こぐれ日録 KOGURE Diary 2002.5



140) 5/3〜5/6


5/3(金、休日)

どこにも行かず、何もせず(これが難しい)。
まあ無理せず、少し前に読んだ本をここで整理しておこう(ほらね)。

book offにて半額で買った多和田葉子『ゴットハルト鉄道』講談社、1996.5。標題の小説はスイスの長いトンネルに入り込む旅行の話。この手の物語は前にも読んだことがある。多和田葉子の1つの形。
次は、少し長い『無精卵』。閉じこもった女性の自閉的な幻想的な話。いまいちぐっとくる感じが少なく少し気持ち悪い程度。
最後に『隅田川の皺男』。3つの中では一番初期の作品。お能の「隅田川」の下敷きがあって、これはなかなかに読み応えがあった。

保坂和志『世界を肯定する哲学』ちくま新書283、2001.2。
「私が生まれる前から世界はあり、私が死んだ後も世界はありつづける」。小説家がその成立根拠となる世界観をきちんと自分のことばで説明しようとする本。とくに「言葉で説明できない」ということの大切さ。リアリティのこと。夢の真剣さなどについて。

多和田葉子と保坂和志は私の中でとても大切な文学者だけれど、扱う素材は両極端かも知れない。幻想と日常。だが、大きく内容は違うけれど、その形にどっぷりと浸かって作品を量産しているのではない点では共通している二人なのかも知れない。

特に保坂のこのような哲学するまじめな論考を読むと、小説を書くこと自体を自分の言葉で考え説明しようとする(=哲学する)ことは、(美術、演劇ダンスともみんなそれにつきあたるのだろうが)、プロとなることと同じぐらい当たり前なことなのだと思う。

《「リアリティ」とは、何らかの“事態”に直面したときに、「私」の中で起こっている、言語による処理能力をこえた〈事態〉のことである。》
“事態”の方は「私」の外で起こるもののことで、〈事態〉というのは「私」のなかで起きるのだが、「私」の脳の処理能力をこえるものを指す。

《・・「私の死」の可能性によって世界が存在を始める。世界というものが存在をはじめるときには、つねに「私の死」の可能性が畳み込まれている。
《「リアリティ」とは、この「世界が存在をはじめるとき」にほかならない。・・・
《世界は言語というシステムによって考える私の処理能力から逸脱したときだけ立ち上がる。それをもたらすものを「リアリティ」と呼ぶ。・・》

《・・「理解する」というのは、本来が「わからない人にはわかならい」という性質のもので、近接する知識が事前に何もなかったら理解することはできない。「理解する」というのは、「車とは××である」「雲とは××である」という風に、項目を1つ1つ転写することではなくて、その概念を使う精神の状態を引き継ぐことだ。》

《著者(文学者・哲学者)は言葉に先行する驚きに対して近似的な言葉を当てはめていく。読者は近似的な言葉を頼りにして、言葉に先行する驚きに向かって逆のプロセスを辿っていく。》

これは、まさしく芸術に対してレビューを書く私たちのことを言ってくれている気がするなあ。芸術とは、彼の思考過程から導くと、「説明できてしまう紋切り型の概念に先行するもの」、「説明できない言語表現、そして言葉の少し前の肉体、あるいは肉体を持つ前にあった世界に対する驚き」ということになる。

《素朴に“言葉に先行したあった考え”というものを仮定するかぎり、ハイデガーの驚きもヴィトゲンシュタインの驚きと私の驚きは「同じもの」ということになる。しかし、“言葉に先行したあった考え”=驚きとは、費やされた膨大な言葉を経て、遡行的に現れてくる、と考えるべきなのではないか。書いても書いても一番最初の驚きに命中しないという思いによって、一番最初の驚きが“一番最初の驚き”として膨らんでくる、というようなものなのではないか。》

BS2で昔のシンガーソングライター夢の名曲というのを見ている。吉田拓郎が2度も出て、それも最後にまたつまらないのをやったのが気色悪いが、吉田日出子が西岡タカシにインタビューする映像などもあり、さきの好きな友部正人やエンケンなどそれなりに面白かった。佐野史朗がDJ。

5/4(土、休日)

今日も何もしないことにした。服部緑地野外音楽堂「春一番」に行こうと思っていたが、昨日の番組でまあいいやと言う気になった(金延幸子は見たかったが)。椥辻のツタヤでクレヨンしんちゃんなどを返して新しいものなどを借りる。

