こぐれ日録 KOGURE Diary 2004.5
5/1(土)
あさ、はなから電話。「もしもし」 「おとうさん? 生きていた!!」 「??」。最近はなはぼくが死ぬ夢をよく見るのだそうだ。今朝もきっちり死んでいたから、電話したらしい。「お金がないから行けないので関島さんによろしく。こどもの日には帰る」。「ああ」。
二条城前集合の第75回全京都統一メーデー。歩いた後、高校の組合員とともに連合懇親会。京都ホテルオークラ17階「アポロン」。ビールが効く。
時間つぶし。難波のインターネット&コミック「スターカフェ」でシャワー浴びながら休憩。
なつメロ&ちんどんの店「はなのや」にて、「華乃家ケイゴールデンウィークスペシャル〜ちんどんから昭和歌謡の名曲までたっぷりやります!〜」。19:15〜21:00。オルペコ企画。
うた、チンドン、アコーディオン、オルゴール伴奏うた:華乃家ケイ
ピアノ:吉田幸生
チューバ、リコーダー(花の素顔のとき):関島岳郎
ソプラノサックス:多田陽子
フラワー楽団:トランペット、アルトサックス、大きな太鼓(ドロス?シンバル付き)
(「大阪楽団」(仮称)による)前半は華乃家ケイの可愛く暖かなうた。他地域の大阪のイメージは「どぎつく元気」ばっかりだが、ケイさんとしては、あえてしっとりと《優しい大阪》を伝えたいと〜「こいさんのラブコール」がまさしくそうだ)。そして、それぞれの唄がメロディーに乗ってお話しするように、歌うのだと言う:
胸の振子 恋の曼珠沙華 蘇州夜曲 こいさんのラブコール 港が見える丘 君待てども 小さな喫茶店(ぼくはこの唄〜確かドイツの民謡かなにかのメロディ〜が特に好き) 花の素顔 アンコールに白バラ
後半はアコーディオンとチンドン太鼓(チンドン太鼓をつけるベルトは自分たちで縫う必要がある。ケイさんの誕生日にみんなから贈り物としてチンドンベルトをもらったそうだ)で:
浪花小唄 夢淡き東京 パリの屋根の下 丘を超えて 青島(チンタオ)マーチ、道頓堀行進曲(うたごえ喫茶みたいに歌詞の紙を見ながら客席も歌う)、四丁目(しちょうめ。チンドンで草臥れたときに演奏するのだそうだ)、(アンコールに)美しき天然
終わってからお客さんや出演者とかなり飲む。
小暮はな(関島岳郎プロデュース&演奏)のレコード発売記念ライブは、ふちがみとふなと、ひがしのひとしという豪華ゲストを呼んで、8月1日(日)磔磔にて。関島さんによると、多分19時から開演。アコースティックなので21時を少し超えても大丈夫じゃないかなということ。
5/2(日)
10時から神戸アートビレッジセンター。榊原館長と事業課長からお話と案内など。12時10分まで。日本アートマネジメント学会関西部会第1回例会(第2回は6/27、13時からOBPにて、学生アートマネジメント会議と合同で開催)。はじめに、決算予算の承認。今日は新しいメンバーがかなり来てくれた。びっくりしたのは、関東から関西に来た人が3名もいたこと、それも2名は公務員をやめて来たというから、すごい。それに男性がほとんど。
神戸駅に出来た石井成城で弁当を買って伊丹駅。待っていた芳江とアイホール前で食事のあと、AI・HALL共催公演、劇団ジャブジャブサーキット第40回『動物ダウト ver.04』(作・演出:はせひろいち)を楽しむ。2時間ほど。あっという間。
眠かったはずだが、机の配置替えのときの長め暗転のときのみ少し瞼がひっつくのみ。舞台装置は、檻と大きな餌箱3つ(隠れ場所になる)が散らばって、ホールの壁のまま、結構すかすかした感じなのに、終わるととても暖かい気持ちに包まれる。
直球。だから、迷路のまま投げだされることはないお芝居。メッセージ性も明確にある。でも、もちろんいやらしくはない。咲田とばこの独白の余韻をひきずって、帰りに芳江とずっと話している。嘘つきは動物っていう出だしかも知れないのに、動物は嘘をつくと思っている動物、結局はその動物とは人間自身である。そのこと自身を受容することについて考える。
アトリエ劇研、GEKKEN Festival 2004の始まり。マレビトの会『島式振動器官』作・演出:松田正隆、舞台美術:奥村泰彦、照明:吉本有輝子。19:03〜20:17。京都市中の混雑ぶりが嘘のように静かな松ヶ崎。安藤きくさんから1番の札をもらう。松田さんに電車など混雑していますねえ、というと、ここは静かでしょ、と。
