こぐれ日録 KOGURE Diary 2002.7



157) 7/1〜7/4


7/1(月)

明後日の基礎ゼミワークショップ「本を読む」の発表のためのプログラムを学生が持ってくる。6人が発表するのだが、このプログラムを6人が2枚ずつ作って残りのゼミ生に渡すのだという。なるほど。

TAM研はのんびり。

ある学生が相談に来る。舞台関係のアルバイトを捜しているという。とっさに川上葬祭の資料の写しをあげる。(あとで株式会社流のホームページを渡すが、關社長の名刺とか案内状とかどこにしまったのだろう?)

茂木真弘『しもつけ盆踊り考』ずいそうしゃ新書4、(有)随想舎、1997.1。読みたい本がどんどん堆積されている。この新書は宇都宮市のセミナーに出席したときに買っていたものの一つだった。栃木県内の「盆踊り」をたどっていくうちに、栃木に流れてきた各地の文化が交流して栃木の芸能になっていく過程がよく分かる。

盆踊りの分類が興味深い。踊りの形態として輪踊りと流し踊りがあり、輪踊りにも右回りと左回りがあるという。右回りは「念仏踊り」系(つまり仏事系)で、「甚句」や「豊年踊り」系統(つまり神社に関するもの)は左回りが多いらしい。

「豊年踊り」系の盆踊りの歌詞は「七七七五」の甚句であるのに対し、念仏踊りから「祭文」(これは実は七七七五)を経由して「口説(くどき)」になると「七七七七」となり、歌詞での分類とも対応することになる。

この「口説」は越後瞽女によってもたらされたもので、夜通し踊るために瞽女による口説の歌詞の長さがぴったりだったから採用されたのだと言われている。「八木節」が創出されていく過程など民謡の動態的な研究はおもしろいものであるし、明治時代以降、盆踊りの禁止や自粛命令が各地であっただろうから、そういう面(歌舞音曲の禁止関連)を広域的に調べると興味深いことが出てくるようにも思う。

「南湖だんごななつ!」には出かけられず、つじとみで食料を帰ってきて冷蔵庫に閉まっていたら、続いてはなもつじとみでカレーの材料を買って帰ってきた。

7/2(火)

昨年度のゼミ生がクレーに興味を持ったというから買っていたパルコ美術新書『パウル・クレー』(94.2、PARCO出版)を電車の中で読んでいる。著者は、カローラ・ギーディオン=ヴェルカーというクレーを知る女性で、これは証言的評伝に分類されるもの(1952年に原形が書かれ、1961年に出版)。その後クレーについては綿密な研究がなされているので、この本は客観的な研究と言うよりも同時代を知る人による評価の有り様が分かって面白い。

でも、クレーが語る言葉をもっと知りたいと思わせるのに十分な小冊子だった。
《芸術は見えるものを再現するのではなく、見えるようにすることだ》(1920『創作に関する信条告白』)、こんな短い彼の文章を読むだけで心が騒ぎ出す。

今日の立命館大学アートマネジメント論は小テスト(といえど、60分間も時間があるのでいるので本テストと同じ分量ぐらい書いてくる学生もある)なので、出かける前のんびり。そこで未読の本の山から、『マクドナルド化する社会』(ジョージ・リッツア)を抜き出して読み出す。

「マクドナルド化」と呼ばれる合理化は次の4つの基礎次元からなる。すなわち、『効率性、計算可能性(定量化)、予測可能性、制御(非人間的な技術体系)』という次元である。

マクドナルド化における脱人間性にくっきりと対峙する形で、限界芸術と先端芸術を中心とするアーツを説明する。そうすれば労働と仕事や活動の違いというハンナ・アーレントの図式とも接合してもっと理解が深まる。読みだすと次第に興奮してくる本だ。ホロコーストがマックス・ウェーバーが定式化した近代化における「形式合理性」の最も非合理な極限であるとする説明にもどきりとするし。