ついでにけいぶん社一乗寺店へ寄り、100%ORANGEが絵を担当した「セラフェット〜ふたつのバースデーケーキ」(いがらしろみ作、トリコロールブックス、02/5)と100%ORANGEが初めにのっている「コミック.H」のほか、「瞳子」(吉野朔実)、「“徘徊老人”ドン・キホーテ」(しりあがり寿)、「日記の虚実」(紀田順一郎、古本で300円)を買う。

惠文社の奥にあるアンフェールで“ウラ”モリカゲシャツを展示販売。でもM以下なので私には買えない。さらにここの近くにある、身体に良さそうなカフェきさら堂に行くが、満員で入れず。残念。

今日の電車の中などで読んだ本:港千尋『洞窟へ〜心とイメージのアルケオロジー』せりか書房、2001.7。洞窟壁画を中心とした「先史(旧石器)芸術」を巡る論考。ネガティヴ・ハンドの謎、美術の起源にあるプロジェクションの神話、ニューラル・ダーウィニズムなどなど。

(詳細はアーツ・カレンダー「こぐれ日記343」を読んでください。この連休中に日記は書かないつもりだったけれど、本は別ということで)

本を読んだ後、借りてきた『三月のライオン』(矢崎仁司監督、118分、119分)を見ていると、はなと仁君が帰ってきた。昨日は閻魔堂狂言を観て、今日はそわかで山下残=かなもりゆうこの名作を鑑賞しての早めのお帰りだ。4人でゆっくりしたバブルの東京の叙情詩を見ている。

昔この映画の制作をした人の話を聞いたことがあるけれど、それ以降元ぴあ総研の人たちと仲が悪くなったから、いまはもうつき合いがない。
趙方豪の早い死はほんとうにもったいないことである。アイスばかり食べていた由良宜子という人はあまり見かけない(インターネットで調べると怖い映画に出ているようだ)。

5/5(日)

こどもの日ということでもないが、クレヨンしんちゃんの映画2本目鑑賞。今度は1999年の『温泉わくわく大決戦』。本題に入る前にいろいろな映画のパロディなんぞもあり朝食を食べながらはなに解説。110分と長くて、朝からビデオを観ると疲れるので一眠り。うーん、休日らしいパジャマ姿である。これをみるとダジャレ(掛詞)とパロディ(本歌取り)が日本の伝統的な芸術手法だということが分かる。

どんな反応がこの映画にはあるのか検索エンジンで調べてみる。なかなかの好評(でも「おとな帝国」をみなくちゃいけないわ)。ちょっと他人様の日記を引用する:「ちょいちょい日記」(日記才人)より(どうも岡山大学のそばの人みたい)

《「クレヨンしんちゃん・温泉大決戦」を見る、おっもっしれー、最高!こんな良質の作品を子供のものだけにしてはいけない、監督は日本のティムバートンこと、原恵一!この人凄いよ、「ドラえもん」の映画の最高傑作「のび太と鉄人兵団」の監督だ、俺、子供の時見て、大泣きしたなあ、気持ちいいなあ、人間としての尊厳バリバリに感じるなあ、日本映画が失った魂あります、まだここに、こんなとこに、どっこい生きてるんです、消してなるもんか。
これこそが映画です。なんて熱く語っても、誰も「しんちゃん」なんて見ないだろうな。「暗黒タマタマ大追跡」がお進めです、無反応だと思うけど、一応。本当の映画です。》

せっかくいいダンスや芝居を見たのにこぐれ日記で配信しないなんてもったいないようだが、オフなんだからそれはぐっとがまんしよう。やっぱりただただ余計なことを考えずスケベ根性を押さえてステージを見るという姿勢(頭を空っぽにして待つ)は鑑賞の原点ね。

ギャラリーそわか『VideoRally展』。キュレーター福永信。この人ってギャラリーの事務室にいる目のギョロッとした人かな?2階に上がって芳江とまだ準備中ねと話す。ダンスが終わってから残さんにあれが関口国雄作品ですよと言われて、また上がる。いつもはあいていない扉が開いている。

入り口にフジタマ「ひかりのくに」。オレンジと白の大きな紙切り遊び。奥にフジタマのビデオが流れているがちょっとしか見なかった。地下は真っ暗なカワイオカムラの新作「a Drill in Ficohin/ヘコヒョン・ドリル(反復ヘコヒョン演習)」。おっさんたちの群像。雨森信さんが来ていたので、映像にかかわるNPO法人を作るのねと話す。

