こぐれ日録 KOGURE Diary 2004.11



397.11/1〜11/4

11/1(月)

暖かいのでスーツをあいものにして出かける。NHK大阪放送局に14時の予定が30分も早く天満橋に着いたので、「gallerism2004画廊の視点」を見る。いつ行っても大阪府立現代美術センターの二つの展示室の位置関係は迷ってしまう。アートスペース虹「フジタマ」は映像で、虹ってこういうタイプが好きだなあとか、画廊の特色が分かると面白い。が、他はなじみのない画廊だったりするので、そこまでは読み取れないのが残念。

いまどきアーツは、4回目にしてとりあえずの最後。11分半の枠があったので(前回よりも2分も多い)、だいたい余裕を持って出演できたように思う。「お笑いコンテンポラリーダンス」というタイトルも一応「笑ってOK、コンテンポラリーダンス」に直してもらったし、言葉遣いとして、「振付師」も「振付家」に替えてもらったし。担当の中島ディレクターは、台風の特番を急遽つくったり、昨日までは新潟の応援にいったりしていたらしいが、ダンスボックスの取材を中心として、北村成美の生出演まで実現させてくれて、とても誠実で力のある若手だと感心した。ビデオで流した画面の写真なので、見づらいが、少しだけ、こぐれ日乗http://kogure.exblog.jp/にてアップずみ。

これも、実はNHK勤務は昨日までで、今日からはABCの朝番組担当になっていた山本千歩さんが、このためだけに特別に対応してくれたおかげである。そもそも、山本さんがいたから、わたしもこうしてテレビ出演という面白い経験が出来たわけだ。

11/2(火)

大阪成蹊大学へ。今日は56名(登録数60名)という記録。はじまったときは30数名なので、ぼくが熱中してしゃべっている間に忍び込むように入ってくるのだろうが、うまくすーっと入ってくるものだ。それにしても、もっとちゃんとした教科書を作るべきだとまた痛感。少し本気になってきた。「アウトソーシング」の説明ははじめてしたが、ここから公立民営へと話を向かわすのは、理解されやすいことを知る。

堅苦しい授業なので、最後、久しぶりに『だれも死なない』(トーン・テレヘン作所、メディアファクトリー、2000)を読む。マイクなしでリスとアリの手紙のやりとり2編。うーん、なかなか朗読も難しい。それでもいい大人の童話の威力でかなり伝わったようだ。

「ビッグイッシュー」を四条河原町で買う。昨日天満橋で買おうとしたら、雑誌を胸に持ちながら、ヘッドフォンで音楽か何かを聴いていたので、買う気がしなくなったのだった。誤解のないようにいっておくけれど、野宿者はヘッドフォンで音楽を聴いてはいけないというのではない。つまり、どんな場合でも販売者がヘッドフォンをつけて行う「ながら販売」はおかしいでしょといいたいだけである。街頭で売るときでも、町の様子を観て聞き、その場にちゃんと立ってお客と会話する用意が必要ではないかと思うのだ。

11月前半のビッグイッシューの特集は睡眠。日本の特に女性の睡眠時間が他国に比べて極端に少ないという統計が出ていて、これは、色々考えさせられる(国内だけの時系列で見ても一貫して短くなっている)。イギリスの20歳代の女性は1週間の平均睡眠時間が9時間近くもあるという(日本は7時間半)。仕事と家事の両方を担うことでとても女性に負担がかかっているということでもあるし、日本の24時間開いている町というのが眠るのに最適な夜を奪っているのだろうと思う。

レム睡眠がとても大切な脳内の情報処理をしている例として、練習中どうしても引けなかった難しいピアノのフレーズが翌朝、すいっと弾けるようになるという例示は、わたしも思い当たることだし、やっぱり、加齢したからいいやと思わないで、よく眠らなくちゃと思う。わたしの場合は、朝は早く目覚めるので、22時を過ぎると出来るだけ早く眠ることで毎日7時間以上取ることを目標にしようと思う。

『あいだ』106号が届く。矢野静明「態度としてのA・B・C〜瑛九の言葉から受け取ったもの」を読む。六本木に巨大な国立ギャラリー(公募展などへの貸館だけなのに美術館と称するそうだ)の話を聞いて画家瑛九が1953年に書いた文章を思い出したという。

瑛九の文章の一節とは、たとえば次のようなもの:《我々が生気ある自己主張にみちた決定的な画風を作りうる為めには、まづ我々個人が最初に画壇の官吏システム風な展覧会に反逆し、画家としての生活態度のアカデミズムから自己を解放しなければならない》。それが、芸術家の態度としてのA・B・Cなのである。

これを受けて矢野さんは書く:
《瑛九が自由になろうとしたのは、公募展という実体あるシステムに象徴される日本画壇の体質からであると同時に、それ以上に、戦争を起こしたかつての自分たち日本人の精神構造の歪みからであった。自ら起こした戦争を天然災害の如く、上空を通過する出来事のようにながめやる、他人におのれの運命を託すような精神がどのように発生し、どのような歴史を生み出すかへの、瑛九なりの自問があったはずである。・・》(あいだ106号 6ページ)

「他人におのれの運命を託すような精神」、含蓄のある言葉だ(イラク戦争の日本軍参画に対して何もしていない自分〜自国民を守ろうと、香田さんの身代わりに人質になりたいと願う自衛隊官は一人もいなかったのだろうかとぼやいているだけ〜が恥ずかしい)。

