こぐれ日録 KOGURE Diary 2005.8
こぐれ日録444 8/1〜8/7
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8/1(月)
昨夜は三股町からのご馳走だったので、今日はさっぱりと薄味にしようと芳江。 親父の戒名を石屋さんにファックスする。いよいよ、お骨を姫路のお墓に納める日が近づいてきた。
大学に行き、10/3にセットした4回生ゼミの中間報告会をアップし、オープンキャンパスのガイダンスに臨む。 2.文化政策学科 3.現代マネジメント学科 4.学生たちの活動の模様 5.大学進学の準備のために 終わってから、希望者を募って、研究室に案内する。 16時から、タフ5について、地元新聞2社への記者レク。地元のエキストラ募集が多くなるといいな。
その方のブログ(http://blog.so-net.ne.jp/yukishige/2005-08-02)を読んで、ぼくもさっそく川嶋あいのCDを注文。彼女も尾崎豊をリスペクトしているということ。いま、たまたま橘いずみのbestを聴いているが、椎名林檎の前にいた橘の声の良さが再評価されているようで、かつてずいぶんレンタルしては聞いていたので、懐かしい。 四条の証券会社で親父からのギフトに対応しようとして思いがけず手間取り、京都シネマ(会員になったので、当日で1000円になる11月まで数回は行かないともったいない)、10時半からの映画日本国憲法(ジャン・ユンカーマン監督作品、Mシグロ)は間に合わず。途中から入るのはいやなので、DVDを買っておく。ゆっくりとあとで観ることにしよう。自民党による改憲の案文が出たところなので(自衛軍に関する2か条追加〜9条の枝番号条文〜以外もずいぶん検討すべき変更がある。自治関係とかも)、タイムリーな上映である。 12時半からの上映『ヒトラー〜最期の12日間〜』を予約して(予約番号28、今日が当日でも1300円の日だったからもあるだろうが、この回も次の回も満員となる。年配の方が熱心に見ていて、しかもすすり泣きも聞こえる会場であった)、京都芸術センターへ。 京都芸術センター夏休み企画『うたかたさんぽ』。岩村源とこどもたち。確かに、この企画に学生たちがワークショップ(7/23と7/30に子どもたち25名定員で行われた)も見学し、展示を見ると、アーツセンターの機能と意義、アウトリーチや限界芸術(だれでもアーツ)と先端芸術(さきっぽアーツ)の関係性の面白さに自ずから会得できるのになあと、大学のセメスター制をうらやむことにもなる(大学生が7月いっぱいまで試験などがあるというのは、子どもと文化の関係を体験するのにずいぶんと支障が出る制度なのである。 南のギャラリーは、軽やかに「コマ」(上が白で下=裏がオレンジの鮮やかで爽やかな円盤)が回っている。台や支えは、昔活躍していまは静かに現役を退いた道具たち。どこで見つけて、どこに保管してあったのだろうと監視をするボランティアの人も懐かしそうにその姿に目を潜めている。展示のリズムも重ならず、しかもばらついた感じがしないのはさすが。不思議なのは、円盤の速度が違うということ。重いから遅いといのではなく、子どもそれぞれの速さを設定しているのかなあとも思う。ただ、電池で回っているもので、そういう精緻な工夫ができるかどうかはわからないが。 回っているものは子どもがワークショップで観察して描き切り抜いた昆虫や草花。小さな、どこにでもあるけれど、ちゃんと観察して描こうと思うとお手本がないから、かなり真剣な作業になるものたち。大きかったり、かわいく分散していたり、これもかなりの差異があって、見飽きない。 北のギャラリーは、大きな泡だという。その泡に色とりどりの藻とか光のプリズムとかが写っているように針金が巻かれ、象られていた。上のほうには象徴的な模様も現われているが、奥の方は針金が少なかったりしてちょっと時間が足りなかったのかなあとも思える。それがまたワークショップの醍醐味なのだろう。出来れば、会場に来た子どもたちにもう少し針金を加えてもらってもいいぐらいだけれどなあとも思うぐらい。 また、cocon烏丸に戻って、いつも列が出来るラーメン屋で昼食。そんなにラーメンが好きというのでもないが、手っ取り早いのでつい入ってしまう。最近、スープが割りとさっぱりとした「昭和時代の支那そば」風が流行っているようにも思える。ここも、そういう野菜をダシに加えることで「丸」くなる味を選ぶことが出来る。 1階のアクタスやaura collectionを少し丁寧に眺める。AXISが六本木(というか狸穴)に出来た頃の思い出話をauraのショップの人にしたりする(AXISでここの人のものも置かれたりしたそうだ)。ずいぶん前(24年ぐらい前かな)のことだけれど。3階のStudio Kinoで、アニメーション上映会『栗田やすお作品集』を見る。