こぐれ日録 KOGURE Diary 2004.8



373.8/9〜8/12

8/9(月)

完全なお休みモード。一歩も外に行かなかった。
風邪はどうもしつこく喉に残っている。

今月号のビッグイッシューに比較的若い小説家の特集があって、つい何冊かアマゾンに頼んでいたら、まず、阿部和重『シンセミア』上下(朝日新聞社、2003)が来た。シンセミアとは麻薬の一種(マリファナのなかで効き目が強い栽培方法のもの)らしい。

分厚い。パソコンのある机から離れて、エアコンもなしに、ただただ夏の風の吹く窓辺で、あるいはベッドにごろごろしながら、読書することにした。『シンセミア』は、小説家の出身地、山形県東根市神町そのものをえがいたフィクションではあるが、日本の政治=文化構造を一つの小さな町をあぶり出す群像小説「わが町」である(神町は自治体ではなく自治体内のまとまりのあるエリア、大阪市のたとえば平野自治地区のようなもの。ただ、もともと「新町」といっていたことから分かるように、歴史はそれほど古くない)。

ちょうど暑い夏が舞台である。暴風雨で町が浸水する。シンクロするのは季節だけではなく、そこで起きている事件といま進行中の日本の各エリアでの事件、事故が連動し、響き合っている。これがコンテンポラリーということだなあと確認できる小説。ただデジタルカメラの盗撮が全面にあるように、リアルと虚構の出し入れが、不倫、リンチ、コカインや少女フェチなどの倒錯と連動していく。

出だしのNHKの番組叙述(いかに戦後豊作で余った小麦をアメリカ大統領が日本人に食べさせるようにしたか〜キッチンカーはまさしくパン食のアウトリーチ、学校給食への導入は子どもの時からの刷り込みである〜)から、これはただごとでないと思い、あっという間に、下巻になる。少し残して就寝。

こういうような、だれかを主人公として描くのではなく、町をまるごと描くことをしたいのだと、常に山科を描く術を思っているぼくには、とても参考になる。もちろん、こんなに人間の暗部を破局的に描くのではないとしても、まちづくりや住民の参加、自警団的なボランティア防犯などということにあるネガティブな面にもキチンと向き合うものができなければ、やめた方がいいと思っている。

一応パン屋の田宮一家が中心とはなるが田宮家の人びとはじめ誰にも全面的には感情移入できないようになっている(ただ田宮博徳が秘密撮影グループを脱会してからは、何とか助からないかとぼくは思ってはいた)。本の感想は、いろいろサイト上にあり、高橋源一郎などが中上健次と大江健三郎との間と言っていたり、だいたいそうだよなあと共有できる書評で、特につぎのサイトは詳しいし、なかなかに勉強になった。
http://www.mayQ.net/sinsemillas.html

8/10(火)

痰が出るのがずいぶんとましになった。
はなが来た。はながアイロンを欲しいというので山田電気へ。
芳江とかさきが使うウィンドウズマシーンを書く。NECのノートパソコン。人気らしくて一週間後に届くという。インターネット接続(無線)までお任せでしてもらうことに(これが2万円)。

テレビのないはなが美空ひばりの番組があると聴いてきたので、一緒にNHKの放送を見る。はなは、マリア・カラスが尊敬する歌手だと答えるらしいけれど、美空ひばりもきっと日本でははなが見習うべき歌手の一人だよなあとぼくは思ってみている。はなもそのあと、ひばりの唄がぐるぐる回って夜明けまで寝れなかったという。

8/11(水)

今日まで、まるで休み。どこも行かず。
はなが、インタビューをされる可能性があるなあと思って、まあ、親バカでインタビュー想定質問集を作った。それを芳江がインタビュアーになってやってみる。すると、なかなかに面白いので、今度ははながインタビュアーになって、芳江やぼくが答える遊びになっていった。

これは、ワークショップ(ゼミ)に使えると思う。

8/12(木)

今日だけ、お仕事。インターンシップに行っているうちのゼミ生野木さんへの激励訪問。芸術創造館の新しい館長とはじめてお話しする。前の乾さんから替わったので何かと大変だろうと思うけれど、、いろいろ話を聴くとよくこの短い期間に演劇について知るようになられたなあと感心した。分からないことが多いのは仕方がないことだ。

精華小劇場の資料をいただいて、NHK大阪へ。8/30の放送の打ち合わせ。年配の人たちの視聴者中心で、夕方の関西ローカルな軽いニュース番組のなかで、演劇について放送することのむずかしさを痛感する。いま観劇者を増やすべきは、(市場演劇=娯楽ではない演劇シーンでは)何と言っても高校生から以上の若い人たちではないかと思っていることもあり、居心地の悪い打ち合わせになる。

あとでいろいろ反省したりこういえばよかったのにとか思って勉強にはなった。たとえば、テレビやDVDの前だけでドラマを見るのではなく、自分で小劇場まで足を運び自分でその観劇について自由に評価できる自立的楽しさを若いときに体験することが、いつか重要なターニングポイントでいままでの役割という仮面をぬぐ際にとても役立つ可能性をもっと分かりやすく言えなかったかとか。

やっぱりぼくのテーマはまちとアーツなので、3人目の替わったばかりのデスクディレクターさんから、演劇そのもの、とりわけ、各劇団や作品について、お休みモードだったぼくは的確に答えられず、問いつめられたりして(アーツマネージャーが企業メセナ担当者へプレゼンするときみたいなシチュエーションだった)、面食らった。演劇は娯楽と思っているのを知ってびっくりもした。いままでずいぶんぬるま湯にいたので、こうして地域ホールの演劇担当者は予算査定とか受けているのだろうなと思ったりもした。

ただ、演劇とは絶望的なまでのコミュニケーションの不通に向かって行われる営為であるので、これこそ演劇的テーマでもあると思い直すことも出来る。もちろん、放送を仕切っている人が一番えらいので、まあ、無理なら無理で特に仕方はないのだけれど。

NHK側に理解があるかどうかはおいといて、公共性をになう劇場が、演劇の種をまき、その生長を確認することの必要性を中心に話そうと思う。これが「いまどき」な日本に欠けていていまにホントに必要なスローシアター的持続性なのだし、only oneに気づいた個人がただlonely oneに陥らず、unique oneへとたどる路に小劇場演劇はとても最適だと、30日には話して、あとはまあどうなるかはNHKの対応待ちと言うことになる。まあ、コンテンポラリーダンスを先にした方がよかったかしらとも思うが、どちらにしても、先方が変えてきた30日という日程の数日前の公演という短いタイミング(向こうの都合)で実演芸術をうまく報道するのは、かなり神経のいる作業なのだ。


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