こぐれ日録 KOGURE Diary 2004.5
5/28(金)
今日は、京都橘女子大学での中間テスト。大学院を入れて65名なので、採点は夜に終える。それでもいろいろ説明が足りなかったこととか、基本的な理解不足のことをどうフォローするかと思ったりする。
たとえば、実演芸術家をピックアップするように言っても、アーツマネージャーの名前を挙げたり、ダンスボックスとか書いたりする。固有名詞を知らないこと、文脈を読めないことがかなり致命的になっている、結構チラシとかを貼ったり置いたりしているのだが。
鑑賞演習は、小津安二郎『晩春』。ローアングルとか少しだけ説明しただけで、すぐに上映開始。ほとんどの学生は小津映画を知らないから、映画のアウトリーチとして大事な時間のはずだが、果たしてどんな反応だろうか。原節子と笠智衆父子が能楽を鑑賞するところで今日は終えて、後半は来週(父子で一緒に歩いていて、ぷんと怒った娘が、どんどん離れて行くところはよくぼくにもあったなあと思い出したりもする)。そのあとBS2でやっていた小津の紹介ビデオを見せる。
5/29(土)
昨日、研究室で採点などしないで、八幡市文化センターで行われていた『鳴り物の魅力イブニングロビーコンサートvol.12(ドリンク付き1200円)に行けば良かったなあと思う。
今日、学生を連れてアトリエ劇研に行き(「壁ノ花団」鑑賞)、京都芸術センターまで案内したが、そのあと、高級串焼き(串満ではなく串八にすればよかった)など食べさせるかわりに、近くの誓願寺ホールでやっていた自らの会『冬虫夏草』に行けばいけたなあ、と反省する、アートシアターdBのクルスタシア『R』には間に合わなかったとしても。
朝は、立命館大学の方の答案採点の残り。芳江に採点の記帳を手伝ってもらい、最後に枚数をチェックして照合してもらったら、251枚と言うこと。意外に少なかった。定期試験ではもっと多いことを覚悟しなくちゃいけない。コースによっては、京都芸術センターに行っていたりしてどうしても出来の良い答案が並ぶこともある。点数とは別に読んでいて面白いのは、自分の話をテーマとは無関係に書いてある「確信犯的」なペーパーである。
途中に歯医者。これで最後ということ(親不知は抜かれないまま)で、歯石を取ってもらう。歯ぐきから血の塊みたいのがどろっとでてきたりする。
壁ノ花団公演『壁ノ花団』再び。1回生の基礎演習。今回は先に書いたように、アトリエ劇研での観劇とあいなった。松ヶ崎駅に14時までに来るようにいったが、それまでに来たのはたったの5人。10分近く遅れて、あとの5名がようやく到着。こういうチーチーパッパはずいぶんと慣れてきたが、やっぱり何だか空しい作業ではある。あとの2名は開演後にやってきた。
5/30(日)
鈴江俊郎さんが「現代のことば」(京都新聞夕刊04.5.26)で「根腐りする芽」と題して「学生の精神年齢の低下」と「自己中心的。他人と協調できない」学生について、彼の演劇芸能専攻での教育に即して以下のように書いている。苦労しているのは、ぼくだけではないから少しほっとする。
《・・劇団が作れない。徒党を組むのを怖がる。遅刻者を誰も注意できない。皆が働いている時に堂々とサボっている奴がいる。誰も注意できない。だけど寂しいから群れる。「解散!」と号令をかけても一人でさっさと帰れる子はいない。取り残されるのは辛いから、学園祭の遊び演劇企画には参加者が多い。しかし稽古場ではおしゃべりばかり。何回反省しても、彼らは繰り返す。誰と組んでも、似たようなものだ。信頼など作れない。緊張感などもてない。・・》
蒸し暑い。予報では雨だからと思って伊丹駅に降りると真夏並の太陽。眩しい。体調も気持ちも萎える。未来堂書店で「私の青空」(マイブルーヘブン)の楽譜を探すが見つからず。アイホールで神戸学院大学の伊藤教授に挨拶(娘さんづれ)。お話し会に誘われる。ホールはそのうちいい感じでいっぱいの客。
期待を圧倒的に超える観劇。ラストの挨拶での拍手に心がこもる。終わりを知っている人が真っ先に拍手するのは興ざめだが、ラジオ体操の歌が終わりラジオ体操で終結するドラマのあと、ひとときのポーズがあったあとだから、真っ先に自分が拍手してもそれは何も悪くはないだろう。コメットがぬいぐるみになって出てくるのは意表をつく。窓を観るシーンもありふれているのに新鮮なのはなぜ?
