Arts Calendar/Art's Report site/《KOGURE Journal》1999Q
<雨が降り注いで終焉にむかう。そんな物語はたくさんだ。・・その雨に濡れることを拒んで、ただひたすら疾走していくような物語はできないか・・>。
19:37〜21:22。作・演出の岩崎正裕が、立派で読み応えのあるパンフレットの中で、小堀純の司会により北村想と対談している。
まず、これを岩崎が書こうとしたのは:
今月は、天皇制とか戦後責任とかについてを重要なテーマとする、3つのステージを観た。息つく暇もなかった燐光群から、身内ねた的になってしまい残念だった劇団とっても便利『あの歌が思い出せない』まで。そのなかに、この太陽族作品も入るわけで、緊迫度や問題提起性は確かに燐光群よりも甘い部分もあるけれど、岩崎の持ち味の、現在の普通の家族と人びとの中に、このやっかいな問題群を落とし込む作業が十分に見られて、あれこれと考えさせられた。
勿論劇団の新しい魅力の発見も自分にはあった。宮司さんであり、火事(ホームレス二人による放火)の後にボケが始まって、戦争中の混乱の記憶が蘇る御霊神社の神主雨宮民雄役の南勝の奮闘。彼の姿を見ながら、かつての東京壱組が公演した「分からない国」を少し連想した。
この神社は、戦前は、帰らぬ兵士を南方や支那へ送り出す場所であり(精霊として帰ってくるけれど)、疑似宗教的な天皇制の側面を担う神道組織の末端拠点であったわけで、ご神体の鏡はご真影と同じような生死を左右するようなものだったのかも知れない。ラストの南勝のふんどし姿での終わり方(神社の後ろが教師と高校生が行ったラブホテルで、そこの赤いネオンがチカチカするのが効果的な美術)などは、冒頭のゴジラの来襲のようなシーンと繋がって、「ホームドラマ」に終始しない意欲を感じる。
でも、健気な長女としんのしっかりした次女、離婚間近の警察官免職した博打好きの長男。あるいは、やくざで純情なあんちゃん、とか雇われ巫女のリアリストぶりとかの「日常生活の描き方」が大切なベースを作っていることも忘れてはいけないけど。
ホームレスの二人(「作家」坂井と「役者」降矢)の存在も、ここの芝居としてはどきりとした。結構悪役に徹しているからだ。役者の方が途中で悪を続ける事に恐くなる、というのもなかなかに鋭い指摘。作家は観念的だから、役者と違っていくところまでいくのだろう。つまり、ここでは、偽善者の私たちよりもホームレスの方に真実がある、というような紋切り型ではない人物像がある。
劇団の新しい人たちも、高田達郎、前田有香子、そして田矢雅美と、徐々に力をつけていきそうだ。特に高校生永野役を演じた田矢雅美を見ていると、金田典子ももう若手ではない(古くなった、というのではなく、独特のキャラがごく自然に展開してきた、ということ)なあという感慨も沸いてくる。
校長が推し進める日の丸の常時体育館掲示と君が代斉唱の推進役が体育教師(高田達郎)であり、それに騙され子どもを下ろせと言われて家出するのが田矢が演じる生徒である。展開としては、永野が倒れた後宮司に神様と間違えられたりするが、音楽教師にほんとのことを話して、無事卒業できる結末。田谷の方に大きな破綻は生まれなかった。
逆に、教員室にいずらくなったのが、日の丸掲揚に反対する音楽教師高遠(岸部孝子)。彼女は卒業式の時にピアノの伴奏をやめてしまったのだ。歌いたいときに歌うべきだ、という彼女のストレートな神様への訴えがラストにある。ピアノの押さえる鍵盤の例え(彼女があえて弾かなかったピアノのキーがダブってくる)で、神様というのも人びとの求める心にあるものだ、というようなことも語られる。ここはせりふの文言だけでは鋭い切先は見えないのがいささか残念な所ではあるが。
一番自分として面白かったのは、高遠が憲法の「第1条」には国民の基本的人権や自由権があると言ったシーンだった。まったく客席の反応がなかったので聴き間違えたのか(「第11条」だと基本的人権だから)と心配でもあるのだが。これは作者の大きな皮肉=時代の批評(良心的な教師へも含めての)であると自分は思った。つまり、第1条(から8条)に書かれているのは、国民の自由や権利ではなく、戦前の憲法から継承しつつ(旧憲法の改訂条項によってこの憲法は制定された)変革された「象徴天皇制」の規定である。
憲法はGHQの若手が1週間で作ったというがやっぱり日本の国の憲法であるからして、「君が代」の国歌であるところの解釈(君=日本国民の創意に基く天皇)もこの第1条からでてきていることを忘れてはいけない、というメッセージなのではないだろうか。
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