Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》WI’RE07-02-02


4/16(土)

新学期に入った初めての土曜日
(その2〜WI’RE07-02-02『cross2』大阪現代演劇祭、仮設劇場「WA」)


今日は、突堤に向かうと、危ないためかロープで間近までいけないようになっている。客入れ、開場まで間がある。高田渡が56歳の若さ(外見は80歳を超えているようだったが)でなくなったという話で持ちきりの屋台が、夕焼けに染まり出している。

WI’RE07-02-02『cross2』。おお、番号順に並んで、開演(18:30予定)の10分前に係りの人についていってこわごわと入ってく感じって、ずいぶんと久しぶりだ。こんな導入のパフォーマンス(建物とか美術や映像装置が始まる前の雰囲気作りに動員される)が90年代中ごろはやっていて、そういう客入れがはやったときがあった。確か、恵比寿の地下とか。珍しいきのこ舞踊団もやっていた。

大阪現代演劇祭、仮設劇場「WA」の360度全方位型の機能をフルに使っている。円外にも、鉤が下りてくるようにするための足場があり、照明などの卓だろうか、そういう場所があり、もう一つ、パフォーマーが立つ場所がある。黒いクッションは、劇場建築そのもので、そこに座る。ただ、不自由な人には補助椅子のサービス。この前も助かったが、毛布が全員に渡される。コンクリの床は本当に熱を奪うのである。

ゲストがゴージャス。ぼろが王様の衣装にも見える野宿者の西田政彦。一人だけ関西弁で舞台を楽しんでいる。対照的に神経がささくれ立ち、空想と現実のあいだをさ迷う復讐者の北村守の発話は失速し、途切れがちになる。
あと、ステージのメリハリをつける役割として、ダンスが使われていて、氷の女王のような久保亜紀子と、ロボットのダンスするアヒルのような東野祥子が円形舞台を横断する。久保の絡みは芸術創造館でステージにメリハリをつけていたが、東野が入ることで久保とはまた違う要素を加えることに成功している。

映像の使用。舞台自体が美術的な美しさを有しているので、その紙くず的襤褸切れ的な舞台美術があんまりシャビーでなく感じられる。赤く染まる大きい玉。実は軽い風船。赤さは、極少ないが、重要な色である。女工が切り落とした指のかけら。旋盤に切り取られた鮮血の行方。切断と殺害の血の記憶の曖昧さと対照的に、その色は強烈に場面を釘付けにする。におわないが視覚で鼻を刺激して、立ち上がる赤色。

白が基調であり、鎖のような女工員の体に這わした黒いストラップが白い衣装を透けて見せる。隠されず露呈する躯体。だが、血も肉もそこにはない。あるのは、まったく役に立たない独り言、カッターナイフのおどおどと差し出されるカチカチとして文房具的音。

大きい玉もトランクから転がり落ちる中ぐらいの玉もみんな白い。脱色され削られた薄さとしての白と、逆に殺意や恐怖を一切隠し塗り込めてしまった分厚い白が交差する。円形の舞台自体が白く影ばかり浮き上がるので、半透明で出入り可能なのに、閉じ込められている錯覚に襲われる。大きな袋に入った死骸。トランクに入れられた外皮。不眠、悪夢、夢がなくなるバク。隔絶した独り言、幼児誘拐。

まるでいくら出獄しても外には出られない世間の目、性犯罪者というレッテル貼りという刑期なき収容、果てしなく監視される牢獄の囚人が工場に溢れ、さらに、獣医診療所にも客が二人しかいない列車にも、さらに、ホームレスと飛び込み自殺予備軍の女の周りにも、囚人の群れが取り囲む。囚人Aを見ている囚人B。囚人Bを見ている囚人A。囚人AとBの演技に反応する観客は実は囚人Cであったことに、多かれ少なかれ誰もが気づかされるのだ。

始まる前に聞くと、90分ぐらいと教えられていたが、実際は18:28に男があらわれてから徐々にステージへと向かい出して、30分ジャストに港の音(汽笛?)が効果的に鳴る。そして、列車の中。離れた男と女の会話の聞きづらい始まり、そして激しい光の点滅と激しい群集の踊りが客席を一気に集中されてから、最後、すーっとすべてのエネルギーが抜かれて無事終わったのは、20:16だった。

見ないし、におわないし、聞かないし、感じないし、想像しない「わたしは、はしりつづけて、いる」。残った独りもそれを発したあとは、ただ暗がりで去るのみでしかない。確かに、中ごろからモザイクになるシーンが輻輳しだして、ちょっとしんどかったところもあった。

でも、サカイヒロト(構成・演出・造形)が提出したいことが、徐々に分かってきていて、この前には、赤レンガ倉庫で、この作品の最後に近いシーンをレンガ倉庫に挟まれたオープンエアにてやってみせてくれたこともあり、この閉じられた空間の作品として鑑賞しても、ずいぶん楽しめる多元的な断片や可能性としての要素があったように思う。

というのは、インデペンデントシアターで見たときは、ただ、女工の機械的な暴力的荒廃ばかりに眼が行っていたが、それが、そのあとに観た大阪市立芸術創造館における全館を使ったステージとインスタレーション、映像の組み合わせで、提示の仕方自体に作者の気持ちがあることに気づき、ストーリーの繰り返しとかよりも、もっと見るべきところがあることがぼんやりと分かっていたからでもある。





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