こぐれ日録 KOGURE Diary 2005.2



421.2/21〜2/27

2/21(月)

断酒歴48日。

さきが千鳥饅頭の思い出に花を咲かせていて、それがあまりにも面白くてつい聞いてしまう。

3歳ぐらいからさきは西陣にあった千鳥屋の饅頭の絵が気になっていて、お母さんに「ほしい」というのだけれど、いつも「あとで」だったらしい。幼稚園の年少さんで福岡を去り、船橋に行くのだが、その去るときに、結局あの鳥さんを手に取ることが最後まで出来なかったと、そればかりが、哀しかったそうだ。19歳になって、やっと念願がかなう(というか、昔を思い出す)。

話が面白すぎたために、ぎりぎり、自動車(芳江の車で駅まで、そして椥辻からタクシー)のおかげで何とか遅れずに大学へ。
10時から、旺文社(私大蛍雪)の取材があり、去年はちんどん、今年は紙芝居で、無事、まずまず大学の紹介になったような気持ち。

13時から、二つの勉強会 (冠マ研と演ビ研)。来るべき人が3人とも来ない。松本さんは来てくれる。ネット上のやりとりをしていた大善院住職の佐々木正祥さんも午前中にメールを返したのに、来てくれて、議題がかわりましたが「学校とお寺と演劇〜限界芸術論との関係にて〜」みたいな、じつに有意義な研究会になりました。


2/22(火)

断酒暦49日。ちょっと、トヨタのダンスビデオがすすむ。それでもまだ76本目だ(161本。平均20分として50時間!)。一つずつ簡単なメモをとる。これは、実にいい勉強である。関西の人でも知らない人がいるし、また、知っている人の前のバージョンを見るとちょっと不燃焼気味でこの人を推薦したいと思ったとして、どう回りを説得できるだろう?とか思いながら観ている。

さるところで、研究室でぼくがエッチビデオを見ていると学生が勘違いしたという作り話をさる人にしたら信じられてしまって、おかしい。なるほど。気をつけなきゃ。それにしても、ぼくは人が面白がらせたくて(受け狙い:白い嘘なのだが)、すぐに作り話をしたりする癖があり、そのうち、自分でもそれが本当のことに思ってしまうっていうこともあるかも知れない。

近江八幡下車。NO-MAの運営委員会。その前にNO-MAに寄って、『極上スタイル』を見る。水をかけられたトイレットペーパーは豊富な表情をしている。ちょっといじけているけれど、こそっとした笑いがある。紙の変容。うろうろすること自体のアーツ。ここには、限界芸術的なパフォーマンスアートが起点となり、それが積み重なることで大いなる一人語りと観客を気にしない偉大で孤独な実演となる。

委員会では、新年度の企画展、二つが紹介される。『縫う人〜針仕事の豊かな時間』ははたよしこさんプロデュース/ディレクションでずいぶん具体化されている(チラシの原稿段階)。針と縫うはもうぼくが最近好んで使うアーツの比喩であり(というか服部正さんがアウトサイダーアートは大き目の針だと書いていたのを頂戴しているのだが)、二つのワークショップは何らかの形で授業にするつもり。5/15の「伊藤存さんとあそぶ刺繍会」は現代美術愛好者も多いだろうし、5/28の「おばあちゃんに教わる縫いもの作り」は子どもたちも多いだろう。希望者が多ければまた「70歳以上のふれあいサロンのおばあちゃん」がやってくれますよと自治会長さん。これは嬉しい。山科でもまた考えなきゃ。

9/23からは服部さんの企画である。これはアサヒビールからの助成が頼りのもので、無事うまくいきそうらしい。うちのタフ5はダメだったが、こちらがとれてよかった。できれば、インターンシップにならないかなあと思う。ワークショップなども夏に開催されるから。楽しみな二人の現代美術家がフィーチャーされる予定である。

今井祝雄委員長と一緒に山科まで。成安造形大学にこれから行かなくちゃいけないのだそうだ。ご苦労様。こちらは、京都府文化芸術会館で、遊劇体の『金色夜叉』をまた見る。再度見るとどうしてもつぎが読めるので、はじめほどどきどきしないが、それでも、金色なるお金の威力と私たちのことに絞った舞台に見入る。途中から寒くなってきたのは、会場の温度のせいか、それとも、私たちの業のせいか。