京都シネマでは、「緑玉紳士」の映画バージョンが夕方からあるのだが、まあ、これを見てもどんなパペットアニメなのかは、だいたいわかる感じがする。 ということで、満員の京都シネマ1。 ヒットラーの自殺まで身近にいた女性秘書の証言(原作の翻訳も売っていた)を基にしているので、ずいぶんと密室の出来事と感情のゆれを丁寧に描かれた作品である(再現ドキュメンタリータッチドラマという感じだろうか。でも、日本のテレビの再現ものとは重厚さがずいぶんと違う)。 『ヒトラー〜最期の12日間〜』・・彼の敵は世界:全てを目撃した秘書が今明かす、衝撃の真実。監督:オリヴァー・ヒルシュビーゲル。アドルフ・ヒットラーになるのは、あのブルーノ・ガンツ。正直、ベルリンの天使が墜落してヒットラーになるので、どうしても、ヒットラーの弱弱しさに同情してしまう部分があるし、それは、当時の秘書であった語り手のトラウドゥル・ユンゲ(アレクサンドラ・マリア・ララのすくっとした姿勢そのものが、ラストのシャツブラウスで川のある風景まで辿り着ける運命を作っていたのかと思う)の視点がそうだったから仕方がないといえば仕方がない。 ヒットラーは総統であるときはあんなに残酷になってしまうけれど、愛人や秘書、そして料理人など女性には優しいということを拠りどころについてきた自分(トラウドゥル)がいたわけである。もちろん、戦後、ユダヤ600万人殺害という事実を知り、きっと、当時の会話のはしばしから、自らそんなこととは想像すること、そういう事実ではないかと疑おうともしなかったことを悔やみ反省はしただろう。 ただ、どうしても、ヒットラーとその周辺の目線から外の世界を眺めて密室を描くということは、オウム真理教のドキュメントである『A』と同じ困難さがあるように思える。たとえばだが、ユダヤ人がこの映画を見て、どう感じるのかということは、特攻隊を描いた日本映画を見た韓国人が思うもやもやした感情(無意識の正統化のようなものとか、疎外感みたいなそらぞらしさ)と同質かも知れないなあとは見ながら感じはした。 しかしながら、では、日本映画が昭和天皇を真正面から捉えてこのような戦争映画が作れるかどうかということを考えると、きっと、まだまだ秘密やタブーが多いのではないかとぼんやり感じられる。ただ、では、いままで日本映画は、玉音放送の前の12日間の天皇とその側近のさまをどのように描いてきたか、ということをちゃんと知らないので、これも重要な探求課題ではあるけれど。 8/4(木)
大学に行き、午前中、ある外部の仕事を片づける。少し改良点を考えたりもする。午後からは、割と自由にあれこれ。京都新聞の記事について、そしてNO-MA企画公募などのPR作業。記事はとてもきちんとしたもので、感心していたのだが、一つ、事実ではない表現があり、これは、こちらと記者さんとの伝達がうまくいかなかったせい。残念だなあと思っていたが、でも、もし、これが完璧に初めて取材された記者さんに報道されていたとしたら、このプログラムってあまりにもありふれたものであったという判断もありうるので、こういう隙間があるのは、いいことなのだよと思い直す。 夕方、前から書き付けておこうと思っていて放っておいた「政策」に関する簡単なメモ作り。限界芸術でもある「文身(いれずみ)」と結婚との関係も結構あって(アイヌや琉球の風俗として)、ブライダルの話のあとに、文身をつなげるとずいぶんと高低の変化がある授業になるなあと想像したりする。
久しぶりにお芝居を見て、思い切り笑った。110分間ぐらい座り続けるのは、正直慣れないと中年以上はしんどいのだろうと自分も久しぶりなのでそう思った。場所は日本イタリア会館の地下、イタリア系不動産屋がいるオフィスと同じ空間、ギャラリーだったりする「スペースオルタナティブ」。19時半の公演のあと、22時半にも公演するところは、チャリンコ移動者がおおい京大が立地する吉田エリアならでは。 夏の一本「ユニット美人」《家庭科の女ふたり》。作・演出は黒木陽子。さなぎ役も彼女らしいキャラクター。劇団衛星が吉田寮食堂でやっていたときに持っていた初期のばかばかしいばかりのエネルギー、その初期衝動(=いまここで私たちは演劇しなくちゃいられないのであるわい、そこに技術や思想がまだ追いつかなくてもね、というような)がここにまた見られて、懐かしくも嬉しいステージだった。 女が主役のコメディである。ユニット美人のテーマソングがあるので、これっきりではもったいないだろう。振付はぜいたくにも北村成美。3つの話からなっているが、3つである必然もなく、3つめは少しまとめようとしていて、それもまた愛嬌。個人的には紙本明子のぶりっ子と本音しゃべりの落差が、この前ぼくの研究室に来たときにも出ていて、かなり面白かった。もちろん、しゅしゅしゅしゅの黒木美人のさなぎ呼吸とか、文化庁の部長に電話して請求書を払ってもらおうとする荒唐無稽なリン子(延命聡子)の蛾のような妖気声も夏のお化け屋敷である。朝平陽子はけなげな、捨てられ女役。