そして、自分と同じ年に生まれた方らしい矢野さんの締めくくりに、ほんとうに強く共鳴する:
《最後にいっておくなら、六本木の国立新美術館の出現は、半世紀も前に提言された瑛九的理念の、完全な敗北を意味するだろうか。これが最終的な敗北かどうかは分からないが、これまでずっと瑛九的理念が日本で負け続けていることだけはたしかだろう。この先も負け続けていくのか。瑛九的理念が負け続けるほうが日本の幸福と繁栄は保証され長続きするのかもしれないし、そういう選択は利口でかしこいかもしれない。「理念の勝利」よりもはるかに「長いものにはまかれろ」式の勝利を多く眼にしてきた体験からすれば、瑛九のように「希望をもって語る」ことはできないとしても、やはり「態度としてのA・B・C」だけは守りたい。羞恥心が自分に存在するあいだはそうしたいと思う。》(あいだ106号 14ページ)

そういえば、通崎睦美さんが、京都新聞夕刊で、会う人ごとに「活躍している」といわれることについての違和感(中身でなくメディア露出しか評価できない人びとについての寂しさ)をエッセイにしていた。もちろん嫉妬も含まれているのだろう。

11/3(水)

親密圏について、いくつか本を注文した。
最近よく本を頼んでいる。楽天がプロ野球に参入したが、このインターネット購買というのは、なかなか侮れないものだ。さて、授業で使おうと買ったのは以下の二つ:
大橋光博『小さく、ゆっくりでいい〜コミュニティビジネスが元気な理由』ビジネス社、2003年:山口県からの風を、西京銀行の頭取が書いている。
細内信孝/鵜飼修『3日でできるコミュニティ・ビジネス起業マニュアル』ぎょうせい、2003年:細内さんとは中小企業庁での勉強会で一緒になった。シート方式になっているのでゼミにおいて使うのに最適。自分もこういうものを作ることを心がける必要を感じる。

フジワラビルで「メダルdeポン」があり、それを見てから、CAP HOUSEへ行こうと思っていたが、親密圏的世界を堪能してしまう。はなもきて本当に久しぶりに4人でお昼をのんびり食べ(メリーアイランドというお店はなかなかに素敵だった)、22日に展示するために必要な額装をわいわい考えて、のどかな時間を過ごした。

11/4(木)

久しぶりに大学に行く。芝田事務局長が、アーティストファイルがコンソーシアム京都の地域連携事業に選ばれて50万円もらえるそうですねという。もうタフ4は終わってあとはその整理だけなのに・・。財源だけ、大学が助かるということなのだろうか。ダメもとでもチンドン隊のためにサックスでも要求してみるか。

ある院生が、池上先生が使う「文化資本」と社会学者が言う「文化資本」(日本における階層格差の拡大への警告として、文化享受能力の有無を議論するときに使う用語)が違うということをブログに書いていたので、5階の池上先生の講義(2回生の必修)をちょっとだけ聞く。劇団四季を鑑賞することを、研究すると言われるのが面白いし、いつの間にか、四季をオペラと呼ぶのもまた一興である(その前段では学生にオペラでなくミュージカルを例示してほしいと要望があるので四季を例にあげますといいつつ、それをいつしかオペラといってしまわれるのも面白い)。

(地域経済の資源としての) 社会における文化資本と、(社会階層の能力としての)個人における文化資本という違いから由来するだけなのかも知れないが、どちらにせよ、学部生のはじめのところで、定義が揺れてしまう概念を聞かせていることの方が気になる。難しいことは無理だが経済学における「資本」概念をまず押さえておくことの方が大切だろう。つまり、経済学や社会学、政治学、法学、文化人類学、民俗学、芸術学の基礎を一通り学ばせること、とくに、まとまった文章を読む練習をさせることがまず必要だと痛感する、これはわたしへの自戒でもあるが。できれば、ハーバーマスの「公共圏」をどこかでちゃんと教えておいてもらうとあとの授業がやりやすいのだがなあと思いつつ、また彼の本を紐解く。

東山青少年活動センターで、演劇ユニットYOU企画2004年度秋公演『HELLO OUT THERE』を観る。松浦友(京都芸術センターのアートコーディネーター)の演出。ウィリアム・サローヤン作。19:05〜20:20。松浦友が前後に電子ピアノを弾く。これはわたし的には不要だと思うが、それ以外の演出は、なかなかに意欲的。

牢屋に監禁されている若い男(山本周)の頭に響くまちの群集たちの哄笑が効果的で、こういう人たちがブッシュを大統領にしているのだなあと思って聞く。そのうちに、この哄笑が少女(高野明子)にも聞こえてくる。そして、ラスト・・・と続くのだが、その変化が短い時間、少ない台詞にもかかわらず鮮やかに過不足なく展開される。

年取った男(松下駿三)の出番は少なかったが、その空威張りぶり、そして妻やまちのものに笑いものにされている恥ずかしさを、とらわれている無力な若い男への暴力に転化せざるをえない瞬間を凝縮して表している。

それにしても狂言をしているらしい高野明子のあどけない美しさ。これは男の理想、願望としての女性像だとしても、天女のような姿は必見。若い男ならみんなその姿に惚れるだろう(若くない男、あるいは女性も惹き付けられるにきまっている)。「白痴」の天真爛漫さにも通じる世界だが、この高野明子、日本の今の女性(若いのに終わってしまっているような薄っぺらさを漂わしている風情)を果たして演じることができるのだろうか。本気で心配になる。


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