|
Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE
Journal》nami-no-uta vol.629. みらいの会『なみのうた』京都府立文化芸術会館ホール。脚本・演出:田辺剛。
ところで、選挙だからという理由で、鑑賞者が少なくなるということは本当にあるのだろうか。投票など出かける前の10分ぐらいのことであるはずなのに。それとも投票した人たちは、いままで真剣に、国・地方のにっちもさっちもいかない公債情況が郵政民営化でどのように改善されるのかとか、憲法を変えることは本当にどういうことなのかとか、障害者自立支援法案とか人権擁護法案とかの是非を議論し尽くして、草臥れちゃったとでもいうのだろうか。 みらいの会『なみのうた』京都府立文化芸術会館ホール。脚本・演出:田辺剛。プロデューサーは, それが、泳ぐ真似の動きのあたりで、この会、この舞台でしか観られないものがここにあると思い出す。繰り返しが効かなくなる瞬間が、これ以外の舞台よりも格段に多いと思う。 遠くに韓国からの姉妹の姿が見える。空気の移動。気圧の変化。まったりとしている22歳の若者たちの所在無げ。それが、じつはさまざまなトリビアルな渦巻きとともにあることが、外気圧の変化で見えてくる。隠されてきたものが浮かび上がり「見えてくる」というのは、状況が変わっていくということとほとんど同じである。 めずらしく、アフタートークも聴く。涙は出なかったが、観劇したという満足感は深い。この公演がもう少し小さい小屋だったらどうかとか、1回限りではなく、2回以上の公演という状況が可能だったかどうかとか、少しあれこれ考える。稽古の様子、演出をつけるときの様などの話が興味深い。台本はどれぐらい役者に即しているのだろうか。稽古しながら台詞はどのように変化したのだろうか。この会における独特のものがあったと思いがちであるが、単に個体差、経験差があるだけかも知れない。 少しばかり、劇の内容に触れてみたい。 そして、のろのろ国の天気は雨ばかり。のろのろ国に来て見ても実はいいことはないかも知れないと思わせる設定。でも、ぴょんぴょん国から逃れてのろのろ国にずっといたいという若者が一人出現する。そこに、のろのろ国に移住してきた経歴のおじさん(二口大学)が、その若者、西と話す。美しい声に惹かれてぴょんぴょん国からやってきたが、ここに、美しい声の楽園があったかどうかは不明であって、きっとその美しい声は、もう一つの軸である韓国から来た姉妹二人の声と似て、辿り着けないものであった。だからこそ、美しい幻の声と、南への希求は続く。 しかしながら、ぴょんぴょんとのろのろの「ファーストvs.スロー」図式だけで解釈できるほど、このお芝居は単純ではない。それに、インターネットテレビ電話のような装置がこの両国をつなげるわけではなく、そこには、「束縛(伝統文化)vs.自由(生存競争)」の軸も絡んでくる。つまり、韓国の姉は、オーストラリアでは自分の実力が実現できるのだが、韓国においては家族などのしがらみでうまくいけないという構図(束縛からの自由)が出現するのである。この軸は、ファーストライフとスローライフの対比ではないもう一つ違う軸となっているのかどうか(伝統回帰だけのスローは束縛であり、はたまたファーストライフと自由競争は新自由主義の経済世界では同じとも見える。つまり、ただ遠近、東西の差だけかも知れない)。 だから、この戯曲は一筋縄ではいかない面白さがさまざまあって、観劇後にあれこれ考えるべき要素が多い。たとえば、この島よりもっと南に自由主義世界がある(少し前のオーストラリアは多文化主義的であったようにも思えるので)という夢。彼女の中の韓国はある意味のろのろ世界に通じる縛りがあって(大都市と地方との格差が日本よりもまだ大きいかも知れず、どんどんファースト化している途上なのだろうが)、それは、のろのろ世界を代表する戸籍係の親族縛りと同じであるところがまたまた興味深い。 あと、ぴょんぴょん世界の女に片思いするのろのろ世界の戸籍係のほか、韓国の妹とのろのろ世界に来ても引きこもりしている若者との関係をどうとらえるのか(ひきこもり若者の父親の視点でどうしても見てしまうが、韓国の妹からの視点も残されていて、戸籍係に片思いされていたぴょんぴょん世界の女と同じく韓国の妹ものろのろ世界で病気になるという共通点も気になるところ)。これもまたあれこれ考える楽しみである。 うちの学生が二人。一人はアルティにインターンシップしている学生だったので意外な出会い(激励訪問が出来ないということだったが、ここで出来たといえば出来た)。もう一人は、まだ明治44年の顔をしている。 はじまるまえ、納谷さんたちが結婚式をあげたという萩の宮「梨木神社」をぶらつく。白無垢が移動した道。そこから彼女が出てきたときは息を呑んだと芳江。咲き始めた萩の花をこうしてしみじみ見るのは初めてかも知れない。 死ぬまできちんと生きること。個が個として、死ぬまできちんと生きるために、それぞれが亡命者となる覚悟で「みらい」を切りひらくしかない。だから、自分を空しくすることにつながるような絶望は、ゆめ最後の最後までしないでいよう。そのためには、自分に必要なアーツを選ぶしかない。 孤立してでも自分で生きる体力を残存させるため、いまのせつな的な「囚われの聴衆captive
audience」が支持する「勝ち組」界からはそっと身を遠ざけて、とりあえずここに生息しよう、東京よりはまだここは息が出来るからな。そんなことを思いつつ、金原亭馬生(きんげんていばしょう)の『笠碁』を2度鑑賞する。 「こぐれ日記」の扉へ 無断転載禁止 掲載:アーク編集室 |