かなもりゆうこ・山下残ダンス作品「マラカスをふりまわしたら歌ができた」(97)。白い部屋。黄色の巻紙がダンス前は敷いてある。緑の風が扇風機で舞(待)っている。とざきまなみちゃんが眼鏡をかけて納谷衣美さんらといる。納谷さんをはるかに追い越していまや古川千晶さんと同じ背丈。6年生のときのはなを思い出す。一番はなが変わったと思った頃だ。

ちょうどいいぐらいの満員。まなみちゃんのアーツのなかでの成長の記録の始まりにまた出会う。「美術とダンスの歌垣」(どう、このフレーズ?)。スライドの速度が残の踊りの質を作りその踊りのあとにまた映像が始まる。

照明/吉本有輝子。最後の小声鼻歌の山下残が心に残る。
薄暗いなかでの小声の童謡でのゆらゆら踊りとともに、かなもりワールドとシンクロする残ダンス。初々しさが溢れるステージだ。その初々しさが風化しないことに驚く。もちろん、かつてみた山下残と同じような動きながら着実に彼の中のダンス強度は増していることがはっきりと感じられる。

美術としての批評をもしするならば、残君-ゆうき君、千晶さん-まなみちゃんの縦軸と残君-千晶さん、ゆうき君-まなみちゃんの横軸の関係に絞って考えるといいのだろうかというスケベ心も出るが、今日はそれはしない。ただ、ダンスも一回性にこだわるなんてばっかみたい、と思ったことだけを書き付けて。

なんか、書きすぎた。アトリエ劇研へ。ショートヘアが可愛い横堀さんも同じルートだった。役者をやっていた中川祐子さんが今度は個展を開くという。自転車で杉山さんと二口さんに追い抜かされる。√TAMの安藤さんは今日も入り口で靴袋を配っている。

アトリエ劇研 Package4 B-Pack、19:57〜20:42」(二人芝居は始まりから19:57まで)。
まず、劇団飛び道具二人芝居『少女時代』作/演出:大内卓。よく作られた分かりやすいストーリー。『刑務所を出た。義足を売る旅に出た。それから?』ジム・ジャームッシュの映画の出だしみたいだ(中身は違うけれど)。二人の西洋人風会話劇。

全編を流れる哀愁のコンビ、ピカドンによる少女の走る影。腐る足。善人たちの殺人(奇形児/絶頂殺人)。
藤原大介も山口吉右衛門もいい役者である。椙本雅子とお箸のダンスを二人がしたが、特に吉右衛門が踊れなくて、ああこの人は台詞の人だと思う。衛星の役者たちとは違ってストーリーがこびりついているのがこの劇団の味なのだろう。その不器用さが面白い。

お芝居の始まりに、クルースタシアの濱谷由美子と椙本雅子が白い姿でお花を客席に配る。こんなシーンがもっと挟まるとよかったのに。ちょっとミュージカルぽくてね。
そうそう、前席でお花をもらって恥ずかしそうに喜んでいた星野明彦さんが「シアターアーツ」に上念省三さん(この前の北村成美=衛星のステージ話を清水君としていた)らと一緒に文章を書いたとわざわざ教えに来てくれた。「シアターアーツ」とかなんだか苦手だがどこかで読まなくちゃ(同じく苦手なびわ湖ホールに行くとあるんだが)。

『Rassel as corroborate』は前に見たことがあるように思う。クルースタシアがかなり深刻なシーンを作っていて、振りはいままでを継承したコケティッシュなままなのでそのギャップが興味深い。ある所へ向かう途上の作品のようでその全容はまだ見えないもの。4人の絡みのシーンなどは少し単調。

帰ってクレヨンしんちゃんのテレビ傑作選1「おつかいに行くゾ」を見る(1996のビデオ、73分)。一番昔のを借りてきたのでたんぽぽも生まれていないし、ママの顔などがかなり違う。小気味のいい悪ガキ(スーパーキッズ)だ。旭堂南湖さんも、碧水の上村さんが昨年のナンバー1にあげていた「大人帝国の逆襲」を見て感動していた。いずれ借りてみなくちゃなるまい。

5/6(月、休日)

休みの最後。朝から『Love Letter』(岩井俊二監督、117分、1995年)を見る。うまく作っている。中山美穂はこの映画にあるようにショートの方がずっとかわいい。こじゃれた仕掛け。一目惚れについてのくだりがうまい。「3月のライオン」のときもそうだったがはなと仁君がいるときにラブシーンを見るのはなんとも奇妙な感じがする。いまワープロ専用機ってあるのだろうか。