さて、立命館では、高橋君による劇団衛星のプレゼンテーションが終わって、小テストのはじまり。『社会とアートのえんむすび』第3章を1人のアーティストをピックアップしながらまとめて自分の意見なり感想を述べるというもの。一つだけ、《「社会とアートとはどういう事か、「社会」をどう位置付ければ、こういう発想が浮かぶのだろうか。・・」とだけ書いてアーティストも挙げず、問いに従順に答えることを拒否している答案があった(もちろんテキストなんぞ読むものか!という姿勢)が、もちろんそういうものも163個もあれば出てくるのが自然だろう。

従って実質162名(欠席した人は次週、B4用紙に書いて持参してくださいね)のうち、圧倒的に多かったのが川俣正で58名、次に宮島達男で33名、きむらとしろうじんじんはビデオの影響もあるし、じんじんさんのファッションが魅力だったからか、28名と健闘。

そして遊び心が通じたのか、身近さ(大阪環状線から実際に見ている学生も少しいる)なのか余田卓也がなかなかの人気で16名、そしてOS説はもっと引用が多かった藤浩志が、主要な紹介分としては11名と続き、小沢剛もテキスト的には紹介が少なかった割には10名、そして、ナウィン・ラワンチャイクンはビデオも映さず資料も補足しなかったが、6名の学生によって取り上げられていた。ヴォッヘンクラウズールも文中にはときどき引用されている、社会問題への介入として。

まあ、選挙ではないからこれをどうみるかなんて無意味だけれど、一番はじめに詳しく村田さんが解説したから川俣正が多かったのだろうしやっぱり有名だというのも関係しているかも知れない。それよりも、みんな自分で考えている部分があって、それはとっても新鮮だ。

以下、答案からそのあたりを少しピックアップしていく。
・美術館などで「アート」というシールが貼られた作品は誰が見てもアートと言える。だってシールが貼ってあるんだから。コミュニケーション型アートにはシールが貼っていない。結局そこだと思う。社会的に、アートとはかやの外にあるモノとして認識される。シールが貼ってなきゃアートでない、そんな声が大多数であろう。貼ってないシールを見極めること、シールが必要ないこと、アートという言葉がなくなること。・・芸術は社会にそんなことを求めているんじゃないかなあ。

・アートは社会生活を楽しく、活き活きさせてくれるものである。しかしアートというと、わかりにくい、難しいというイメージがある。それは有名な作家によって描かれた絵画などをアートとしてとらえる固定観念があるからだ。しかし「コミュニケーション型アート」や限界芸術といったアートは、「あ!こんなアートもあったんだ」「こういうアートなら私も関わっていけそう」と思わせてくれる。つまりガチガチに固まっていたアートを柔らかいものにしてくれる。

・先日、藤本由紀夫の「美術館の遠足6/10」を見に行った。私自身、これまで芸術・アートを勘違いしていたことに気づいた。・・この日の作品はことごとく私の意識を180度変えた。・・落ち葉が一面に敷き詰められた部屋。思わず素足になる。座る。寝ころぶ。そのうちに知らない人同士、知らない大人と子ども、親子が何の挨拶も交わさず、全員子どもに返ってはしゃいでいる。私は思った。「アート」とは人間が生物であることを思い出せてくれる方法ではないかと、野生部分の叫びではないかと。・・
(これ以外の解答は、後ほど配信するアーツ・カレンダー「こぐれ日記362」をみてね)

書き綴っていると、「君たち、これからの人生しなやかに生きてね」とエールを送りたくなる答案が多くて(うるうる)、ここに書き出したりしているうちにあっという間に夜が更ける。

その他、『「こどもしょうてんがい」を調べていて、バザールカフェと小山田徹さんを見つけた』なんていうものもある。「ピカソのゲルニカ=反戦がテーマ」話は答案によく出てくるけれど、他の講義で出てきたからだろうか。

7/3(水)

生ゴミの扱いをサボると部屋の異臭が大変。女房のありがたさが身に沁みる昨今。
先週のゼミで雨の心配をしていたが、今日はそれよりも日なたで「本を読む」には余りにも暑すぎる天候となった。アーツリボンゼミのワークショップ『本を読む〜はじめて声を伝える試み』(第1グループの6人)が始まる。

