420円のミンパク常設展入場料を買う。これがゲートを開ける魔法となる(ミンパクに入るにはまたゲートをそのチケットで一旦出る必要がある)。太陽の塔をしみじみ見つめ、その奥の万博お祭り広場に残された鉄骨の太さを眺める。故丹下健三の作品だから。万博といえば、いまは愛知。だから、万博のミンパクで小山田徹さんらが面白い展示をしているから、見たほうがいいよ、と娘はなに言ったら、だったら4月東京の帰りに寄るわ、と言っていて、話が見えなかった(愛知だとばかり思っていたのだそうだ)。

3/17から始まった特別展『きのうよりワクワクしてきた〜ブリコラージュ・アート・ナウ〜日常の冒険者たち』のポスターが気まぐれな春を待っている。天狗の面が貼りついた犬たちかな、そういうぬいぐるみが桜の満開のなかで、きらきらお星さまに囲まれている。出展者(というかレジデンスアーティストというべきか)の一組、生意気のデザインだという。ブリコラージュは確か「器用仕事」というような訳もあったように記憶している。(レヴィ・ストロースの「野生の思考」は大学時代に発行されて、即購入し、夢中で読んだ思い出がある。高校時代は「悲しき熱帯」があっただけで。いま自宅の本棚には「構造人類学」しかなく、野生のスミレの表紙だったはずの「器用仕事」の独自の法則にわくわくした本がどこかに散逸しているのが悔しい。)

国立民族学博物館。正面ではなく、特別展会場(前にピエロショートかあったところ)。
でも、エントランスに入り、ダンボールだったか新聞紙だったかに覆われた壁の通路を歩き出すと、そでに、ここは博物館ではない。もちろん美術館でもない。なにせ「展示」という概念がぶっとんでいるように思われる。独特の整列。ただの放置のようでそうではないこだわりの配置。でも、毎日入れかれてみているような気安さ。ぼくの本棚みたいないい加減な展開だ。山下里加さんによれば「ピクニック?飯場?」という疑問符つきの場所。完成ということがない工事現場みたいな感じなのだろう。

名古屋市美術館のそばの公園にかっこよく作られたホームレスさんのインスタレーションがあったが、一番それが近いかも知れない。バラックが密集している界隈のにおい。作者の名前を確認する作業はずいぶんここの空気に馴染んでからはじめた。まあ、いちいち札を見る必要の程度はどればかりかわからないが、これが収蔵庫にあったものか、どこかの廃品センターにあったものか、はたまた作者の作品なのか、ということをちょっと見出すとまたその面白さが二重にも三重にもなる。

当日パンフが案内地図になっている。
(以下、案内ぽくするために、文体がですます調に変わってしまっていますが、同じくぼくの文章です。)
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エントランスから小道を抜けると、家族紹介のお人形が三対います。「空き缶ハウス」(増岡巽)のあたりは広場(大通り)です。冨塚純光(とみづかよしみつ)のぎっしとした絵文字がかかっています。青い山脈の歌がモチーフのようです。駐輪場にはアジアのリキシャもあります。玄関は世界中の履物が置いてあって、なんてワールドワイドな家族なのかと感心します。フジタマの切り出したものがごちゃごちゃの世界に少し道筋を与えているのかも知れません。キッチンにも世界中の台所用品。ダイニングは今村源と八島孝一が一緒にやっています。楽器部屋から裏庭へ。滑り台があります。裏庭はなみいたコレクション。そこの塀から思わぬものがのぞかれます。裏庭のとても細い通路は別の時空への通り道なのでしょう。

