こぐれ日録 KOGURE Diary 2004.2
2/27(金)
後期入試の監視と面接。
面接というのも一方的で権力的な会話ではあるが、少しでもリラックスして、何らかのコミュニケーションの場所になればいいなと思ってのぞんでいる。今回はとくにそんな雰囲気づくりができたかなと思う。慣れてきたから言えるのだろうが、こういうのも、演劇的な要素がいっぱいあるわけで、そういう面で義務ではなくやっていけばいい。
志望動機は?・・きっと台詞のように暗記しているのだろう。問題はそのあと。彼女たちが予想している関連質問も少しはしつつ、思いがけない話題にも触れる。でも、そこで黙ってしまわないような関連性をどう見つけていくか。ぼくだけでなくあと2名の面接官の質問を予想しつつ、15分間のやりとりを誘導していく。けっこう一回限りの舞台として考えられるものなのだ。ただ、夢中になってばかりもいけない。それが合否の判断材料になる内容でなくちゃいけないので。
研究室に、ボーダレス・アートギャラリーNO-MA『右脳バンザイ体験講座』3/20、京都大学総合博物館のチラシとNO-MAのレターが届く。障害者と一緒に行うワークショップが充実していて、はたよしこ「即興、笑える絵画」、山下残「私のダンスみんなのダンス」は超お奨めである。http://www.shabubar.com/event.html#noma
アイホール演劇ファクトリー第7期生結勝公演『ダブルキャスト〜一二の夜の迷宮』。シェクスピア「十二夜」をベースにそれを練習している女子高校演劇部のお話。脚本・演出:大塚雅史。かなり満員に近い。照明が派手ではじめはいろいろ見ていて楽しかった。演劇づくりの演劇というよくある内輪的なお話でずっと2時間(19時35分から21時35分)は腰にしんどさを覚えたのも事実だが、ファクトリーのメンバーはもちろん今日はじめてきた観客などから演劇に興味を持つ若い人が出たらいい。これから発表会ものには座布団を持っていく必要があるかも知れない。
2/28(土)
風邪は最後の所が抜けないでいる。それでも少しずつ回復しているのがよく分かる。足の裏のうおのめもまだ取れないが少し痛みがましな気がする(治るだろうという安心感が大きいのだろうが)。
はなは結局もう一度、東京で録音するということになったみたいだ。はなへの期待感が周りで大きいからそれが余計なプレッシャーになっているのかも知れないと反省する。
最後の大学院受験生の面接。面接のなかで、はじめてミュージアム関係の受験生で中身がある話をする人に一人出会って嬉しかった。ミュージアムは「あることを伝えるための手段」の一つに過ぎない、ということだ。
ミュージアムマネジメントは、アーツマネジメントとは次元が違うのである。もともとミュージアムも何かをマネジメントするための手段の一つで、アーツマネジメントのように、アーツという中身(これを目的化することの問題はあるが、また次元の違う問題である)をマネジメントする(何とか社会と関係づける)というのとは違い、ホールマネジメントなどと対応する技術的な言葉なのである。
さて、ココルームで朗読シンポジウムがあったが、間に合わず、アルティ・ブヨウ・ファスティバルの初日に行く。1年に一度、現代舞踊系のダンスを見る機会ではあるが、やけに台詞とかテープに言葉があって、これは流行だからなのだろうが、気になる現象(身体に信頼を置けない病理なんて大げさだけど)。逆に、古典的な菅原勝代現代舞踊研究所が5組のなかでは一番端正な感じがした。
一つだけ、コンテンポラリー(同時代的)。セレオグラフィカ×ゴゾウロップ『卵のコロンブス』。これが他のものと同じダンスかと思うほど届く量と質が違う、少なくともぼくには(5日間のフェスで、とくに3/6はお奨めだ。今貂子、森裕子、ケン五月、浜口慶子、それに少女がピコピコ動くOgino's&CORE)。
ステージに楽器が設定される。まだ始まっていないはず。準備も見せているのか自然体なのか。そのうち、何かを眺める二人がいて。これからのダンスをもう回想しているような不思議なはじまり。