ちょっとゴミでも掃除しておこうかと清風館の1階ピロティに降りると、こりゃなんだ。階段下に犬のウンチが鎮座して臭いが籠もっている。慌てて、水で流す。少しいいかなと思いつつ教室へ。たまたま、金武ゼミも一緒に聞いてくれることになった(前半部分)。

みんなと一緒に来る。どうも、たちばな軒先劇場の異臭が抜けない。おかしいなあと思ったらもう一つ隅にお土産が落ちていた。これに気づかなかったのは失敗で、どうも読む方も聞く方も集中が途切れたりするのは、この臭いが原因したのかも知れない。あと、外の車かなにかの音も影響がある。

始まりは宮尾昌代「海馬が耳から駆けて行く」。ヒーローについての部分。誰かのエッセーだ。観客がこんなに多いのなら、宮澤賢治のままにすればよかったなあと言っている。彼女も含めて、このコンクリート広場の具体的にどこに立ってどれぐらいお客を近づけて(あるいは散らして)読むかということをあらかじめ想定していなかった。このあたりは、発声とか声の向きとかも含めて簡単なリハーサルをしてもらっていた方がよかったかも知れない。

宮尾さんは桜の木の下に立って読む。下を向いたこととすぐそばの資材置き場が意外とうるさかったことでちょっと声を届かせるのに苦労していた。でも、トップバッターは大変だ。4番目に読む杉田さんに司会をしてもらった。これも初めから伝えておくべきだったかも知れない。でも、私がするよりも何となくほほえましい。

次は、三大寺さんの司会で、原田絵里子「モペットちゃんの話」。絵本を見せながら読む。ただ、残念なことにピーター・ラビットの絵本が小さいことが苦労した点。彼女もひらがなばかりで読みづらかったと言っていた。ただ、声の響きも違うし景色が変わる点に金武ゼミの学生が興味を持っていた。

久野若菜「デューク」。彼女はお祭り人間でワールドサッカーのときは大変だった。若松、じゃない、浜松の祭りの参加ぶりとか、彼女が「広告代理店」志望なのは分からないでもない。まず学生に目をつぶってくださいという。コピーしておいてその紙にマークしたものを読むなど、工夫の跡があった。大きな声でゆっくり顔を上げて読む。彼女が本屋で立ち読み状態のときから泣いたエッセーだとアフタートーク(司会は二村さん)に言っていた。

杉田ちえみ「326」。本当は日の当たる階段で読もうとしたが、階段もちょっときたないのでやめた。この本も絵があるのであとのトークの時に絵が見たいというリクエストあり。動きながら、みんなに絵を見せながら読んだりしたら面白いのだが、そういう演出まではまだまだのようだ。

三大寺亜弥「まどから★おくりもの」。彼女と二村さんははじめ花階段でする予定だったが熱すぎて、学生がよくたばこを吸っている蔦のベンチのところで読む。ここは、なかなかに快適(大勢は無理だけれど)で、緑陰ののどかな雰囲気が良く出ていた。この絵本は仕掛け絵本で、弟のものだが、よく保存されているのはきっと愛着があるのだろうという。クリスマスプレゼントの話なのでそういう話題が一くさり交わされた。

最後は二村陽子。彼女はおとなしそうだが芯は強い感じ。選んだのは「グリム童話」。何を読むのだろうかと思ったら、みんなに、3つのタイプのものから選んでくださいととまずいう。リクエスト方式を考えたのだ。怖い話の希望が多く、それを読む。みんな童話は実は怖いのだという話をシンデレラの原作とかで良く知っていてそういう話題が交わされる。

さて、来週はどうだろうか。昨年よりも余裕をもってやったつもりだが、少しリハーサルをしたあとにする方がいいかも知れない。シアトリカル應典院での公開ゼミの担当が久野、三大寺、原田という恥ずかしがることの少ない(今回のゼミ生は恥ずかしくてなにもしゃべられない学生が昨年より少ない)連中だから、應典院でもやってみようととけしかけたい。