チェルフィッチュ『目的地』。KAVCで演劇としてみたものやアートコンプレックス1928などでダンスとして観たものが、ちょっと交じり合った感じがする。いまは、誰かが定義した演劇という対話も、授業中にぺちゃくちゃするようなレベルの会話すら実は成立しなくて(話者の想像のなかだけ、会話はあるという設定)、ぶつぶつ独り言をだらしなくしゃべってしまうモノローグしか世界にはないというところは、雰囲気は対極にある松田正隆『王女A』を想起させたりもする。主語が転移したり、だらっとしたりしているので、王女Aとの違いも多いけれど。 内容的には、想像の会話シーンのなかで、不倫している女に別れ話を言われて、世界情勢的妄想に入り込み会話にならなくなっていく男が面白かった。壊れた会話の暴力性。電車の中や地下鉄の通路でしゃべり続けている人と出会うと本当に心がときめいてつい乗り過ごしたりついていってしまったりする気があるぼくなので、ここのステージの構成の可否とかは別に(だれてしまったりはしたが)、まずますの観察であった。ただ、このままだと自己模倣になるか、それを恐れて目先を変えることになるか、あるいは、トレンド消費みたいに扱われか、そんな危惧がないこともないが、きっと持続するための工夫ができるユニットなのだろうなあとぼんやり思う。 それより、アフタートークはいつものようにパスしてダンスピクニックがはじまるまで読んでいた『Jポップの心象風景』(烏賀陽弘道著、文春新書、2005.3)が面白すぎる。サザンと盂蘭盆、とかユーミンとシャーマンとか。来年度の授業の教科書はこれに決まりだなあ。(なお、彼のサイトでどうしてCMの音楽がつまらなくなったかが、読める。http://ugaya.com/column/gekkanminpou.html ) ダンスピクニックは、エメスズキから。紙袋をさげた洋装の姿でお客に混じるスズキさん。さて、どう動き出すかなと見ていたら、突然、カフェの仕切りのところに上る。それはいいのだが、すべりそうになって、心配でまじに声をあげてしまう。あとは、無難に着物をきて、いつもの彼女の笑顔。ほっとする。 つぎに、ポポル・ヴフ。ソプラノサックスの舩橋の音がいつも以上に響き、しかも律動や情動はいつものように軽く抑制されている。おお。真剣にダンスを見る身体に自ずから変容していく(だからダンスをやめるわけにはいかないのだ)。 ポポル・ヴフの場合、身体と演奏の同時的なリズムがこうして波(音波、光波)から、音波の複合としての共鳴、光波の干渉として、結果的にシンプルな振付が生まれる(今回は映像としての光波はなかったが)。 今回は、その白いダンサー3名は、喩えれば、二人の通奏低音と一人の独奏楽器の関係にある(サックス演奏はそうすると下界へと降り注ぐ絶え間ない宇宙線である)。シタール演奏のようにはじまりも終わりも原則はないダンスがここにはあり。ただ、いままで見えていなかった波がふとそのとき見える線になって、いままでも身体内で波動していた動きの外形のリレーションがようやく感知されるという寸法なのである(まずステージがそこに生まれるには、波動の励起があるのであって、演者それぞれの個体という点があるのではないというのが、ここの特質である)。 それらの変移が、いくどとなく、鑑賞者の予測とのずれをもたらしつつ、帰結していく。今回は、どうも終わり方に課題があったようには思ったが、確実にダンス鑑賞としての快感を醸成しているので、自分的には問題にならない。ぼくは、ここのダンス公演を見ているだけで、満足する(もちろんセレノグラフィカとかあと少数のダンスを見ることは無駄ではないとは思うが)。今日もまたそれを確認し、あと、今さんとかキムさんとかも見て、家路に着く。 東京から若い舞踊評論家の人とかチェルフィッチュを見るためだろう、来ていた。関東の人たちもいるダンスの場とか、何だか、こちらとしては、それだけでもうどうでもいい場所だねという気持ちになる。伊藤キムさんを若いときから応援していたSさんの姿も。彼女がチェルフィッチュを見ようとして、出入り口で止まられているのを見て、ぼくが替わってあげてもいいんだけどなあと思っていたらそこはダンスネットワークの中心人物が調整していたので、変に口出しはしなかった。
芳江はある会場に行って、いつものように、堂々と発言したという。彼女は人前でマイクを握って発言することをしないとそこに行った意味がないと思うタイプなのだ(ぼくも、まあ、似ているといえば似ているが、ひょっとしたら、そういう彼女の恥ずかしさを振り払って主張する性格が、結婚後、ぼくに飛び火したのかも知れない)。 落語のDVDも少し見た。 |