そうそう、大学にちっとも来ない(来れない)4回生がチラシを配っていた。入ると、ぼくは何も言わないのに、すぐ「また研究室に行きますから」と彼女が機先を制する。ぼく自体は大学を卒業することって、(教員としては、できるだけ卒業できるようにするのはもちろん務めでありますが)個人的にはどうでもよくて(だって、彼女は自分の道を自分で知っているのだから)、彼女の演劇人生をどうするかの方がずっと大事だと思っているのだが、やっぱりゼミの先生というのは、そういう風には思われていないのが、ちょっと寂しく。

で、帰りに、大学の授業などはこの際どうでもいい(これも誤解を招くなあ:大学の授業も大事だが、もう演劇にまい進しているときには、相対的にその意味は減るっていうこと。授業も「先生はえらい」と自分で学ぶ姿勢があれば有用なのだ/ちょっと自己弁護)けれど、こんどまちかど寸劇をするので、出ない?と声をかけると、彼女はひるんでいた(戸惑っていた)。これはまずったかも知れない(これで大学に来ようかな、と思っていたのに、また変なことをさせられるか!と思ったのかも・・)。どうも、おせっかいしすぎるのがよくないのかなあ。


2/23(水)

断酒暦50日。
11時からに学生委員会が変更されていたようだったが、一度手帳に書くと、メールでもこないと紙切れが入っているだけだと確認しない癖があり、そのあいだ、ずっと青木学科主任と新年度のことを話し合い、学科主任の仕事などを教わった。待ったなしに、人事要求だ。ゼミの構築はだいたいこちらの腹は固まる。あとは、うまく誘導するのみ。

大学院の関係の委員会で、はじめてのマスター誕生となる。ドクターを目指す人も多いということ。モラトリアムでなければいいが。それにしても香山リカ『就職がこわい』(講談社、2004.2)は、ぼくらにとっては身近な話ばかりで、頷いたり頭抱えたり。「なぜ若者は就職しようとしないのか」:彼女のゼミ生全体が就職しなかった話などは、少しほっとしたりもする。4回生の秋から冬にかけて、また就職活動が活発化するという話もなるほどと思う。つまり、早々と内定していた学生が、その企業の内定を取り消してもらいに来るからなのだ、それも、理由はただ漠然とした「不安」とかだったりもして。

憲法再生フォーラム『改憲は必要か』岩波新書、2004.10。とくに人権を新しく追加することにそれほど意味がないことは確認できたし、国際人権法の大切さはちゃんと判っていなかったので、国際条約をきちんとフォローしようと思う(もちろん、文化権を中心として)。


2/24(木)

断酒歴51日。あさ、研究室に到着。
小暮はながヘルマン・ヘッセ「シッダールタ」を読んでいたので、アマゾンにて注文。見あたらない「ぷちチャショナリズム症候群」(あとで大事にしまっていたのに気づく)とさきに読ませたい「先生はえらい」もまた注文。
ビデオのスイッチ。
メールのチェック。
神戸アートビレッジセンター(KAVC)から求人票(プラネットワーク)。さっそく、Mに電話。恐れずにゆけ!指定管理者制度は、わが大学学生にとっては、求人増となる。まずは契約社員なれども、アーツマネジメントが活かせるのであれば、良し(了)とすべし。

Yが来て、28日のインターゼミナールの準備をする。本当に2期生は自分からやってくれて助かる。ただ、就職活動積極組とためらい組に分かれているのが心配。自分探しの続行なのかも知れない。ますます、2回生から専門演習を始める意義を実感。

雨が降り出す。フェスティバルゲート。アートシアターdB。水野さんに福岡はご苦労様でしたといわれる。少し気まずい。岡さん一家が来ている。100%ORANGEさんの葉書セットを持ってくればよかった。時間が余ったので、モスバーガーを食す。ハンバーガーを食べたのは数年ぶりだ。なぜか食べてしまった。でも、マクドなどよりはヘルシーな感じはする。

15時半の公演に行って、夜は京都の演劇賞を見る予定だったが、19時半のこれだけになってしまった。

ダンスインデペンデント『ガムをすすめる』。垣尾優(KAKIO MASARU)ダンスパフォーマンス。1時間ということだったが、もう少し長かった。74分間。目隠しをしてチューインガムを食べてその味をあて、壁に貼るとか、3600から1ずつへらして0にするとか、その偶然性もあるパフォーマンス(コンセプチュアル美術の手法にとても近い)だから、音楽でセットされた舞台よりも時間管理はあいまいになるのだろう。

