Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》my strange dream

vol.601.
3/3(木)
ダンスユニットセレノグラフィカ公演『鞭を打つ日』、でも一人ずつのソロ+奇妙な夢


断酒歴58日。
数日前、お酒(日本酒みたいなねばっこい透明なものだった)をすすめられて、数度断る。でも、断り切れなくなる。飲むとうまい。どんどん飲んで、もうやめたくなったのに、無理矢理に口に注がれていく。辞めてくれ!お酒でおぼれそうになり、・・・はっと目が覚める。そんな夢を見た。すると、浜松で、伊藤さんから、禁煙したとき、本当に何度もたばこを吸ってしまった夢を見たそうで、まあ、一度ぐらいこういう夢を見るのは仕方がないかも知れない。

今朝の夢はそんなに怖い夢ではなかった。ただ、ちょっとばかり奇妙なもの。アサヒビール(+横浜市の文化財団)の加藤種男さんが出てきたのは、アサヒ・アートフェスティバルがらみのことでばたばたしていたからかも知れない。

大きなホールに出かける。そこの客席に加藤種男さんが座っていて、どうも壇上に並ぶ議員さんから質問(尋問)を受けているみたいなのだ。客席の後ろ側にはまばらな傍聴の人たち。あんまり人気がないなあとぼくは見ている。加藤さんの横に数人の女性達がいて、審議が行われているのにだべっている。だれも注意しないのか、と思っていると、すぐに終わって、加藤さんは向こうのドアから去っていく。

ぼくは、この世界とは無縁だから、のぞいている別のドアを閉めて戻ろうとする。すると、ロビーの外は空中庭園みたいになっていることに気づく。いままで暗い建物とばっかり思っていたのに、ガラスが明け放れていて、年取った夫婦が何もしないで座っている。ぼくも、そちらにいこうと思ってガラスを開ける。すると、笑い声がどこからともなくして、下を見ると、便所の下駄(木のもの)を履いているのだ。これはいけない、と引き戻そうとして目が覚めた。

9時半から昨日の入試の採点。前期よりはずいぶん少ないのでお昼には終了する。
昨夜見たダンスについて思い出しながら記述する。ポポル・ヴフについて書くのだが、ここのダンスは同じ標題でも微妙に変わっていて、それはたとえばダンサーの人数だって違っていたりする。微妙な変化、微細な変化がどうでもいいということでもないのだが、何人踊るのかとか、誰が踊るのか、ということがあんまり重大ではないというステージが珍しいことだなあと書きながら思う。映像もまた微妙にかわったりする。付け加えられるというよりも取り除かれる形で変わることもあるし、記憶の曖昧さをより増進させてくれるダンスと言えそうだ。

遅れずに新世界。早すぎてコンビニに入ると、なんと浦沢直樹の「20世紀少年」の18巻が売られていた。何とメジャーな漫画に夢中な私!とか思いながらも浮き浮きと買う。アートシアターdBへ。ロビーで漫画を読んでいる若い男の人。まさか!と思ったら、ロビーに最近置かれ出した冊子から松本大洋の「ピンポン」を読んでいたのだった。

ギターを持って20世紀少年の矢吹丈が帰ってきた!なんて思っていたら、隣りにしげやんが座る。丹下段平おっさんに立てと言ってもらうのか。そうそう、『happy!』の海野幸が矢吹丈で、彼女のテニスのコーチサンダー牛山が浦沢による段平のおっさんなのだ。ぼくは娘に「最近お父さんって、漫画に救われているよね」って言われると話す。しげやんは漫画好きだ。確か「明日のジョー」が好きだったはずだ。でも、ダンスの前に不謹慎な感じがして、違う話題に。ひょっとしたら「50歳からの男ダンス/バレエ」っていう企画をするかも知れないので、そのときはよろしくお願いします!すると、小暮さんだったら大丈夫ですよって。

ふと、そういえば演劇ビジネス研究会でワークショップの話があり、しかも40〜50歳代の男性をいかに劇場に誘うかが課題だった。演劇といえど、ダンスもあり発声もあり、いろいろワークショップできるから、これとくっつけてみればいいと思いつく。何だか実現できそうな気持ちになるから不思議。そんなことを思っていると、今夜のダンスがするすると始まる。小鹿さんの前説。75分です。1人ずつ40分近くするんだなあ(やっぱり中休みなく、隅地茉歩さんのあと阿比留修一さんが出てきた)。

ダンスインデペンデント(DANCE BOX vol.122)、ダンスユニットセレノグラフィカ公演『鞭を打つ日』。なんとユニットではなく、二人がソロをする。そうして見終わった感想は、「やっぱりセレノグラフィカはこの二人以外にはありえなく、しかも奥深い一個の人格的存在である!」だった。

どうしてかというと、隅地茉歩のソロも阿比留修一のソロもどちらもソロとしてとても真剣に充実したものだったけれど、どちらもセレノとしての不可分の動きと身体の佇まいが漂うもので、セレノ以外ではないと思ったからだ。それは、たとえばポポル・ヴフにおけるデュエットの二人のあり方それは、たとえばポポル・ヴフにおけるデュエットの二人のあり方(ポポルが、単に無個性というのではないが、「ある汎神論的女性性」という相貌を常に持っている所)とはとても違うもので、取り替えようのない組み合わせとしてのユニット(だからといって振付がないとは言っていない)だなと逆にソロで思ったのである。

とはいえ、それぞれに個性があり対照的な動きではあった。音も違う。
隅地茉歩のダンスははじめネズミだった。
『ホゴショク』。
ガソコソ。台所の片隅。人間はいない。はいはいから中腰。ちょこまかと、ためなど何もない、思想などちゃんちゃらおかしいという、あたかも表面を滑るが如くに変化するダンスである。音も同じぐらいおかしい。かつふじたまこが鳴らしている、揺らしている、ぶつけている。生活の音。こぼれていく雑音の記憶である。彼女は猫好きだったから、その猫を天敵とするネズミになってしまった悪夢かも知れない。

でも、そのあと、ミジンコみたいでもあった。おもちゃ箱がひっくり返される。古式の自動人形がいるかと思ったら、おばさんのテレビの前での無意識の動きを写し取ったり、あらまあ、どうしていますと挨拶されたり。マイム仕様ではあるが、クリシェになっている動きを軽く巧妙に加工している。

客席から阿比留修一がランニング姿でやってくる。6分経過。右手の指がもぞもぞ。かゆい。背中をランニングでかく。『どうしようもないワタクシが踊っている』。ずっと立っているように思えた。明かりの変化はない。踊ることの必然。彼は躊躇なく動き始めると、止まらない。動くまでの覚悟と動き出してからの「抜け」の落差が際立つ。

同じ方向に回ったりすることも辞さず。かっこいいずらしとか慣性を分断する知的操作も施さない。だのに、セレノそのものであると思ってしまう。セレノの動力源としての阿比留。セレノがどうして踊り続けなくてはいられないのか、その動機そのものを見たような気になった。もちろん阿比留修一自身のダンスであり、セレノのためのデモではないとしても。隈地茉歩の不安と背中合わせの知性、阿比留修一のやむにやまねない内燃機関としての身体、二つが分解されつつ、いつしか3Dめがねのように一つに浮き出してくる、そんな稀有の時間を得た。




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