下田賢宗のパジャマがずっと干しっぱなしになっているベランダでは、音の達人、仙人のような鈴木昭男がライブを始めました。11時。そのために、彼がコーディネートした音などモニターからの音が消されます。マイクを使って今日は小さな音も丁寧に響かせます。こだまする独自の楽器。管が伸ばされます。グワグワいうバグパイプみたいなもの、どうしてそんな綺麗な音が出るのか分からないもの。途中、中学生ぐらいの集団がベランダ前を横切ります。きっと不思議な風景と音ライブにどきどきしていることでしょう。茶の間に上がって音を楽しみつつ、今村花子の写真を見ます。あの食べ残しをお母さんが写したものたちです。毎日増え続けるということでは、小学生の松浦萌のビニールテープもすごい量でしょう。現役の子供部屋ですね。ムラギしマナヴ。リビングは生意気ですが、その後ろにも彼らのバックヤードがあります。

夫婦寝室とあって、それはどこかはじめ分かりませんでした。靴を脱いで、這ってのぼる四角いチューブがありました。産道というか参道というか。なるほど、子供たちには秘密の両親の営みの部屋だからですね。奇妙な置物がしゃべります、ライトが当たったりはずれたりして。モニターではどこか外国のフリーマーケットとみたいな所で、男の人が服をとりかえています。ズボンをぬいでスカートをはき、入るパンプスを探します。高峰格の「何人か」という問いかけに関わる作品のようです。

2階は巨大リリアンがあり体験できたり、ぬいぐるみが出てきたりする映像のトリックがあったり、作者、作品紹介があったりしています。少しのんびりと巨大で広大なお家訪問という混乱体験を上から眺めます。そうそう、キッチンのそばだったか、山本純子のアップリケもありました。伊達伸明の建築物ウクレレ化の展示もありました。これは、一度だけではなかなか見切れませんね。

さて、お名残惜しいですが帰ることにしましょう。路地には、平岡伸太、そして、木伏大助による映画のポスターの作品が並んでいます。ずいぶんと時代がさかのぼっています。いい時代だったように思うのは郷愁だからでしょうか。

607.Dance&people paformance committee
3/26(土)混沌のなかで(2)『ダンスパフォーマンス 見えるひと 見えないひと 見えにくいひと 見えすぎるひと〜視覚障害者と晴眼者がつくる舞台〜』ピッコロシアター中ホール
展覧会をいっぱい楽しんだミンパク館を出て、バラ園(みんな刈り取られている)のベンチで弁当を食べ、工事中の壁をみながら、大阪府立国際児童文学館へ。1階は、2週間以内で貸し出し可能な部分で、教育紙芝居がある。童心社が大部分だが、それ以外のものも少しある。2階はロッカーに荷物を預けて入る大人の場所で、ここでは、請求すると街頭紙芝居を見せてもらえるし、街頭紙芝居を展覧会などで貸し出すことも出来るという。1990年に作られた図録集があり、それによると街頭紙芝居の部分は塩崎さん(三邑会)による提供であることが分かる。

さて、ピッコロシアター中ホール。早く着きすぎたなと思ったら、五島智子さんが「混乱していて・・」という。視覚障害者がこんなに出演もし鑑賞もするのだから、混乱することは確かだろうが、かなり悲痛な感じではあった。中に入ってという。ワークショップでもしているのだろうか。入ってみる。入ると、ちょうど「舞台空間体験タイム」が始まっていたのだった。出演者と同じ直径7メートルの円に入って手をつないで見る。音が9時のところから鳴ったり、3時、6時のところから鳴る。音の扱いが大切なのだろう。

15時の始まりまで、野村誠さんらと話す。彼はこの『ダンスパフォーマンス 見えるひと 見えないひと 見えにくいひと 見えすぎるひと〜視覚障害者と晴眼者がつくる舞台〜』だけではなく、今年度(第1期)は8つが選ばれたという明治安田生命社会貢献プログラム(エイブルアート・オンステージ。第2期もすでに募集されている)の実行委員で、福岡や東京などですでに3つも見ているという。

ぼくもあるプログラムで審査員をしていて選んだものを出来るだけ見るつもりなのだが、これが1地域だけなのになかなか大変だから、全国の企画を見る野村さんはもっと大変で、でも、見るといろいろいえるからと言っていた。「障害者と一緒に作る」実演ステージのパタンが決まってしまっていることが多くて、それについてもっと面白くできないかを考えているのだろうと思う。ぼくのように審査委員ではなく、実行委員というのはそういう役目もあるのだろう。