桃園会第27回公演『中野金属荘、PK戦』(作・演出:深津篤史)、男臭い乱雑なアパート。トイレも共同。女性だけの寮を描いた壁ノ花団公演『壁ノ花団』と比較するととても面白いレビューが書けそうだ(誰か書いて!)。どちらも時間が遡及する(あるいはランダム化、混濁化する)。
ところが、『PK戦』では、いろいろごちゃごちゃするけれど、結局は再び冒頭の時間に戻ってラストへと進むから、饒舌なほどに語りの交差がうまく、その交差がセイフティな網目のネットとなって不可解な気持ちにはならなくなっていく。15:07〜16:38。
客電落ちるまでの英語の歌、ピアノ伴奏だけで心に沁みる。謎は謎なのだが、響き合うものが繰り返され、それは少し過剰な感じもするぐらいに心地よい(大阪人的サービス精神なり)。
この『PK戦』に対して現代美術的なものの比喩として、熱い抽象という言葉を使えば、『壁ノ花団』は冷たい抽象だ。ところが『壁ノ花団』の方がじっさいは事故や事件が実際に起きていく。そういう面では劇的。他方『PK戦』では、妄想と現実が渾然としているきらいがあるるにせよ事件は未遂に終わり平穏(倒産や解体があるのは周囲の方だ)。終わりにしてと言われても途中でおならが出る。
そのおかしさ。いつも聴いている昔のクラスメート。会話になるのは、主人公カネダ(紀伊川淳)と、ヤマダハナ(江口恵美)との間だけだ。『壁ノ花団』のような静かな会話のつながりではないが、どちらも俳優が持つ独特の語りを重要視しているところには共通の部分がある。紀伊川淳はどんな役でもこのような受け答えをするのではないかと思った(『壁ノ花団』では広田ゆうみがとりわけそうだったと思う)。
中学の保健室の先生(どうしてダイゴロウ=金魚になると茨城弁なのだろう)と超能力クラブをしていたカネダたちとの関係。その関係と照応する、工場の工員たちと購買部のハナちゃんとの関係。どちらも赤い血がついた指が両者の関係を結びつける。それを金魚のようにくわえる口が響き合う。もちろん、背景は長雨、衣装はレインコート。小道具は、冷めたピザ、赤い敷物、
そしてドアの郵便入れに挟み込まれる幾種類ものチラシ。結婚互助会、葬礼案内、お墓の斡旋、デリバリーヘルス、ピザ屋などなど。チラシは部屋中にまかれ、桟に引っかかり、布団に隠される。
このふたつの演劇とも、別のテーマ、社会的思想的なメッセージを描いているのではない。抽象画の鑑賞は、具象画と違い何が描かれているかを観るのではなく、絵画それ自体を楽しむように、ここでもこの公演自体にあるシーンや台詞間の組み合わせ、それらの照合関係自体を楽しむことが肝心なのである。
さらに、同時代の他の舞台、あるいは、桃園会のいままでの演劇の流れを参照しつつ、鑑賞を深めることができる。いいものは「いま、ここ」にいながら、縦と横に広がる想起によって、演劇体験全体を数珠繋ぎにしていく。自由に、それは観る方の絶対的自由(と積極的関わり)において。
《KOGURE
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