垣尾さんは、1973年福知山市生まれ。31歳ぐらいだ。もう少し年齢は上かと思っていた。呆然リセットというデュオダンスユニットを振付踊っている。このユニットはかなりスピード感に溢れていて、演劇で言うと「正直者の会」みたいである。ところが、今回は「正直者の会」がそうなりつつあるように、滑稽さはあるのだが、もっと哲学的なダンスになっていた。それは、福知山出身の谷垣さんという人や桐村さんという人を登場させたからかも知れない。

動きに限界芸術が混じって、福岡まな実が彼らの動きをなぞるという逆転現象を与えていたりするあたり、ダンスのダンスによる批評となっている。自己言及性。入れ子構造。「現代舞踊」ということばを本来の意味に戻せば、彼の今日のダンスは「現代」という20世紀芸術(アートの意味を問い続けるアート)にかぶせられた芸術分類にとてもふさわしいものだったと思わせる。とはいえ。

シニカルにおかしい。シリアスにおどける。くりかえしとずらし。美しい動きとは。
ジャケットが裏返る。ジャケットに囚われる。口をふさぐ乱暴な愛。こめられた拳骨に、逃げ場のなさを包む。
紀元は3600年。時間は遡行する。
2005年はすっと過ぎた。自分の生まれ年に来たときびくりとした。0に近づくともう福岡まな実の声は極小になった。
出演している男性2名がダンサーでなく、垣尾さんの友達みたいなのがおかしい。鈴虫などを当てるのは、彼が里山学などを研究しているからだそうだ。

基本的にはとても面白くとりわけ実験的だと思った。少しルーズな時間帯があって、それはそれでいいのかも知れないが、もう少し動きの構成を緻密にすることも必要なのかなあとは思う。垣尾さんって、もっとおどけてこっけいでスピーディーなダンサーだと錯覚していたので、こんなに主知的でいい加減で、少し人間的に怖いかも知れないと思わせるダンスを構成していて、びっくりした。

ガムを噛む習慣が少し減っているような気がする。子どものとき、ガムは少し不良の味がした。タバコを吸う前の一つのステップ。飲み込まないで噛むという行為が潔かった。ガムをすすめたことがない。すすめられたことはある。ぼくは唯我独尊なので、誰かとコミュニケーションすることを怠ってきた。だから友達が生まれてからほとんどいない。垣尾さんはこうしてガムをすすめてきたから、いま舞台に友達がいるのかなあ。もうやめるというけれど、もう友達作りをやめるのかな、それとも違うコミュニケーションを見つけたのか、きっと後者だろう。

ぼくはいつになったらガムをすすめるのだろうか。きっとすすめないままに、ガムを噛む習慣はなくなったので、何もすすめず、ただ死んでいくのだろう。それも螻蛄(おけら)の声のように、静かに落ちつく考えである。


2/25(金)

断酒歴52日。

京都市東部文化会館へ。館長の白藤和夫さんに会う。(財)京都市音楽芸術文化振興財団という名刺をもらって、そういう財団名だったのかと初めて思う。山科醍醐こどものひろばの朱まり子さんが発案し、白藤さんも呼びかけ人となって、6月25日(土)と6月26日(日)にかけて行う企画の打ち合わせだ。

見下ろして話すことや代表としてパネルするのではなく、個人と事例の具体性を大切にしたものにしようと話し合う。まだ、きちんと相談していないが、タフ5に関わってもらうことになる小鹿さん、田辺さん、林さんには、出来れば両日、あるいはどちらか一方でも関係してもらいたいものだと思っている。

研究室ではビデオが流れたまま。就職活動の真っ最中な学生たち、そしてちんどん精鋭でTAM研会計班長Hが研究室にいてにぎやか。Hが、ちんどんワークショップも5月にはしようという。いいぞ、いいぞ。任せたぞ。

