こぐれ日録 KOGURE Diary 2004.8
8/1(日)
碧水ホールへ。前もはなのライブの時、碧水ホールを経由したことを上村さんが思い出させてくれる。
『音楽ノ未来・野村誠の世界2004』。貴生川駅にて、宇治市平盛小学校の糸井さん、それに東京からの河村さん(アサヒビールのロビーコンサートで委嘱した「ごんべえさん」が洋楽器バージョンにて再演されるから来なくちゃと思ったということ)に福島さん(糸井さんと同じ小学校教員、エイジアスつながりの美術の先生でこの前野村誠さんらのNHKのテレビに出ていた)に会う。3人は、このあとの磔磔での小暮はなのライブまで来てくれた。
うちの院生も3名いる。いい感じでホールが埋まる。前半はステージ上にての演奏。それでも、子どもたちがステージの横の階段に座るなどアットホームな演奏で、確かに現代音楽のコンサートとしては異例だろうと思う。浅草で会った山口市のアーツセンターの人たちにも会う。昨日一緒だったはたさんに中西さん。アーティストの顔も多く、音楽関係以外にも、山下残さん、つき山いくよさん・・・。
ぼくが特に楽しく思ったのは、アヒルや豚に鍵盤ハーモニカを吹いて聞かせるという映像(野村幸弘)。その続きにMU楽団らの演奏中にやってくる小さな子どもたちのステージへの接近があって、実は人間と動物たちは地続きなことがよく分かる。実際に豚さんと一緒に音楽を聴きたくなった。あんなのどかな畜舎(においはあるだろうが)のそばで。
MU楽団というのは、若手のシリアス西洋楽器演奏集団なのだが、なかなかに面白いことを淡々としていて、音楽の世界も徐々に垣根がこえていく感じがますますする。たとえば、バイオリンを二人で弾いたり、ついでに頭も弓でこすったり。「自閉症者の即興音楽」における対話的な演奏(手紙的な伝達音楽)や映像での将棋作曲などなかなかに興味深いシーン多し。
後半はガムランのマルガ・サリの演奏(踊りなどパフォーマンスも)で「桃太郎組曲」。桃太郎は、舞台があるよりも音楽に集中できるが、それでも言葉の利用は多い。そして最後にワークショップ参加者(去年よりも多くまた年齢の層が幅広く、年配の男性やワンキーなおばさんもいて、見ているだけで楽しい)による「だいんだいん」。終了予定よりも長くなって、タクシーで貴生川まで行くが、結局、電車と同じだけ待つ。
磔磔には間に合うが、けっこうの人。92名だったそうだ。まず小暮はなが「夜」を歌ってこれからの進行を話す。ふちがみとふなとさんから。お二人はきちんと対バンとして演奏しつつ、少し控えめな感じもあり、かつ小暮はなの歌の感じと見合う選曲。船戸博史さんのソロも先行販売(買いました「LOW FISH」)しているので、それもPR。
次にはなをオフノートに紹介していただいたひがしのひとしさん。いつもよりも寡黙。亀が足指を舐める歌は、何とも艶めかしい(山田さんのハモニカの伴奏にもため息)。エロスと死が溶け合ってしまった夜のメルヘン。最後にとても若いときの作品(若いときに死を思った唄)を、自分の息子さんに聴かせるように歌う。
休憩のあと、関島岳郎×小暮はなで、アルバム「鳥になる日」を全部歌い演奏する(はじめに歌った「夜」をのぞいて)。順番も同じ。もちろん関島さんは曲ごとに一つしか楽器を使えないので、多重に使っているCDとは違うものになっているが、それでもはなのギターだけよりも幅が出るし、安定する。
はなはコンタクトが途中ずれたらしくて(まあそれをMCとして言うだけの余裕はあったということではあるが)、それが心配ではあったが、それ以外は安心して(「まぼろし」はちょっと危なかった)音楽を楽しむ。みんなが暖かく真剣に耳を澄ませてもらった賜だ。前日にずいぶんと練習して、からっぽになってしまった、と芳江に電話していた。そして、もう歌えないかもとか。でも空っぽになるぐらい前もって歌った方が今日のようにいい結果になることが分かったのではないだろうか。
CDを実家の親の分を含めて30枚購入。会場でけっこう買っていただいているようでありがたかった。丁寧に作っていただいたアルバムである。歌詞の部分が小さな詩集みたいになっていて、嬉しい。小暮はなの作詞は「詞」となっているのに、小暮さきのもの2曲は「詩」としてもらっている。さきまで、密かに小さなデビューとなった。
アンコールは、今年の冬に作った曲「空に雪がふっている」。歌詞は彼女の「つれづれ日記1/11」にのっている)。今日、リハーサルで弾いてそれを関島さんが聴いてバスリコーダーをつけてくれたということ。19時15分スタート、21時半ぐらいに終了。木村栄一さんらとふちがみとふなととの面白いセッション(8/27)などもあって、磔磔のスケジュールを見ると、たびたび磔磔に通いたくなる。
8/2(月)
昨日の余韻で一日を過ごす。さきは、大阪野田にCDを届けに行く。研究室に遅く出かけて成績をつけ教務課に渡す。アートマネジメント資格について打ち合わせ。申請する様式を作ってもらうことにする。すでにレポートを出してくれた学生がいたし、早く認定書を発行するようにお願いする。
田楽について聴きに来る院生あり。田楽の舞い(踊り?)と念仏踊りとの関係が気になる。宇治市で田楽を振興するのだという。
