こぐれ日録 KOGURE Diary 2004.3
3/1(月)
午前中、帰ってきているはなと上海バンスキングの戯曲集についている歌を鍵盤ハーモニカでなぞって歌う。東京ではなは上海バンスキングのCDを聞いたという。こういうのをミュージカルっていえばいいのにねと二人。
この前見損なった「究極のコンピレーションフィルム」、「10ミニッツ・オールダー」を観る。平日お昼なのに、京都みなみ会館がかなりの人。毎月1日は1000円になるためだったが、それにしても、はじめみた「イデアの森」はかなり寝た。見ている人も何だかさっぱりとつぶやきながら出ていく。結局ゴダールしかきちんとみて楽しく思えないってぼくが悪いのかなあ。それでも8つのなかから一番を一応投票する。ゴダールに入れるのは癪だったから、イジー・メンツェルの老優の現在と過去の作品に入れる。全体的に、老いることが悲しいことだというような感じばかりでちょっといたたまれないものもあった(イシュトヴァン・サヴォーの夫婦殺害、シュレンドルフのあっけない老人の感電死など)。
帰ろうかと思いつつ、くじを見ると当たり!こんなものに当たって運を使うのももったいないけれど、はなにこの映画日記をあげれば、きっと少し意識的に映画と対話するだろう。もう一つみて、さきのものもゲットしようと思い直す。結局、次に引いた籤はスカだったけれど、「人生のメビウス」はじつに面白く勇気が沸くものだった。二つ見て、対比するようになっているのだろうが、「イデアの森」の作品間に挿入されるチェロ演奏はあまりにも睡眠促進音楽だったから、少なくともこれは違うものにすべきだっただろう。「人生のメビウス」はトランペット、これも緩いジャズだがまだまし(内容が楽しめるものだったし)。
「10ミニッツ・オールダー〜人生のメビウス」のはじまり。
アキ・カウリスマキはおなじみの俳優二人(加齢する時間の容赦なさのことは思ってしまう)の鉄道結婚。ビクトル・エリセは久しぶりだが、丹念に農村の人びとが映し出され、小さな自然のアップが彼の昔の映画を思い出させる。投票したのは次のヴェルナー・ヘルツォーク「失われた一万年」。アマゾンで発見?されて一気に原始生活を失っていく民族の人たちの悲しい話。町の者が移す風邪や天然痘でどんどん死んでいった悲惨と、時計をぼんやりみているかつての戦士が結核になりながら自分の武勇伝を踊る姿に、いかんともしがたいやりきれなさが漂う。
ジム・ジャームッシュは映画の撮影中、10分だけ休みになった女優がぜんぜん休めない話。ヴィム・ヴェンダースの死の恐怖ドライブは、麻薬でハッピー映像になってしまうことがとても皮肉。助けてくれた若い女が免許取り立てだったことなどの落ちがうまい。落ちといえば、エリセも掌編小説的な完成度だったなあ。スパイク・リーは証言集。ブッシュは大統領になるときからずる(狡)をしていた。ずるの政治家の伝承と世界伝搬なのだなあ。騙された方が悪いことが当たり前になってしまった時代と高知のやまさんが言っていた。終わりは、チェン・カイコー。北京のフートンはもうほとんど壊されているのだなあと悲しくなる。
さて、難波(新歌舞伎座そば)の、華乃家ケイさんのなつメロチンドンのお店へ。とても早く行ったので、若いのにとても曲を知っている古川武志さんだけがいて、セットのお手伝いをしたりしていた。ゆっくりとお酒を飲みながら、古川さん(大阪市立中央図書館の調査員、蓄音機コレクターで、SPコレクターらとSPを聞く会をしている)が有線で流れる曲を解説してくれる。地ビールを作っている方が来られて旧愛日小学校のことなどを話す。
見たことがある人が来たなあと思っていると恵比須街商店街の副理事長の野杁育郎さんだった。精華小劇場の話などを聞く。相談がなかったこともあって、精華小劇場コトハジメなどは遠い昔のようだ。
織田作之助の研究者でもある井村身恒さん(堺の高校の教員)とも初めてお会いする。いろいろな交流をしているうちに、月1の華乃家フラワーバンドの実演だ。ケイさん(息子さんが東住吉高校芸能文化科に合格した日だった!)のチンドン太鼓とアコーディオンのほか、トランペットとバンジョー、大太鼓(小学校の鼓笛隊ぽく、帽子が大きすぎて顔が隠れるのがかわいい)、そしてサックス(彼女がカウンターにいて始まる前ずっとお店を切り盛りしていた)。20時から小一時間。