久しぶりに現代音楽。16:08〜17:59。曽我部清典ソロライブ「伝統とテクノロジーの狭間で」。トランペット、コルネット、ゼヒュロス。柴島(くにじま)駅に初めて降りる。淡路の手前、とても近い駅だが、読み方も含めて初めてなので遠く感じた。

萬福寺。会館とともに、本堂でも演奏。本堂での2曲は場所もいいし、自分的に好きな音楽だった。声とラッパの相関関係に心が触れる『超人降臨〜セブン vs ツアラトスタラ〜』(後藤國彦作曲、パーカッション演奏も)と大阪万博の時に演奏されたという『シーズンズ』(武満徹)。この曲(というか俳句や天気予報も読む四方からのパフォーマンス演奏)は余り自分にはピンとこない幾多の武満徹曲の中では抜きんでて好きだなあと思ったが、単に環境と演奏者(大滋弥恵麻、寺本正尚、後藤國彦それにもちろん曽我部清典)がよかっただけかも知れない。

中ザワヒデキの回文(と上行)の音形による方法音楽(後ろに数字を貼る)、インターナショナルのコンピュータ音楽(三輪眞弘+佐近田展康)、オノサトルのマリリンモンローのバースデイソングが第3部。そうそう、田中えりかの「TAX FREE」は生活音楽的な即興性もあり、環境音楽のようなサロン性もあって、興味深いもの。特にきーきーいわないのがいい。

始まりの第1部は、ジョン・ダウランドのあと(この楽器がコルネットというのだろうか、丸いかわいい楽器)、径(武満徹)、メラフィジカル・ビーツ(大滋弥恵麻、音の揺れが素敵)。どちらも、ミュートを使ったり外したりと大変。40人ほどの聴衆。曽我部清典は和歌山に3日間ほどいて風邪をひいていた。よく分からないがちょっと音が詰まったり揺れたりしていたような気もした(特に始まりの「涙のパヴァーヌ」のとき)。

アンコールは3つある彼のCDのなかで今回は1曲も演奏していなかった「Old New」という曲。

講談とか寄席ではコンサートライブのようなアンコールがないので、それをしたいというのが、続いて聴いた、旭堂南湖による茶臼山舞台でのことだった。
『南湖だんご むっつ』〜旭堂南湖話術研究会〜(講談と落語と滋賀県)。19時に始まる前に座談会をする。なんでするかは、講談や落語では座談会は珍しいから。もうただそれだけのあほらしさがいい。

アンコールもそうだ。落語をした桂紅雀(いらち俥)のあとに、アンコールをさせて、南湖を登場させるというのは、何ということ!と紅雀があきれていたが、それもまたおもしろい。紅雀の後輩いびりという前振りがよかった。

「阿弥陀池」をやった桂歌々志は一覧性双子で千葉大学出身という。彼もなかなかに面白いがけっこう口が悪いところもある。落語というのはほんとにパタンが一緒で、おちょくられたちょっと抜けた主人公が、すぐに同じ手法で他の人に「おちょくり」をしにいってとんまなことをする。

さて南湖3題。3つも演目をやったために、衣裳が2つしかない南湖は着替えを作ってもらわないといけない。
はじめの「黄門と淀屋辰五郎」はお馴染みのものだが、本題に入る前の光圀公の実際の話が面白い。大阪の講釈師が水戸から離れなかった光圀公を全国漫遊させたから、黄門さんは大阪弁でもいいのだという。

「新作講談・誕生日」はお母さんが亡くなって(ほんとかどうかは知らない)フルーツポンチを食べる話。南湖一代記というには、ちと若すぎるが。それもパロディか。けっこうしんみり聴けるし、そう聴くしかないじゃないか!。好きだと思う。

アンコールの「桃山風流」。しっかりした講談で、これをアンコールにするのはもったいない、というか、もっと軽いものが講談にはないのだろうなあ。「オクギ」と南湖が読むので「奥儀=おうぎ」とアンケートに書いたら、広辞苑によれば「おくぎ」と読むことも最近は認められていて(さらに、こちらが普通で「おうぎ」は漢語的表現だとすら新明解さんは言う)、かつ「奥義」が今風の書き方で「奥儀」は古いことにも気づかされる。


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