文春文庫『納棺夫日記』(青木新門)を読む。法然から親鸞への道を考える。なぜ浄土真宗になって、仏教は一神教的(他を排除する派閥性が強化される)になってしまったのだろうか。
8/3(火)
今日も、のんびり。
夕方、大阪成蹊大学芸術学部へ行く。
3回生の箕浦さんと阪急の普通でたまたま出会い、歩いていく。「月の下のカーニバル」。ぼくが長岡天神の降り口を間違ったので、ぎりぎり18時。ちょうど華乃家一座が入口で客寄せに演奏し出すところだった。
オープンキャンパスも一緒でミニ大学祭みたいな感じ。残念ながらお月様は顔を出さなかったが、かわりに虹が出た。JRのそばのステージで、客席との距離感があったが、それでも華乃家一座は客席へ届けるために、いろいろとアプローチしていた。華乃家ケイさんとかすみさんの南京玉すだれを見たのははじめて。古典的でさっぱりした演出。
そのあと、インドの古典舞踊オリッシー、そしてシタールとタブラ、タンブーラの演奏と続くが、雨が降り出してくる。はなも帰ってきていることもあり、途中で帰る。
8/4(水)
涼しかったこともあり、7時半ぐらいまで寝ていた。今日は、日中、ずっと冷房なしで家にいた。
7月があまりにも暑かったので、1ヶ月ぐらい季節が早く進行しているのではないかと思ってしまう。昼に大阪府庁の玄関のところで楽座事業があるので、これに間に合うようにしようと思っていたが、ついはなと一緒に、バッハなどをキーボードで演奏したり、チンドン音楽の候補曲を歌ったりしているうちに時間が過ぎてしまった。
京都府からいただいていたこともあり、京都文化博物館にて『日本画「京の今日」展』を見る。亡くなった方以外は、前期と後期に分かれていて、それでもずいぶんな量。一人一枚なのだが、テーマとか感じとかはかなり似ている。日展などにいけばいまでもこういう絵画が並んでいるんだということが分かる。
昭和16年につくられた京都日本画家協会のメンバー展。つまりは戦争翼賛のためにアーティスト達が結集した戦時体制が戦後いままで続いていることが分かって興味深い。
小学校に入って6年間、風景や人物、お花などの静物をよくみてこのような絵を描くように言われてぼくは急激に美術への興味をなくし、自分は図工が苦手だと悩んだことを思い出す。
そのなかで、上田とも子「本日は晴天なり」、西嶋豊彦「月と太陽」、杉本使聖「やすらひ」、白松茂郎「さざなみ」などは、突き抜けた青空が日本画ぽくなかったり、シンプルだったり構図がちょっと面白かったりで、ずいぶんと楽しかった。
アートコンプレックス1928のそばのコーヒー屋(タリーズとか言うスタバみたいな所、こういうところはどうして紙コップなんだろう、結構なお値段なのに)で読書。この前、平凡社新書231『採点!47都道府県政』(樺嶋秀吉)を読んだが(都道府県知事の変遷は、内務省=自治省のもう一つの歴史でもある)、いまは、ちくま新書477『地方は変われるか〜ポスト市町村合併』(佐々木信夫〜都庁出身、大昔に会った気がかすかにする)。どちらも後期の地域文化行政論あたりのネタになればいいなと思いつつ。
アートコンプレックス1928はおおぜいの人。太田省吾さんの顔も。座布団を持って畳の間に座る。両側には折り紙が置かれた座布団がすでに置かれていて、ここは登場人物が座る場所。トリコ・Aプロデュース『肉付きの面現代版〜絵〜』作・演出:山口茜。
出演者も選りすぐり。舞台美術(五木見名子)も廃寺の様子をとてもうまく出している。音響としての雨のおとも、外では(小さな颱風の影響もあって)雨が降り出していることもあり、うまく外と内が繋がっていて(たまたまだが)期待が高まる。さらに、ストーリー(古典を踏まえつつ、いまのイラク情勢などともリンクしている)もチラシや当日パンフで分かるし、配役も親切な解説がある。なかなかにとてもとても面白そうなのだ。
うーん。でも、実際は、どうしてこんなにまで退屈だったのか。きっと初日だったこともないわけではないだろう。
ともあれ、いまの関西演劇界に「ポストリアル」志向があるのはいっこうに構わないと思う(「静かな演劇」=「関係性の演劇」に飽きたからという理由は違うだろうが)。
けれど、前にWI'REというグループを見ても思ったが、そのための覚悟というか深層への切り込み(思いこみではなく)が、客席に伝わるには、けっきょくは、昔のアングラのように、強引なまでの訓練、恐怖政治すれすれの演出指示が必要なのかも知れない(良いことかどうかはおいといて)。
あるいは、身体動作の分節化や音韻レベルまでに及ぶ台詞の分解と再統合、意味の高度な分解と知的なずらしのハイセンス(なアーティストがいればその人によって)により、人間的であることの記号的なコンセンサスを暴くことで、ずいぶんと身体への探求を深めることでいくらかは可能かもしれないが(舞踊家に振付を助けてもらえばいいとかいうレベルでは、ただの難解で自分よがりのミュージカルにしかならない)・・・
いずれにせよ、闇を持たない役者たち、あるいは調整役的な演出家のさばきでは、なかなかに難しいのではないかと思う。ので、とりあえず、この手の作品たちがこれからどう化けていくのか、辛抱しながら観劇することを覚悟しなくてはいけない。
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