ギターの坂間健一郎と隅地茉歩、ピアノの増田瑞穂と阿比留修一がお互いペアとなって、別々の曲で別々の動きをするところが特に楽しい。阿比留修一のダンス振付はクラシック音楽ならこうだという戯画的なほどのパタン化されたもの。
そのあと、思ったとおり、ギターとピアノが合奏して、二人も微妙な距離感を持つちょっとおかしなデュオに入るのだが、音楽とダンスの関係づくりの冒険を彼らは彼らのやり方でしているのだと思った。音楽もまたダンスと同じくこの身体とこの楽器によって、「ここでこうしていま出している」というだけのことである。電気で増幅したりリバーブしたりはするけれど。
舞台上〜時に舞台の下〜にあるその身体はその人の大きさのとおりで、それ以上に膨らんだりそれ以下に縮んだり閉じこもったりはない。何かを叫ぶために大げさな振付、映像、照明、台詞をわざわざ必要とするまでもない。少し背が低かったり顔が大きかったりしてもそのままを受け入れていく。そんな人と人が出会いすれ違うだけでダンスになる。見ていると何もウソをつかない安心感がじわじわと共感へと移る、それがセレノグラフィカなのだと思う。
2/29(日)
雨があがる。もそもそっと家を出る。
元町駅からの上り坂。ふと見やると参議院選の準備。また選挙?よくみると中学からのクラスメートの名前がある選挙事務所。そうか、辻君はここが選挙区だったのか(社民党の元党首と同じ衆議院中選挙区でいつも苦杯を舐めていたっけ)。(かえり、今日みた映画「ヒバクシャ」は彼のような政治家にこそ見せなくちゃと思う。)
鯉川筋が狭くなる。そこに神戸市の会議メンバーが降りてくる。この辺りに住んでいるのだそうだ。「キャップ?」と聴かれる。そう。ぼくがこの坂を上れば、それはCAP HOUSEに行くこと以外にはないか。(かえり、三ノ宮で一緒に見た野村誠さんと林加奈さんと再会。ぼくを紹介するのはむずかしいとかの雑談の中で、野村さんが言う、簡単だよ、「見る引っ張りだこ」って紹介すれば、と。大学でも教えているらしいけれど、とそっちはおまけに言えばいい。)
CAP Modern Prnt Exhibition。どういうグループか人選かは知らない。2階のギャラリーや小部屋、廊下と1階に少しの展示。17名の刷り物。知っている人は藤本由紀夫のみだが(「disk」という白い同心円に薄いピンクの色づけ。NORMAL BRAIN FRAGMENTと描かれてある)。
銅版画あり木版画あり。でもどこか共通する空気がある。沈潜しないなかの静かさ。表面的ではないが自己主張もないさりげなさ。たとえば、安井良尚のアクアチント銅板は、おぼろげな形象の「night fish」だったり「fish in the deep」だったりする。
さて、15時から重い映画を監督の話つきで見る。劣化ウラン弾という重金属による被爆という重さ。地球全体の放射能汚染という重さ。それが自衛隊派兵という今日性やマクドナルドのポテトや牛丼の牛肉とつながる日常性そのものとの関連という意味での重さ、よそ事でない重さとつらさ。そういう幾重にも連なる重さである。
下田展久さんから、長いですよ、と言われていて、今日もあいさつで東野健一さん(彼の紙芝居絵巻と大きく通る声、きっと山科でも似合うだろうなあ・・)にも、長いフィルムであることが強調されていた。
確かに、ヒロスさんのカレー(食べ終わったあと、口の中に香辛料がはーっと広がったまま帰っていくのだが、あるときすーっとそれがひく)を食べて20時までいれば長い日曜日となるわけだが、監督の話と映画はあっという間でじつに短かく感じられた。短いというのは言うまでもないが内容が薄いというのではなく、内容がありすぎて、もっともっと聴きたいし見たいし考えたい、という意味で、だ。
ドキュメンタリー映画『HIBAKUSHAヒバクシャ〜世界の終わりに』(2003年、116分、制作配給:グループ現代)の上映会。CAP HOUSEの1階の部屋にソファーや椅子がしつらえられ、ビデオで鑑賞する(まったく問題なし、なお、16mm12万円でこの映画は上映できるという)。満員(50名ぐらいか)。
(詳細はアーツ・カレンダー「こぐれ日記514」をみてね)
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