Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》STEPHAN BALKENHOL&re-learning
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vol.615. 土曜日の充実した半ドン日 (その1、国立国際美術館『シュテファン・バルケンホール』 大学院授業、再学習の必要)
ただ、「共時的―通時的」とかいう用語を無意識に使っていたりするので、ちょっと、ソシュール言語学の初歩知識などを補っておいてあげるぐらいのサービスはする。すると、レヴィ・ストロースの器用仕事、野生の思考の○○が出てこなくなって、ほらミンパクでやっている展覧会の○○、といって絶句する。研究室が近いので、ブリコラージュ・アート・ナウのチラシをとってきて、この健忘症の気持ち悪さを解消したりもする。 あと「線型」という言葉も無造作に使っていて、このあたりはきちんと数学を勉強しなおさなくちゃいけないし、学問をいい加減にかじっていて、しかもその知識は高校生ぐらいのときに集中的に入れたものだから、30年間のうちには、自分流にぐにゃりと捻じ曲がっていることも多いだろうから、意味されることと意味するものの恣意性とか話しながら、もう一度再学習(オーバーホール)しなくちゃなあとなまくらな自分を反省したりもする。 終わってもう一つのブログに、立命館で紙芝居講義したものをメモる。
国立国際美術館のシュテファン・バルケンホール。木の彫刻とレリーフ。タイトルも実に平凡だし、チラシの作品画像も、どこにでもいるおっちゃんが丸太に立っているもので、これってほんとにドイツを代表する「げんだいびじゅつ」?っていう感じなのだ。そして、それがそのままの印象を濃くして、もっとみたいみたいと思わせ、すごくいいのだったから、変だよね。 でも、変ではないのであって、だから、7/18までこの展示はあるので、5月の終わりにはゴッホ展もあるから、それよりは、というかゴッホもいいけど、これも見て欲しいし、見てきっとびっくりし気持ちよくなると思う。国際美術館を立命でも橘でも鑑賞対象アーツプレースにしなかったが、このサイトを見てこの展覧会を書いた学生はオーケーとしたぐらいに、お奨めである。 だいたい、地下3階のガレ展を目あてにしてきたおばちゃんたちが、帰り、ぬきぬきっと、おっさんの3人連続像が立ち上がっているからして、ほーって、足を止め、となりのゴチック教会などの風景レリーフを眺めている様子がいい。監視員は気が気でなくて、というのは、一見して油絵かと思ったら、ほら、これって板を彫っているんやねえ、と手を出して触るかぐらいに指差すこと、しばしばだからだ。触りたくなる彫刻ってやっぱりいいのだ。使い古された木を使っているのも素敵である。 ぼくが好きなのはいろいろあるが(これらだけブロンズ―錆の曲がった男も惹かれる)、巨大な蟻3匹のついたて「自動車と蟻のパーテーション」が最高に面白かった。いかにもやる気ないような蟻が彫られていて、何気に裏をみたら(トイレに行く人ぐらいしか気づかないようにしてある展示もまた意味深)、自動車が上から見てべたっと、それも縦に彫られ描かれている。こっちの方が丁寧なものなので、これを見ると現代美術だし今日のアーツなのだ。が、その部分はじつにそっとしまっておいていて、全体の展示は、平安時代までの貴族のための仏像から、鎌倉時代になって、荒々しい木彫が出ましたという風な、いかにも啓蒙的な博物館と同じように展示されているのが、これまたアウトリーチ的に憎いと思うのである。 崇拝的価値というベンヤミン的な用語をあえて使いたい作品展示は、「円盤の木の上の男」であった。見上げているうちに、彼が動き出してびっくりしたのである。崇拝するのではないが、斜め上にあることで、目線が揺れるのであろうといまでは思う次第であるし、レリーフの前に置かれた彫像の遠近法というか、目の焦点の合い方ずれ方を楽しむ展示も普通に面白い。騙し絵ほど低俗ではなく、それでも見ることの原点の幻惑について体感させてもらえる仕掛けである。 自画像はないのだろうが、普通のドイツ人としての作者が汎神論的に蔓延しているのだろう。おばさんになると女性と男性の区別よりも民族的な差異の方が大きいということもなんとなく伝わってくる。常設展(コレクション1)もこの展示に連続してうまく鑑賞できる。舟越圭とまずいままで見てきたバルケンホールが比較でき、ジャン=ピエール・レイノーの「自刻像」が抽象(ミニマリズム)に限りなく近い具象という線引きについて考えを喚起させる道標となっている。日高理恵子に再会できて触れしかったし、伊藤存もちゃんとあったりする。 |
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