こぐれ日録 KOGURE Diary 2003.12
12/8(月)
こぐゼミの卒業研究についての発表。あと2名が残るのみ。話を聞きながら少しだけアドバイスするのが面白い。みんな悩んでいただけあって、何かちょっとつつくとすーっと納得するときがあって、みんなちょっと薄日がもれたって顔をしている。
大学院の集まりのあと忘年会。ビールを飲みながら、どうしてぼくがアルコールを飲むのかが分かったような気がした。そのままでいると、世界がずいぶんとちくちくクリアに見えたり、やけに厳密にいろんなことを考えてしまうので、そんなことに囚われずにいるため、脳内を麻痺させてしまいたいからなのだ。
来年度の2回生用の文化政策事例研究は、5名のようだ(追加もなさそう)。同じく3回生ゼミは、10名。いままで大勢の学生のお世話をしていたので、ちょっと人並みになれそう。彼女たちはまだ駆け出しなので、これからは、イニシャルで記述しておこうと思う。本人及び仲間は、その記号が誰かは特定できるから、それでいいし、その方がこちらも書きやすいからだ。
まず、事例研究のメンバー紹介から(チーム名はとりあえず、「こふきいわ」)。粉吹き岩?。(なお、以下ここに書いたのは、ぼくが書き出しを指定し彼女たちが志望動機として作文したもののほんの一部分である。)
Kh:アーツとは私にとって「生きる動力源」である。
Fk:アーツとは私にとって出会いである。芸術品であれば見た瞬間にひかれるような瞬間的な出会いや、その作家さんが作品に込めた思いやさりげないこだわりを知ってからじわじわと好きになる時間差の出会いがある。・・
Ky:アーツとは私にとって鼓動である。一瞬一瞬心が震え動き、人間のように呼吸している生き物だ。・・アーツをいかに鼓動のように生きている者の呼吸のように扱うかによって、大切な何かを発見できるような気がする。
Im:アーツとは私にとって夢に近づくための材料である。アーツを知り学ぶことにより、私の将来就きたいブライダル・コーディネーターへの夢へ近づいていきたい。
Wy:アーツとは、私にとって必要不可欠なものである。(彼女はチューバ吹き。)
つぎに専門ゼミのメンバー。10名なので、チーム名はもっとへんだがとりあえず、「うたのあす、やみやかみ」。歌の明日、闇や神・・うーん。
UC:私にとってアーツとは、ドキドキである。お芝居が始まる前にまっ暗になったときのドキドキ、初めてであったアーティストや作品にふれて新しい世界をみつけたときのドキドキ、私が生きている証し、心臓のドキドキはアーツに出会うとき、いきいきする。・・
TM:アーツとは私にとって感動である。・・今の社会はメジャー志向が未だに強く、多くのすばらしいアーツが未だに陰で眠っているように思う。(アーツに出会える多目的なお店が創りたい)
NM:アーツとは、私にとって『空』である。朝昼夜、晴れ、雨、くもり、春夏秋冬、それぞれの時間や天候により、それぞれの空がある。また、空には太陽や月・星・雲もあり、様々な演出をする。・・同じ空は二つとして存在せず、リアルタイムに変化する。これはアーツも同様に思う。空は誰にでも平等に存在する。田舎にも都会にも世界中のどこにでも存在する。外に出ればそこに空があるのに、人はたまに空を忘れることがある。また見つけられない人もいる。・・
AM:アーツとは私にとってなくてはならないものである。(彼女は現在積極的に劇団制作などのお手伝いをしている。そして記録をとっているので、それを活かしたいという。)
SM:アーツとは私にとってコミュニケーションの手段である。それは他者とのコミュニケーションの手段というだけでなく、自分自身とのコミュニケーションの手段にもなっている。・・将来的には、私が自分自身とコミュニケーションをして興味を持ったアーツを、他の多くの人に伝えて、コミュニケーションができるような空間(雑貨屋という形態で)をつくりたい。
YN:アーツは私にとって“新しい感動”である。・・今は演劇の世界にあこがれ、舞台に立ちたいと思うこともあるが、どんなカタチであれ、人に感動をあたえることができればと思っている。・・
MY:アーツとは私にとって外すことのできない生活の一部である。私は5歳からピアノをやっているので、いつも隣には音楽があった。・・
YK:アーツとは私にとって生きていくための元気の源である。特に今までミュージカル、ダンス、演劇、音楽など実演芸術に元気を与えてもらっている、(彼女は、OSKに出会ってダンスに興味を持つ。いまは、砂連尾理+寺田みさ子によるダンスワークショップを受講している。)
KK:アーツは、弓道が中心となっている生活の中で別の世界へ私を連れて行ってくれる存在である。
MK:アーツとは私にとって毎日に刺激を与えてくれるものである。・・絵画や演劇はもちろん生活の中の様々なものがアーツになりうる。中でも最近興味があるのが料理のアーツ性だ。・・私の好きなならまちにある「無っ空」という町屋カフェは店頭のフライヤーに「せっかちな人はご遠慮ください」というようなことが書いてある。・・
12/9(火)
