Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》WASRENOKORI


vol.634.
12/4(日)
焚火の事務所公演「ワスレノコリ」アイホール & ビエトロ・ジェルミ『鉄道員』

朝、『鉄道員』をDVDで見る。ビエトロ・ジェルミ監督・主演映画。1956年、イタリア。
110分(サイト上では115分になっている)、もちろんモノクロ。ジェルミ自身による鉄道員の父親が50歳。もちろん、彼に一番感情移入してしまうのは仕方がないところ。次男はちょっと太っていて、ぼくだって、こんな小さな子どもがまだいたら、かわいくて仕方がないだろう(でも、扱いは難しいかも)。

ラスト近くのクリスマスにおける音楽と踊り。ペアの作られ方は、日本の歌垣とまるで同じである。踊りの場は恋愛の社会的認知の第一歩だったのかも知れない。これぞ限界芸術としての冠婚葬祭の好例。そして、別れが、妻へのギター弾き語りなんて、すごいね。さすが、イタリア男! お葬式は出てこなかったが、長男の姿が親を受け継ぐことで、追悼と葬送の過程は表現されている。

映画芸術という目線で見ると、良質のメロドラマという批評も可能かも知れないが、ディテールの安直さとか構造の弱さなどに気にしないでいれば、全体として観客に媚びすぎない点も素敵だし、ストレートにイタリアの労働者とその家族の思いが溢れていて、心地よい涙がにじむ作品だと改めて思う。

今日もどこにも行かないでおこうかとも思ったが、まあ、あんまり出不精になるのも困ったものなので(「劇場に行きたくない病」「ダンス引きこもり」になってしまう)、アイホールだったら本屋やトイザラスもあるので、買物がてら、出かけることにする。小雨、雷も鳴ったそうで、帰り、JR塚本駅あたりに落雷があってダイヤが混乱していた。

伊丹アイホール。アイホール提携公演、焚火の事務所公演「ワスレノコリ」作・演出:三枝希望。

13:07〜14:30。BGMが大きくなり溶暗。そのときは、13時06分30秒ぐらいで、暗闇のまま音(楽)が変わり、少しずつ窓の外に明かり。そこで、13時07分20秒ぐらい。厳密には、やっぱり、後者が開始時刻ということになるのだろう。でも、客入れのときから役者が出てきて、ぼそぼそしゃべる90年代静かな演劇みたいな試みもあったし、「厳密」ということ自体がそんなに厳密でもないのだが。

久しぶりにお芝居をみたせいもあるが、すみずみまで丁寧に見させてもらったし、若干ディテールとかはまだ磨けばもっと素敵になるのかなあとも思うけれど、骨格(内容)が好みということもあって、気持ちのいい観劇だった。

不在の母、もっと前に不在になってしまっている父。韓国から父親を探しに来た娘(全リンダ)。
舞台上に男は出てこない。思い出にもならないぐらいだ。ただただ、韓国から日本に逃げてきた父親の声が異様に響くのみである。韓国の父はまだ不在だが、そのあたりに生霊としているというわけだ。

メインは三姉妹の葛藤。役者は、岩崎恵美(お世話をしたくなる長女。家にいて独身、学習塾)、前田有香子(劇団太陽族、一見ドライな次女役、百貨店のキャリアウーマン)、佐藤あい(三女として、あんたはシンデレラみたいねと、姉たちにいわれてきた)。

長女は母親を看取る。次女は長女に反発して葬式にも出なかった。三女は長女と次女のいがみ合いに辟易して、早く家を出たいから結婚した。
その三人が、かつてまだ家族が仲良かったときに泊まった海辺の民宿に来ている。母が民宿の奥さんと同級生だったのである。

季節はずれの民宿、それでなくてもうらぶれている場所なのに、よほど寂しい時節。
まして、雨が降り出し、風が出て、嵐となる。この民宿は取り壊されることになっている。すでにほとんど廃墟に近い。そこに残されたしーちゃん(青島翠)という少しぼんやりした娘もまた現実の動きから取り残されている。

動かない部屋の窓。開けば閉まらない。風が悪魔と一緒にやってきそうだ。民宿の主人であった女が死ぬ。三姉妹の長女が民宿の小母さんを看取る。小母さんは認知症で長女を自分の娘だと思ってしまう。本当のその女の娘、しーちゃんは、自分の母の死を受容できない。すでに死んでしまった黒猫すら、生きていると思って、身代わりのぬいぐるみを死なすまいと必至である。

三姉妹の叔母久子(金子久子、コズミックシアター)とその娘京子(二階堂里恵)。ここも父親は不在である。しかも、京子は母親の夢だったピアノの練習をぷっつりやめたときから、久子と京子の間に大きな隙間が出来ている。

死者のもとで、人はもう一度親密なる関係を結べるか。
いや、死者を死者として受容し思い出を記憶として共有することが、すなわち、親密な関係の回復そのものではないか。

三姉妹の相互の不通、母一人娘一人の断絶、母の死が自分の死になってしまう民宿の娘の錯乱、逃げた父親に声をかけられない韓国娘。そこには、4つの関係ごとのディスコミュニケーションの束が投げ出されている。それが、また束相互に輻輳していく。束と襞の重なり。それらを舞台上で安易に切断したり消し去ったりもせず(=何の解決も希望も見出せぬまま)、そのままにしておき、でもそこから逃げ出しもできずに向かい合う、お通夜の前日の描写。

儀式(や、その準備)は、人をいやおうなく集め、嫌々ながら過去の記憶を甦らせる。葬式や通夜を舞台にするお芝居は、ままあるが、その前の1日、死の受容をめぐる空白の時空を描いた作品にはじめて出会った気がする。したがって、葬祭研究者としても、また貴重な作品であった。

もちろん、演劇として、戯曲としての細部の魅力も多い。たとえば、三姉妹の記憶の混濁。三人がお留守番をしていたとき(親の帰りが遅いので「グスコーブドリの伝記」のような事態を想像してしまったのだった)、長女は三女が言ってくれたと思い込んでいた勇気を奮い立たせるための「かわいい言葉」。それが、実は、長女にとっていまは憎らしい次女の言葉であったこと(三女はただ泣いていた)。

同じく、三女が名づけたと思い込んでいた岬のネーミング(いまになっては気恥ずかしいもの。それは「赤毛のアン」の影響と思い込んでいたが)は、実は三人ではなく、(いまでは障碍を持つ人物としてサークルには入らない存在にしている)しーちゃんがつけたらしいということ。

そのような記憶の間違い、それぞれの思い込みの交差のなかで、三人(と周囲)の関係が浮かび上がっていく。ディテールでしか演劇は物語れない。いや、ディテールにこそ演劇の基本があることがこの部分だけでもよくわかる。



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