まさしく、杉山準プロデューサーが言うとおり、「小劇場でこそ味わえる実験性や革新性が感じられる」ステージである。特に前半は、砂の一粒一粒まで、粒の背後までが見え聴こえるような舞台。光がキレイなのにそれがあってもすでに地球では何も見えないことを知らしめるような光であり美術である。
難しいとか、訳分からないとか、そういうことはどうでもいい。抽象画でも気合いが抜けたものもあれば、それ自体が美しくて、テーマが分からないとか難解だとかそんなことを言わせない存在感があるものもあるわけで、そういう見方でどうしてお芝居を語れないのか、見れないのかとつくづく思う。
浮き足立っているゴールデンウィークにおいて、安直なエンタテインメントサービスに慣れてしまっている観劇ライフを見直す機会があるということ自体、とても素敵なことだ(ただ、包帯男は松田正隆の戯曲にはよく登場するが、あまりにも世界を一色に演出する方法に突き進むと、クオリティはぜんぜん違うが、「車椅子=精神病院=鈴木忠志」的どん詰まり演出になるおそれがないとはいえないとは思う)。
5名の役者陣も安直な会話や対話で場を作るのではなく、放り出された硬質の言葉のなかで、しっかりと自分の場所をキープしている。桝谷雄一郎:犬男(鳥ハンター)、山本麻貴(サチ、犬男の妻)、田中遊(砂男、密航者)、武田暁(ミカ、砂男の妹)、F.ジャパン(医者)。
さっそく、自分の掲示板、日録駅に珍しく感想を書いておいた(えんげきのページにも)。
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【マレビトの会にたまげた】
観客の数は問題ではないでしょう。ただ、本当に演劇について、きちんと考えたい人は、見逃してはならない舞台でした。パズルのピースが少しずつ組合わさっていくのが、普通のお芝居なら、これは、どんどんピースが行方不明になっていく、そんな感じのステージで、最後は真っ黒なアトリエ劇研が、真っ白になって、ぼくの前を浮遊していました。帰りの松ヶ崎まで、ずっと鋭敏になった感覚が残って、とても気持ちよく宇宙を彷徨っていました。もう一度観なくちゃと真に思わせてくれる久しぶりのアーツ。演劇でこんな体験はホントにない。藤本由紀夫さんのパフォーマンスのあとと同じかな?
http://www.h3.dion.ne.jp/~gekken/new_schedule.html
5/3(月)
連休モードなので、昨日の演劇レビューは短くして、1日中うとうと(夜になって原稿がかなりすすんだ)。
昨日、アマゾンから、野村麻紀のファーストアルバム『南国の女』(ミディクリエイティブ)が届いていて、早速聞いてみる。朝はなからまた電話。はなは拾得にいた彼女をよく知っているということ。たしかに京都橘女子大学は高知出身者が多いが、こんな強い歌声の卒業生がいたというのはびっくり(当時の国文学科卒で卒論のテーマはジャイアント馬場だったそうだ)。
5/4(火)
外は雨が続いている。やっと神戸市依頼の原稿が書ける。以下がその目次。注を入れて原稿用紙的には2万字程度か。そのほかに、図表が4枚。
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【未知を恐れない「創発都市」へ−文化政策の基礎問題とアーツ系課題のいくつか−】
はじめに
1.芸術と文化〜芸術文化と文化芸術
(1)芸術文化と文化芸術〜国の法律制定に即して
(「文化芸術振興基本法」の用語問題)
(国の用語法における「芸術、芸術文化、文化芸術、文化」の包摂関係)
(2)芸術と文化の関係〜5つのパタンによる関係性分類と最広義の「文化」
(芸術と文化の関係性分類の前提と概要)
(5つの関係性分類)
(タイプ4とそれに関わる最広義の文化の分類〜図2)
2.発信と政策、イベントと創発性について
(1)文化「発信」は地域の真の文化政策になりうるか
(「発信」用語の浸透と困惑)
(「地域からの文化発信」、東京からの勧誘疑惑)
(受信者のいる芸術文化の情報だけが「発信」することができる)
(2)イベントとアーツ〜その発想の違いと創発性の有無
(仕掛けられた「イベント」の誕生)
(イベントマネジメントの特徴〜イベントの目的とコンテンツ)
(アーツとイベントとの関係)