肩ほぐしとごあいさつをする五島さん。照明が落とされていくのはなかなかに気持ちのいい経験だし、ずっと公演中も照明が落とされることが多く、それによって、ここに見えないひとがいっぱいいることを実体験させてもらえ、暗闇の方がつながっている気持ちがする。ぼくだけ、こんなにダンスを楽しむなんて悪いなとどうしても思ってしまうからだ。また、今回、急遽、音声ガイドを中西恵子さんが務めて、20のイヤホンには、見えない人もどんな動きかを解説してもらえる工夫がされていた(映画の音声ガイドもそうだが、視覚を言葉にすることは、とてもむずかしく無理がある。それに同時通訳とは至難の技。言葉に出来ないダンスの方が素敵であるともいえるぐらいだから、よく中西さんはやったなあと感心した)。

ダンスは2つに分かれていて、どちらも西宮で見たものがどんどん発展し構成されていったものだったのだろうが、作品的にも十分コンテンポラリーダンス公演として成立するものであった。でも、やっぱり、かなり即自的なものでもあり、再現はきっと不可能であろう。とくに、前半の「Dance In Your Eyes」は、視覚障害者4名と晴眼者4名による作品(ワークショップナビゲート、振付・演出:伴戸千香雅子)だが、視覚障害者のなかでも年配の男性はステップを習えると思ってきたということで、当初はこのステージに来てもらえるとは思えなかったらしい。少女も出ていたがとても恥ずかしそうで、その恥ずかしさはかなり半端ではないように思える。だから、いつ出ない!となってもおかしくなく、その瀬戸際にこの舞台が成立しているように推量した。

休憩中、座布団が十字に並べられてガムテープで止められる。まん中にちゃぶ台。日常を切り取るのか。なかなかにうまいセッティング(ワークショップナビゲート〜一部藤原恵理子が代行〜、舞台構成:エメスズキ)。4名の登場人物はみんな視覚障害者である。背の高いお兄ちゃんに陽気でおしゃべりな妹、黒めがねをしたお父さんに着物に着替えるお母さんという設定だろうか。ミンパクで見た世界がまたここに響きあっているのだ。

ラジオ体操が変形する。大きなお箸、味噌汁椀。携帯電話で話している妹は、お母さんの着物着替えのときを作っている。電車の音によるおにいちゃん(中垣斉士)のダンスはまた格別で、後半は言葉や声が多用されたが、構内アナウンスにすっと唱和するところなど、電車の中などで見かける風景(どうしても実際は障害者の人の動作とか物まねにかかわりにならず、見てみないふりを乗客はしてしまうのだが、かなり意識する)を思い出させる。

じつは、ステージ上もとても楽しかったのだが、もっと楽しかったのは隣の男の子の反応だった。車椅子で、言葉も不自由そうなのだが、暗くなると、暗くなったで〜とぼくに合図するし、後半のなかで、走る格好があると、自分もその格好をシュシュシュシュシュとするので、もうおかしくて、おかしくて。帰り、さよならというと、ぼくの頭をなでるではないか。おっと、先を越されたな、あわてて、こちらも彼の頭をなでる。

暗闇になることが多く(「暗転]ではなく、そのあいだも踊りがある)、それでダンスを鑑賞するということのなかに、「見る」以外の感じ方が随分あるのではないかということを実感させてもらえることが出来、鑑賞についても多くのことを感じさせられた。音の響きや体の重心移動の感じが、ダンスと共に響いてくる。もちろん、ダンスをそこでやっている人も面白い部分もあるだろうが、見るほうが、その意外性ゆえに多分出演者よりも数倍楽しくしかも踊っている体験にとても近いことになっているのではないかなあと、ちょっとそんなこともスタッフに話してから、外に出た。


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