Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》MIYAJI Keiko=UZURA gallery
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vol.617. 土曜日のしあわせな芸術探偵記録 (その1 みやじけいこ個展『温度の距離』うずらギャラリー)
今井祝雄さんから話のあった「デイリーポートレート」(夢創館という神戸のギャラリーの通信にのっている)に、「あなたの忘れない-思い出す1日の日記」を書くプロジェクト。夢創館に展示された後、一部は出版されるということ。これに参加しようとあれこれ考える。いろいろぼくの場合ありすぎるのである。 手元には1986年からの日記がずらっとある。86年の日記を見ると、さきが0歳から1歳、はなが2歳から3歳。ほとんど仕事と子どもの話である。オーソドックスに長女はなが生まれたときにしよう。それから、新しい家族の風景が始まったのだから。 みやじけいこ個展『温度の距離』うずらギャラリー。案内をもらってすぐにここには行かなくちゃと思っていた。20日から23日までの短い間の展覧会である(正午から18時)。場所が、いつも気になっていたアートコンプレックス1928の隣の富田歯科の1階だからでもある。みやじけいこの作品がこういう洋風町家では、きっといつも以上に生きるだろうと予想したからでもある。 初めて入ってわかったのだが、この昭和15(1940)年に建てられたお家は、京都の町家がもつ奥の深い佇まいで、応接室(歯医者さんの待合室でもあるようだ)だけを、去年からギャラリーとして、ときにはライブ会場(50名ほど)にしているのである。オーナーの富田民人さんは、このお家に住みつつ、うずら音楽舎という音楽関係のお仕事(CD制作やコンサート企画)をしているもの柔らかな人である。ただ、うずらレーベルを出している関係上、自分と合わない展示希望者の申し込みに対してはお断りしているのだそうだ。 靴を脱いで応接室に入る。クッションがかなり抜けた椅子に過去のファイルが置かれている。みやじけいこを版画として紹介している雑誌もある。黒のアップライトのピアノ。その壁には、ベートーヴェンのレリーフ。ずいぶん色が変わっていて、額縁と本体とが同じ模様になっている。中年の女性が入ってきて、これも作品でしょうかと聞いていた。前庭が黒いカーテンで閉ざされている。彼女の作品のモチーフに、窓とカーテンが重要だったなあとこの部屋と彼女の作品との出会いの必然に思いやる。 まん中に大きくないテーブル。両足だけがそこに置かれている。色がない分、爪と指の表情が透明さゆえに浮き上がり、ガラスへと二重にトレースされ、ずいぶんと加工したものになっている。この作品へと向かう加工の過程そのものが、この場の記憶の時間的変容と対置されるように思える。だが、上から霞みゆく靄の映像のもと、それでも、よくよく見れば、わたしたちの足という代物は、なかなかにけったいな表情をしていることが見て取れる。 通り側の窓に、写真を版画にした子どもの身体。たぶんであるが、隣の部屋の仕切りにも、同じものの片割れがあり、その二つはばらばらに、しかも反対側に本体があってぼやけて裏に映っているかのように設置されている。いくぶん、一つ一つを見ると、晦渋な(=「現代美術」ぽい)感じはする。ふらりと入った方がちょっと首をかしげている。でも、いやな雰囲気ではないように見えてほっとする。 ひとり、ずっとここにいると、窓のその明瞭でない形姿こそ、この家族とか患者さんがたたずむ場所としての応接室の「温度」であり、その遠近としての「距離」なのだろうということが、じわりと伝わってくる。 うずらギャラリーに入る前に近くに出来た紀伊国屋書店に入る。ちょうど、畠山兆子+松山雅子『物語の放送論〜仕掛けられたアニメーション番組』(世界思想社、2000)を読んでいた(卒業研究指導に使える!)ので、まず買ったのは、中野晴行『そうだったのか手塚治虫』(祥伝社新書、2005)。あと、香山リカ『10代のうちに考えておくこと』(岩波ジュニア新書、2005)、小川裕夫編著『日本全国路面電車の旅』(平凡社新書、2005)、岡田尊司『自己愛型社会〜ナルシスの時代の終焉』(平凡社新書、2005)、内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書、2001)、新宮一成『ラカンの精神分析』(講談社現代新書、1995)、町田健『ソシュールと言語学〜コドバはなぜ通じるのか』(講談社現代新書、2004)。自分ももちろん面白そうだから買うのだが、全部結局、学生に奨める本である。仕事熱心なぼくであることよ。 |
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