出だしが悪く、ロールケーキなど三条京阪の駅店で買ったことがたたって、大阪市立芸術創造館には間に合わない。京橋に着いた時点で19時半近くになり、森小路に行かずに、早く家に帰る。だったら、もっとトヨタビデオをみておくのだった(いま、130番ぐらい)。ばかみたい。桃園会のクラシック・ルネサンス。とくに菊池寛の「父帰る」は見たかったのだけれど。早く帰って3人で話す。体重がまた72.0kgまで上昇。いかん。


2/26(土)

もう一つのブログ、「アーツな京都橘大学へ」http://kogurearts.exblog.jp/に就職活動に向かっている(恐れている)学生たちのために、以下をアップする。
・・・・・・
仕事人として、オンリーワンになるのは、ナンバーワンよりはるかに難しい。それに、そんな仕事ができているのは、イチローぐらいだ(宮沢賢治やベートーベン、ゴッホのようなアーティストももちろんオンリーワンなのだが、生きているうちに仕事=プロとして評価されることがまたまた難しいのである)。

逆に、仕事は引継ぎ出来るようにするのが、大切で、組織的な職場で「かけがえのない仕事」をする(求める)のはお門違いなのである(だいたい、ぼくは「小暮しか出来ないことをしようとするから、よくない」とずっと言われてきたし、そこがアーツ関係を行政や企業で展開することの難しさになるのだ)。

そういうことを前々から思っていたのだが、それと近い内容のことが、彼女の優しく語りかける口調によって、改めて示してくれているので、ぼくが言うより効果満点だろうと思いちょっと、引用的に紹介。
香山リカ『就職がこわい』(講談社2004)200P〜209Pのあたり
嫌いなことをやるよりは好きなことを仕事にするほうが楽しいけれど、かといって楽しい仕事がいまあなたが抱えている問題を解決してくれるわけじゃないんだから、職業選びや会社選びではあまり思いつめないほうがいい。その前に、まず仕事をしてみよう。

本当に必要なのは、若い人たちが仕事や結婚などに頼らなくても、「自分は自分なんだ」と自己肯定感を持ち、「私はほかの誰かとは替えがきかないんだ」と自分のかけがえのなさを内的に実感できるようにするにはどうすればいいのか、それを考えることに尽きるのではないだろうか。

「私にしかできないこと」「自分らしく生きること」を実現するはるか以前に、人がまずしなければならないことは、「他人をあてにしないで生きること」、これだ。あてにしない人生を送る手だてさえ見つかれば、不安や恐怖の多くは消えるはずなのだ。

そのためにも、おそれずにまず就職をしてみては、どうだろう。
就職することも、就職活動をして何十回も不採用通知をもらうことも、格好悪いことでもなければ、大切なこととはいえ、若者本人がそれほど深刻に受けとめる必要もない。
夢や希望がなくても、ひとまず就職を―

もちろん、夢や希望があってもいいのですが、あなたの夢や希望と、いま現実にある就職(仕事)をダイレクトに結びつけようとすると、何も始まらないのですね、これが。けっきょく、突然に夢の使者がいずこからが訪れる日を待ち続けるはめになるのであります。
・・・・・・

断酒暦53日。

大学院の入試日。
試験監督に面接。院生を2年間もったので、質問もやっと現実的な部分を聞くことが出来る(だいたい、うちの院に来る人たちの水準や本当の動機が見えてきたから)。
そのあいだに、学生たちが研究室に来ていて、雑談。
今年の春休みは、休みでないように、学生たちとの交流が続いている。
就職活動は、いまが第一の正念場かも知れない。去年は何もわからなかった。
次の3回生がもっと来てくれたら嬉しいのだが。大々的には公開していない身内的な「たちばなっこ」は見てくれているだろうか。

今日もまた微妙な時刻に入試用務が終わったので、インディペンデントシアター2(初めて行くところだったので行きたかったのだが)での売込隊ビームのお芝居『大家族スペシャル』は見れなかった。かわりに、ブックオフで時間をつぶした後(100円均一な岩館真理子と佐々木倫子をばらばらに6冊ほど)、京都府文化芸術会館で、ニットキャップシアターを見る。いつみても、ここのお芝居は長いので40分ぐらいで退屈になりそのうち途中で寝てしまう。だいたい分かってしまうからなのだが、再演なので今回は特にそう。いいところを見つけようとずいぶん目を凝らしていたのだが・・・でも、いまの同世代の人たちには等身大のことが描かれているので、共感を持てる作品なのかも知れない。こちらは、歳なので・・・。