昼は京都橘女子大学文化政策研究センター運営委員会。8月のスキルアップ講座が定員の20名に達して、いくらぐらいまで許容するかという嬉しい相談。29名までとする。

13時から総合計画委員会。落ち着くところに落ち着く。そこでの話ではないが、入学課の人が最近は高校生の説明会でも4人に1人は文化政策学部希望だという。ちょっとは認知されてきたか。

教授会に学部教授会。間にAO入試の質問について微調整があったり、大津市に事務所がある音楽のお届けNPO法人の人に会ったり。そのあと、第2学生会館で組合主催のバーベキュー大会。あまり飲まなかったので気持ちよく帰れる。

7/4(木)

コンソシアム京都。「アーツ&セラピー〜芸術とまちづくり」は先週に続いて今井祝雄さん。震災後のアートスケープというテーマで前半は震災がらみのスライドを見せていただいた。最近ご無沙汰の南芦屋浜震災復興住宅もまた行ってみたいと思う。学生もイチハラヒロコのピロティ作品に感じるものがあったようだ。後半は先週の質問に答えるかたちで自作のパブリックアートをどういう形で注文を受けどれぐらいの予算で制作するかという微妙なところを教えてもらう。

50名ほどの受講生の感想を以下書いておく。(来週で講義は終了だ。明日の朝にでも珍しいことだがレジメをあらかじめ作ることにしようかな。)

《今井先生は、作品を作品のためにつくっているのではなく、それを通してその場の空気をよりよいものにし、さらにはもっと広がってその地域全体の自然や住人の歴史が思い起こされ再び生き返るような視点で計画されていてとても共感しました。ウディコ氏の広島でのプロジェクションが印象的でした。わたしは地元が広島市なのですがそういった活動を全く知らなかったので少しショックでした。》

《町にパブリックアートを置くということは、そのモニュメントの作家だけでなくそれを企画する町の役人側のセンスがすごく重要ですね。置く場所や回りの雰囲気と合うかどうかでせっかくの作品が死んでしまっては意味がないと思います。・・私の地元はギョーザが有名なので駅前に「ギョーザの女神」がてっているのですが・・私たちにとっては恥です。》

《それにしても、日本でもいろいろやっているなあ、と感心しました。「くさいものにはフタ」ではなくて、「くさいもののフタを取る」アートがこれからたくさん出てくることを期待します。》

《パブリックアートは公共性のあるものだというが、製作側の意図と地域に暮らす人々それぞれの主観が一致することは本当にあり得るのだろうか。アートとは何なのか、ますますわからなくなってきました。》

《万博公園には何回も行きましたが「太陽の塔」が建造物とは知りませんでした。巨大なモニュメントと思っていました。あの中に入れて階段をのぼったり外が見えたりできるならおもしろいなと思います。先生がおっしゃっているようにあそこに岡本太郎美術館ができていたら素敵だったのにと思います。》

京都府立府民ホールアルティに行く。チラシ置き場にコンテストのチラシが置いていなかったので忍ばせる。なぜか招待券をもらったから行ったのだが、6000円もするのに大勢来るものだなあと嘆息する(広い年代の女性層と年配の夫婦づれ)。私には、マクドナルド化でお馴染みな用語になった「予測可能性」に満ちたものだった(私にとって大切なアーツの価値は予測不可能性にある〜アーツとは「未来はいまだ定まっていない」ことを実感させてくれるもの〜ので、逆方向なわけね)。

つまり、狂言タレントのなかなか世慣れた芸を見てモーツアルトの歌のメロディを編曲(トリーヴェンゼー)した細切れの管楽(コントラバスの人がコンダクターみたいな役割をしている)を聴くというもの。『狂言風ドン・ジョバンニ』、狂言師茂山宗彦、ドイツ・カンマーフィルハーモニー/ブレーメン管楽ゾリステン。脚色・構成・演出/前原和比古。19:05〜21:07。

ただ、アルティを熟知している船坂義一さんが下手の狂言師と上手のアンサンブルとを上手に照らし分けていた。


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