午前中は神戸市の人たちが来て17日の会議の打ち合わせ。4限目は地域文化行政論。ユニバーサルデザインと文化行政について。何となくリラックスして話している自分がいる。6限目の大学院は2名の参加。斎藤さんがこの前のアベプロについての報告。照屋さんが沖縄の劇団創造の公演を見た話をしてくれて、ぐっと懐かしくなる。
火曜日は清風館を最後に出ることが多い。見回りのおじさんが来るときまでには帰ろうと思いつつ、またドアをノックされる。帰ると自衛隊イラク派遣のニュースをしている。そういう自民党や公明党などを国民の多数が選んだのだから仕方がないといえば仕方がない。分かっていたのになあ。自分たちだけの保身や利益ばかりを考えているとこういうふうになっていく。国会がもう少しきちんと議論できる場であって、意見を創出することだってできるのならばまた違うのだろうが。
12/10(水)
どうも突然電話がかかるというシチュエーションで失敗することが多い。実質的にきょうが最後のリボンゼミだったこともあって、その準備をしていたときに、後ろ向きな電話があっていらつき、ずっとそれが尾を引いた。
午後から京都橘女子大学文化政策研究センターの運営委員会。文学部から2名の委員が入ると緊張するがそれもまあアウトリーチか。
大学当局は、いま学生に2005年度改革の方針を伝えていて、こちらはいままでの校務日における会議、会議からは少し免除され、早く大学を出る。早稲田大学から同志社大学に来ている石井さんらがしている京都学生演劇展を明徳館1階ロビーでみる。チラシ(フライヤー)を丁寧に展示してあって、ぼくがずっとアーツにおけるチラシの重要性について考えていたことを彼女に話す。(うちの大学の劇団のチラシ単価が他に比べると高いのはどうしてかなあ。)
(このちらしもそうだが)月日しか書いていないのは、あとあと困るでしょうとか話す。ロビーで男女が手をつないでいちゃついている。すこし同大はリッツとはまた違う感じがする。
茶山へ。時間があったので、平戸チャンポンを食べる。京都芸術劇場春秋座のステージ上に座りながら、藤田一君もここは美味しいでしょうと言う。ホントにそうだ。でも、演奏中(これは前半だけだったが)、音に反応してお腹が鳴り(きっと消化管が反響したのだろうと思われる)、ぼくの各種臓器が消化液を放出するのが、それが個人的にあまりにも綺麗な音楽だった。これには困ったような〜隣の人は聞こえたかなあ、(いつもは意識できない自分の内蔵を聴くことが出来て)嬉しいような、へんな気持ちだった。
AnoDE。そういえば、このチラシも年が書いていない。それに、大友良英の言葉が「2002年7月記」とあって、1年以上も前の彼の言葉を使っているというのは、2003年12月の再演とすれば、ちょっとずぼらな感じがする。
思った以上に単調だったが、それでも気持ちがいい。後半の演奏のときはへそ曲がりだから動かずに聴いた。それも藤田くんが寝ころんで聴くと気持ちいいでしょうねと前半について感想をいうので、後半寝ころんで聴いた。見なくても、演奏の様子は耳でなんとなくわかる。
みんなはどたどた動いていて(自由をもたない回遊魚の群衆というのはいいすぎとしても)、よくぼくの身体に蹴躓く。そのたびにマゾヒスティックな快感が生まれる。顔をのぞき込まれるのも面白い。女性がふたりホントに丸太か死体でもあるように平然と跨いでいった。男はだれもそんなことはようしない。
他方、しずかに波動する前半は耳が洗われてずっともやもやしていた気持ちが綺麗に消散する。アーツはとくにあてがわれなくてもいいやと強がりを帰り鎌田さんにはいったが、やっぱりこういう類のアーツを1週間ぐらい体験しないとまだぼくも身体が壊れていくようにも思える。それすら何もいらなくなったときが、ぼくのハピーエンドのときなのだろうと思った。
12/11(木)
授業のあと、ホテルニュー京都へ。来年度の新入生キャンプのため。雨が降ったときに、京都まちあるきをどのようにアレンジメントするか。クラスやゼミの準備が必要だ。
雨。パソコンを持っているので移動が大変。心斎橋ウィングフィールド。再演大博覧会2003。1996年にOMSでみて、「なんと輻輳した絶望的に表層的なステージか〜世紀末だなあ、こんなに若い人たちなのに!!」と思った作品。
桃園会第26回公演『深海魚』。作・演出:深津篤史。はしぐちしんではなく亀岡寿行が車椅子に乗っていて、その分、身体的な現物の迫力が少し弱まり、ぎゃくに取り巻く人びとのテンションがずっと前見たときよりも強い感じがした。だから再演といえどほとんど新作のようだった。初演時よりもさらにざらざらした後味、諦観色に塗り込められそうになる。呼吸困難になる寸前の感触があった。
全体があまりにも突き放したものだから、最後の方の漫才がなんと面白いことか。世界は、この芝居のように不愉快で不可解でずいぶんと面白くないということ、どうしようもなく世界はわたしのそとにあってわたしを含んでいるくせに、しかも分かろうとか努力してもけっきょくはそれは分からないかもしれないということを知るために、欠かすことのできないデザートがこの漫才なのである。この漫才は、塩饅頭の塩なのねと気づいて帰る。
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