Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》cocoroom dance&poem symposium

vol. 608.
4/3(日)上田假奈代+砂連尾理『第三回全日本★朗読シンポジウム』cocoroom



日本アートマネジメント学会関西部会の例会の日なので、OBPへ。
ちょっと、意思疎通ミスがあり、小さな例会になり、はやく新今宮に来てしまう。

16時から、上田假奈代さんが砂連尾理さんに振付されて、練習嫌いで有名な上田さんが連日ダンスの稽古を京都芸術センターまで通って練習しているという歴史的事件に遭遇するのだが、それまで、とても時間が余る。フェスティバルゲートの上映でましなものがあればと思ったが、なし。でも、横堀さんが「金粉ショー」の金粉(というか金色絵の具?)を持っているのを見たこともあり、マグロとアボガドの洋風どんぶりを食べに、4dlに入る。

「ポストコロニアル」について書かれた岩波新書(「ポストコロニアリズム」本橋哲也著、2005)を読みながら、ぼんやりしていると(ファノンの自ら創っていく民衆文化の形、そして、文化や社会化は、対位法的に考えれば、支配側の文化も抵抗側の文化も同時に浮かび上がってくるというザイードの話などをメモる)、横堀さんが、いま金粉ショーの稽古がはじまるという。見ていいですか? 実は、6日に、大阪港の<仮設劇場>WAにてオープニングがあるのだが、生協の理事会で出られなくなり、本番が見られない。稽古を見るというのは、できるだけしない方がいいかなあとは思っていたが、でも、今日は思い切ってお願いしてみた。

40分ぐらい、柔軟体操とかしているので、そのあとだったらいいと大谷燠さんが言ってくれたみたいで、はじめて、大谷さんが振付ける姿も見られたし(彼自身、金粉ショーに出ていたのだ)、いやー、練習を見るのは、実は面白く(ハードな肉体訓練だと思う)、特に舞踏系は言葉で振りを覚えていくのかも知れないとか、いろいろと発見がある。でも、福岡まな実さんの本番が見られないのは残念。ストリップ劇場で、6〜70年代のストリップと同じ構成のものを再現できたら素敵だなあ。

そのあと、3階、4階をうろうろ。すると、cocoroom(ココルーム)で砂連尾さんと眼が合う。ちょいとのぞく。またもや、リハーサルがこのあとあるそうで、見てもいいですか!とグレープフルーツジュースを注文。いいですよと假奈代さん。假奈代さんの体は、すでにリズムがあるから、詩を読むだけでもすでに音楽でありダンスなのだと砂連尾さん。あとで、教えてもらったのだが、街中の自転車の音などを拾ったサウンドを使ったのは、假奈代さんの踊りには、どんな音楽も合わなかったからなのだそうだ。

第三回全日本★朗読シンポジウム。前半が砂連尾理(振付家・ダンサー)の冒頭のダンスと、彼の振付による上田假奈代(闘う詩人・詩業家)によるダンスプラスポエム語り(即興とすでにダンスのなかで作られた詩篇の片鱗部分と)。後半は、二人のシンポジウム。とりわけ、「社会化」、「関係性」、現代詩の問題点などなど。

現代詩の話は、かつて現代詩ファンだったぼくにはとりわけ興味深い。ポエムリーディングがブームだった数年前。それを聞いた人たちがあまりにも面白くない(詩を朗読するのは、踊るよりも格段に安易に参入できるのだ)から、下火になってしまったいま。30万件の詩のサイト。でも、ほとんど批評厳禁なのだそうだ。同人誌と合評会だけが細々と続き「詩学」という雑誌もなくなった(演劇も似ているなあ)。詩集は売れず、自費出版してみんな進呈しあう。H氏賞などは、詩集に対して出るので、上田さんのように詩集出版を目標としない詩活動をしている人には何もアオードはない。評価する基準を『世間』に求めない生き方。

16時ごろ、ビッグイッシューの販売員さんが上田さんに相談。丁寧に聞いている假奈代さん、でも、公演直前なのに、大丈夫かなあと思ったが、やはりプロ。まったく、動じない。砂連尾さんのソロ。ココルームで踊る砂連尾さんの姿はまた不思議な空気をここに呼び込む。ふと、ギャラリーそわかで彼らのデュオを初めてみたときに感じた空気感が甦る。ステージでもいいが、ギャラリーみたいなところに会う身体なのだろう。実際、4/21まで桧垣文江展が同時になされていて、彼女の作品も下手に展示されているのだが、いつしか、その作品が、舞台美術に溶け込み、上田さんが壁を探って言葉を掘り出すシーンに来たら、その白い作品がヨーロッパの墓標のように見えてきたのには驚いた。

砂連尾さんの踊りも、そのあとの假奈代さんの踊りも、假奈代さんが踊りの稽古の過程で作った詩に基づいて振付けられたもので、即興性よりもコラージュの合わせる部分の呼吸にこそ、創造性が発揮するというタイプのステージ。だから、想像していたものよりもずいぶんと作品的な結晶度を要求するステージである。よく、詩人と舞踊家のコラボレーションというものもあるだろうが、この二人の試みはそういう一過性のものとは随分違って、継続する二人の軌跡がちょっと交わったら、こういうスパークがあったのねえという持続するクリエーションの姿として、とても楽しめるものだった。

新世界の塔から見える世界は二つある。
巻き戻せない時を巻き戻す時計。
考えたこともないことを考える。
自称弁護士にからまれた。・・・・

彼女の豊富な詩文が、踊りから飛び散ってくる。
言葉は身体にくっつくと、ごまかしがきかない。

20歳代の假奈代さん、自分のエロスを昇華していくポエムは、豊饒に妖艶にかわいらしく巻きちらさえていた。そして、いま。このいまの、ここにいるあなたとわたしのこの世界を描くことで、そこに向き合っている自分はおのずから出るのだという悟りのもと。現象学的世界内存在として漂白し定着する旅へ向かう假奈代さん。30歳代、40歳代と続くだろう假奈代さんが出かける西成の公園の一こま一こま、そういう細部によって構成され積み重なる足取りすべてがまるごと、大きな世界の変化の兆しとして垣間見られる、だから。

上田假奈代という一人の詩人の中に、世界は、あっけなくあっけらかんと映し出され続けるのである。

無言の上田假奈代はとりわけ新鮮だった。腕を突き出し、手のひらを回転させる意思の強さ。両手を広げて、右腕のみ、白い襦袢がきっぱりと見える偶然性の定着。スーパーの呼び声音と地面に転がる足の突き上げ。細かい手作業に見られる、豊富な表情。フェスゲのマイク音も、ジェットコースターの振動も味方にして。

また、声が甦る。勝負師としての假奈代のチョー、ハンのダイスが投げられ、壁の穴を探る一番ぼくにとって印象的なシーンへといく。奥のコンクリート打ちっぱなし壁との対話で舞台は大きく鳥瞰図となり、下手手前に先に書いた美術作品がずらっとお墓のように並ぶのである。
昨日みた、思い出せないもの、これはボタン、煙突、電車。戦争のあと。
また穴、これも穴。
塹壕と地雷原。どこまでも荒涼とした風景に、ためらいもなく立つ詩人の体。



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