今日は、デキシーランドジャズ・クラリネット奏者の吉川さん(精華小劇場コトハジメの次のヒキツヅキ?で演奏していたのを聞いていたはず)がゲストなので、はじめはバンジョー演奏による歌もアメリカっぽい。そのうちに美しき天然などディープなチンドン音楽へと流れていく。華乃家さんが昭和歌謡をこよなく愛するので、ビッグバンドのよき時代との接合がスムーズ。アンコールのあとに、華乃家ケイさんと吉川さんがリクエストに応えて2曲演奏する(鈴掛の道、可愛い花)。チンドン太鼓とクラリネットだけのデュオは、これに歌も歌えるし、とても愉快で面白い組み合わせになるだろう。
3/2(火)
松本茂章さんが大学にやってくる。彼の修論の相談。ぼくの9つの分類(アーツマネジメント主体の経営別形態別マトリックス)の表を渡す。こういうのは、きちんと論文にしておく必要がある。学生アートマネジメント会議(ワークショップをテーマにしたらどうかなあと言っておく)とか、学会例会のこととか、雑談しながら(OSKのこととか)考え方を整理していく。
早く帰る。小津映画がテレビでやっていたらしくて、芳江とはなは昼間みて疲れている。戦前の作品はずいぶん戦後の「晩春」以降とは違うなあと。はなに美しき天然とカチューシャの唄を聞かせて、すぐに鍵盤ハーモニカで音を拾ってもらう。彼女がいると、採譜するのが簡単。だけれど、ぼくは、楽譜がないとなかなかすぐにはなぞって弾けない。
3/3(水)
特段何もないが、それでも何やかや。2年に一度のKYOTO ART MAPのこととか、新年度の学年歴をみながらのスケジュール調整とか。
映画『ヒバクシャ』は第七藝術劇場で3/20〜4/2まで、モーニングだけれど(10:30〜)上映されるようになったらしい。3/31は、『原爆の子』『アレクセイと泉』など5本の戦争関連のドキュメント映画上映と対談がここで催される。http://nanagei.com/
阿部勘一・細川周平・塚原康子・東谷護・高澤智昌『ブラスバンドの社会史』(青弓社、2001)の最後の年表(学生がまとめたらしい。こういう作業が大切なのだなあ)を見ながら、少しレクチャー用のパワーポイントを作っておく。これに『音の力』のシリーズに書いてある考え方や知識を入れていけば、音楽が社会とどう関係してきたか、これからどうあるべきなのかが少し考えることが出来るだろうし、タフ4のベースとなるだろう。
3つの希望的観測vol.1『アイス暇(いとま)もない』劇団飛び道具(作・演出:大内卓)。
アトリエ劇研。開演10分前ぐらいに到着。水曜日から日曜日までの公演の初日である。関西で4日間公演を打てるというのはかなりの実力である。今日もかなりのお客さん。一番前にどうぞと言われ、ホントにとても珍しく前に座る。目の前に藤原大介さんや真野絵里さんらがいて(暗闇で移動しているのがじつによく分かる)、それはまあ、いつにない体験ではあった。
だけれど、どうも一番前ではなかなかに落ち着かないのも事実。特に大勢の家族が死期の近いおじいさん(平貴之)を見守る部屋に出たり入ったりする暗転の多い舞台なので、もうすこし全体像を見たかったなあというのが正直なところ。それに、役者が若々しい。同じ世代の役者で3代の年齢構成を描くにはもともと無理があるから。
おじいさんに約束したので博士になるために研究するとか、おじいさんにウナギを食べさせたいからウナギの人工生育に励むとか、集団お見合いで電撃的な結婚するとか、メチャメチャなシチュエーション。そのために、時間が足りないよというのだから、何だかやりきれない。
実際はちゃんと自宅にはおじいちゃんが戻っていて、死期は迫っているといえど、おじいちゃんに向かい合う豊かな時間はたっぷりある。もう彼とはキャッチボールができなくとも想い出は話せるわけだし、黙っていても、庭の花の変遷を眺め、雨になり虹になるときは感じられる。彗つまり、星まで流れる空間と時間はここにこうしてちゃんとあるのだ(やっと最後に花火でそれは暗示されることになる)。
これがコメディなのかというとそうでもなく。自分勝手で、ホントにうまくいくわけはないよなというカップルばかりを並列的に出して、いまのリアリティの欠片もない時代をクリップするような舞台だったのだろうとは思う。ボケもまじりだしたおじいさんのことなど誰も結局は分からないのだから。
家族といえるかどうか分からないぐらいにスカスカしている方がじつは事実のことで、そういう意味ではほろりとさせることを敢えてしなかったという演出意図が、この何だか漠然とした印象のあるステージの奥にあったのかも知れない。
3/4(木)