はなが読んだというヘッセ/高橋健二訳『シッダールタ』新潮文庫1971を読む。はじめは、その畳み掛ける独特の短文と、古い本なので小さい文字がしんどかったが、すぐにいい気持ちになって読み進む。帰り、夢中で最後のところを読んでいると「はしもとー、はしもとー」。乗り過ごしあわてて降りると、ここはいったん外に出ないといけない。寂しく小さな駅で待つこと15分。実に寒くて試練の普通待ちだった。でも、素敵な叙情にしばし忘れたので、ここでは、「聴くこと」の奥深さをよく描いた一節を:
p104〜5:

《ヴァズデーヴァは注意ぶかく耳を傾けた。素性と幼年時代、いっさいの学習、いっさいの探究、あらゆる喜びと苦しみ、すべてを傾聴し、心に取り入れた。これはこの渡し守の美徳の中で最大の美徳の一つだった。つまり彼は傾聴することを心得ている点でたぐいまれであった。ヴァズデーヴァはひとことも発しなかったけれど、話者は、相手が自分のことばを静かに胸を開いて待ちつつ摂取してくれるのを、ひとことも聞きもらさず、ひとこともせっかちに待ち受けることをせず、讃辞も非難も並べず、ただ傾聴するのを感じた。そういう傾聴者に告白するのは、そういう相手の心の中に自分の生涯を、探究を、苦悩を沈めるのは、どんな幸福であるかを、シッダールタは感じた。》


2/27(日)

断酒暦54日。

ストレスが少し増しているのだろう、朝4時から5時にずっと眼が覚めていて、頭痛が徐々に明確になっている。風邪ではない。4月からの学科主任なのだから、まだあれこれする必要はないのだが、5期生からの教学システムをもう少し現実的にしていきたいので、じたばたしてしまう。始まる前だと実感がないが始まってしまうと遅すぎる。こんなに小さな組織ですら、どこで決まっているのか、どこまで決まっていたのか、これからどれだけは決めてそれ以外はなりゆきにしておいてもいいものか、考えると頭が朦朧としてくる。

単に文化政策学科の基本姿勢をちゃんとしようということなのだが、どうも独り相撲になっている。こちらだって、アーツマネジメントとは名ばかりの環境/体制/主体や大学全体のアーツとはほど遠い温い感じは重々承知しているから、あんまりむきになっても仕方がないことは判っている。でも、学生がアーツマネジメントそのものに取り組み仕事にする必要はほとんどない(学部だけではまずムリなので)けれど、アーツマネジメントなどの文化政策を通して意欲をもって学ぶことを体験し、自己肯定感とともに社会に出て行く準備を学生に用意する体制を作るのはいまの大学の仕事だろうと思っている。気持ちよく3回生の後半から就職活動に向かわしてあげること。そのために、「何をすべきか」ということなのだけれど。

13時から京都芸術センターにて、糾〜あなざい〜第16回公演『とおとし』(作・演出:芳崎洋子)を見て、そのあと、京都ドイツ文化センターで1時間に及ぶシュパーリンガー作曲『extension』を聞く。演奏はバイオリン:辺見康孝、ピアノ:大井浩明。なかなか充実した1日。ただ、少し忙しいので、今回はどちらも書くことはパス。

でも、後者は体が浮遊するぐらいに、バイオリンの弦から出る瞬発力とこすり音の落差がぼくを捕らえた。もちろん、ピアノの弦へのアグレッシブな玉ころがしピックにもしびれる。ぼくは、こういう現代音楽に眼がない(耳がない)のだと再確認する。弓の宙をよぎる音とサイレンみたいに響く音、擦れる音にも多様性。布で拭いたり、上着を脱いだり。小さい音は無限である。大きい音には限度があるが、小ささには果てがない。奇妙な逆転がそこにはある。

お芝居の方は、震災で亡くなった人たちが10年の眠りのあと1週間だけ何か一つしたいことをしているというスタティックなスケッチ。生者が10年前の彼らを思い出したときだけランプが点り、その思い出した生者の姿を子どもプールで垣間見られるというもの。ラストに謎を残す。いささか少女マンガの趣きあり。シンメトリーでプールの休憩所みたいな設定の意味はなんだろう。むなしさと忘却、あきらめとしずかさと。



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