(イベントとアーツのマネジメント発想の相違を図式すると)
3まちづくりから「創発都市」へ
(1)「まちづくり」の賞味期限問題
(まちこわしになる「まちづくり」)
(まちづくりから、「まちづかい」へ)
(2)未知をはらむ「創発都市」に向けて
(都市に希望はあるのか)
(失望を繰り返しつつ、失われた望みをアーツ現場に探すこと)
(3)都市の文化ブレークスルーへ向けて
1)劇場の壁とアウトリーチ
2)生活文化から限界芸術へ
3)流行都市から創発都市へ
4)スロースタイルと移動する芸術
5)都市オリジナルの可能性
・・・・
終わって、ほっとした足取りにて、大津京町滋賀会館シネマホールへ。雨に洗われた木々の中の神社にはっとして足を止める。天孫神社。滋賀県庁前のいつも通る道なのだが、こういうありふれた場所が、不思議と自分を呼んでいるときがあるものだ。
デンマークのラース・フォン・トリアー監督『ドッグヴィル』。177分があっという間。エンディングは蛇足に近い写真。でも、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」よりもずっとスマートで舞台づくりに興味のある人にはたまらないだろう作品。解釈が一通りのようでいて、実は自由に考える余地もあると思いたい。ただラストでカタルシス的に気持ちよくなってしまうのがちょっと心配でもある(老婆心かな)が。以下***内は、ネタばれ注意で。
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チラシにある「美しき逃亡者があらわれ、一つの村が消えた。」のとおりに、実にシンプルな作り。特別なときにだけ空から舞い落ちるものがある。ラストの白い雪。それと独立記念日における花粉(?、愛の芽生えのサイン)。大きな月も舞台セットをずいぶんと意識して作られている。
最後の審判や恩寵のことに頭が巡る、そんな閉鎖的できわめて一神教の世界だ。カール・ドライヤーの世界(ドライヤーの方がもちろん深く複雑であるが)を思い出す。
カメラ=超越者の目線は世界を見通している。演劇的な架空の舞台だが、擬音や最後の犬の映像など、演劇と映画の違いがよく分かる。いまのアメリカになぞらえば、ニコール・キッドマン演じるグレースが、ブッシュジュニアなのだろう。グレースは、彼女を溺愛するギャングのパパ=ブッシュ父からドッグヴィル村にひととき逃れても、結局ギャングアメリカが持つ権力の魅力は代え難く、最後はその実力をいますぐちょうだいということになる。
グレースがブッシュジュニアだとすれば、イラクやパレスチナ、ヴェトナムと同様に、このとき村人はみんな彼女によって殺されても、同じような果てしなき報復殺人の繰り返しがこのあとも延々と続くわけだ。
映画は終われても一神教的構造が変わらない限り、閉ざされた共同体(この場合、田舎とギャング世界)同士の監視とリンチ、報復と復讐は続く。グレースが皆殺しを実行し、自らに与えた同じ恐怖を復讐もする。
そして、何の価値もない(はずの)犬だけを残すところが象徴的(彼女がその犬の肉付き骨を盗ってしまったお返しが理由だとしても)。彼女のパパ、ギャングの親分は犬を殺害して村人の見せしめにすることをグレースに提案したのだが。
なお、愛玩するペットでもあり村人たちに忠実な番犬でもある「犬」が、同時にスパイの意味があったり、尊厳をはぎ取られるほどの蔑称であったりすることの両義性についても考えさせられる。
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5/5(水)
今日ははなが来るということだったが、来なくなった。夜に八幡市立文化センターで大学生たちの吹奏楽を聴こうと思ったが、いろいろアクシデントが朝にあって、大阪市中央青年センターから依頼の原稿書きを終えたのが、19時。
『アーツを通した青年の自立と社会参加に関する記録と検証の試み』「一緒にステージを創りませんか〜あなたのできることを持ち寄って〜」のまとめ(3000字程度)。それを、本田真弓さんにメールで送り、ようよう連休のラストに宿題が終わったという感じである。この間、読書はまったく進まなかった。
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