メーリングリストを大学仕様にすることを決める。パソコン講習のあと、食堂へ。最近けっこう食堂は学生でにぎやかである。軽音、フォーク、ブラバンに弓道、バレーボールなどの常連に加えて、公務員講座とかも始まっているからだ。
新年度はもういちど気を引き締めて高校生誘致をしようと池上部長と話す。さっそく、杉山先生にタッチセミナー(オープンキャンパス)の第一番、6/13はぼくがするとメール(この日は文化経済学会の全国大会が埼玉の跡見女子学園大学であるのだそうだが、ぼくは片山先生には悪いけれど、他の大勢が行くから、居残りに)。
教授会の日は、いろいろ長い一日になるのだが、今日は珍しく16時すぎにはフリーになる。
京都芸術センターへ。花嵐のむしちゃんがいたので、練習?って聞くと、練習のあとメセナ入門というセミナーを聞いていたという。加藤種男さんらはいま前田珈琲にいるよと教えてくれて、廊下からのぞくと大勢いた(やっぱり松本さんは相変わらず大声でしゃべっていて手を振ってもまるで気づかない)。
中に入って挨拶しようかと思ったが、シゲヤンだけ気づいてくれて、彼女が出てきて廊下で立ち話。蓮行さんも来て、そうかダンスマラソンは蓮行さんもマネジメントしていたのだと気づく。4/8の立命館大でのアートマネジメント授業の始まりに二人とも来るという。劇団衛星には古川さんがいるから、こういう場合動きは早い。シゲヤンの公演鑑賞などをうまく試験などの課題と結びつけられるように考えておこう。
京都市芸術新人賞受賞作家展2004、まずギャラリー南。金工の大西清右衛門。茶の湯の釜だ。16代目だという。京都に釜座通りという変わった通りがあるが、その三条釜座生まれ。技巧の極みなのだろう。ぶつぶつが全体に付いている釜は見る角度でいろいろに見えて、ミニマムアート的なデザインである。
ギャラリー北。こちらは日本画。団体展の一つだろう創画展創画会員。商店街を描いた作品が数枚あって、商店街をテーマにすることは意外とないのでは、と思いつつ眺める。これまで、商店街は、町屋などと違い、滅びるものとしていとおしいと感じられることもなかったからかも。そうしてありふれたアーケード上の商店街は関西でも次々と姿を消し続けてきた。そこを拾うところが新鮮。
日本画ってなにかっていうことも少しは考えてもいいはずなのだが、茫漠としていてとらえどころがない。油絵と水彩画というような絵の具の違いなのかどうか。ただ日本画について共通するぼくのイメージは「厚さがない」ということ。それは、絵の具の性質で盛りあがらないということも関係するが、遠近法的な視点ではないこととか、単純に立体感のなさとか、そんなことも含めての「厚さ」の欠如のことなのだが。
劇団魚灯「笑役」(わらいやく)」、芝居時間は100分を越えていた(19時何分から始まったかを書き忘れたが、20時51分で終わっているから、105分前後だろう)。じつは、静謐でポエティックな小品を宣伝美術(青木香。木版の押さえたタッチのチラシ)から想像していたが、実際はダイナミックでしかも直情的に高まったりしない骨格のしっかりとしたお芝居であった。
京都芸術センターフリースペースの奥に大きな木(舞台美術は林賢郎だという。床の下から明かりがつく居間がメイン舞台)。そこは火事の前は隣家があったところ。手前の居間の窓が枠だけ吊されている。いつもその木が見える。木の幹のそばには枯れ葉。そういえば、この前の作品(今回の作品は1年7ヶ月ぶりとなる)「祭りの兆し」でも奥にもう一つのステージがあった(ただこのときは駅前とかの違う場所、回顧する違う時間を見せていた)。
栗東さきらの山本達也さんが、出ている役者のすべてを知っているって、安心できますねと話す。確かにそうだ。安心というのは、マンネリになるというのとはまた異なり、このメンバーだったら冒険してもきっとそれに答えてくれるだろうという予想がつくということである。
音響の狩場直史も役者として出ている。劇団八時半の役者として山岡徳貴子はよく見ているがいつも中心人物であった。だから、今回は、彼女が作・演出のため故に、そんなに役者としては多く出ていないことがちょっと残念な感じはする。でも、それは仕方がない。その代わり、4名の団員以外に充実したゲスト二人が味わい深い人間像を彫塑している。
(この続きは、こぐれ日記515)をお楽しみに)
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