こぐれ日録 KOGURE Diary 2005.7



こぐれ日録443 7/25〜7/31

7/25(月)


小津安二郎監督の『東京の合唱(コーラス)』を午前中みる。もちろん、無声映画。白黒。90分。

冒頭の体操の時間の整列について。「学校化」の意味。
大學出の主人公が洋食屋になった元体操の先生と一緒に幟をもち、ビラを撒くことの屈辱とは何か(サンドイッチマンが下層民〜ブルーカラーの下〜であるという社会意識はいまも変わらないかも知れない、少なくともチンドン屋さんに対する少し前までの受け止め方からすれば)。
ただ、若い人たちには、そういう階層差は出会っていないこともあるし、サービス業の拡大・普遍化によって、まったくぴんと来ないに違いない。

大學出のホワイトカラーの夫と結婚したはずの妻の嘆きと、でも、一緒に洋食屋を手伝う健気さ。これをどう伝えるのか。もちろん、小津映画の中流階級的な目線も含めて考えることは必要ではあるが。

限界芸術的にも、最後の寮歌の合唱はもとより、核家族4人が、失業と質草でなくなってしまった妻の着物のぽっかりした空白を、「セッセッセッ」(手遊び唄)が次第に埋めていく。長女役が高峰秀子。3人目の赤ちゃんは女だろうか、男だろうか。ぼくは女ではないかと思うのだが。

大学から電話。明日の午前中に対処することにして、京橋のOBPへ。JAM Westのシンポジウム。4名のパネラーの熱意によって、なかなかいい集まりになったと思う。少し飲みすぎた。
高知県中村市からYさんが来ていて、藤田さんがこの日乗に載っていたでしょ?といわれる。

おかしかったのは、Mさんが岡山の人はみんないい!と本気で話していたこと。
ぼくだって、宮崎の人はみんな善人であるとずっと思っていて、それでも、警察があるのだから、そうではないのであろうが、そう思っちゃうという惚れこみというのが地域への愛(偏愛)のようなものなのだろう。宮崎にいたとき、誰かが捕まると、その犯人が宮崎出身でないかどうか、みんな心配していて、宮崎出身でないことがわかるとほっとするというのが宮崎県民性だと心配しながら宮崎の人が言っていて、その言葉がずっと残っている。ただ、地域愛というのは、地域比較によって、別の地域嫌悪ということを招きがちになるので気をつけなくてはいけない。沖縄が好きだと鹿児島はどうかな(実際、沖縄の人たちは戦争疎開の際、宮崎を選んだ)とか、そんなことがどうしても起きてしまう。愛国主義と同じ根だと酔っ払いながら思った。


7/26(火)


台風は直接関東に行った。
昨夜、ばかなことをしたことについて、指摘メールあり。ありがたい。
猛反省。
4回生が久しぶりに来る。五つの赤い風船や「遠い世界に」をまったく知らない。びっくり。
「文化グローバリズムの脅威」という言葉が政治的かどうかについての話し合い。
「交通」ということばは通じないようである。

今年度で引退されるT教授の授業は、学生同士が離れて座る様に座席指定されているので実に静かなのだという。私は以前から性悪説ですから、と。個人を指定しないでも、一列空けに座る様に座る場所だけでも指定すれば、それだけで、隣同士のおしゃべりはかなり少なくなるかも知れない。

東裕紀がいうところの「環境管理型権力」による私語防止策といえる。従来の自律する市民になれと誘導する「規律訓練型権力」が、「ひとりひとりの内面に規範=規律を植えつける権力」であるのに対して、「環境管理型権力」は、人の行動を物理的に制限する権力だと説明されている(p32、東裕紀・大澤真幸『自由を考える―9・11以降の現代思想』NHK books、2003)。

「環境管理型権力」とは、キセルをしないように人びとにモラルを呼びかけるのではなく、自動改札機を導入することであったり、席の回転をよくするために、声をかけるのではなく、硬くて長く座れない椅子にするというタイプのもの。


7/27(水)


大学に行く途中、六地蔵にて、Q教授に遭遇。
「小野駅でぼくは降りるんです。」
「ぜひ、わたしもご一緒させてください。」
「遠いですよ、田んぼを通りますよ。」
「ええ、もちろん。」
はじめて、地下鉄東西線小野駅から京都橘大学まで歩いた。
風景は一駅でずいぶん違うものだ。用水路に亀がいた。
汗が流れる。ご研究柄、健脚だなあ。気持ちのいい25分間。

研究室についたとたん、松本さんから電話。彼とはこうして長電話をして何か用事以外のものを伝え合っているのかも知れない。秋の学会の全国大会(関西部会担当セッション)について、それでも、少しアイディアが生まれる。ほんとは、午後の会議用に何かメモを作ろうかとも思ったが、まあ、いいやって気になる。

午後から学部会。いろいろな実態が現れる。みなさん、いいゼミをされているなあと感心する。ヒントがいっぱい。私語問題も含めて、文化政策としてのある程度の共通ルール作りというのも課題になるだろう。
こちらとして、心配していたことがちょっと見え出す。それでも、次年度に向けてすることはいっぱいある。そのあと、また校務の会議。

大学用のブログhttp://kogurearts.exblog.jp/に書いたが、昨日の部長会で難聴学生のためのノートテイカーの制度が出来る。さっそく、応募を促進しなくちゃいけないが、残念なのは、基礎ゼミなどが終わってしまったこと。少し前進である、大学自体のユニバーサルデザイン化に向けて。


7/28(木)


少し日が昇ってから階段を下りる。
階段の直線的な影が、夏の朝日によって、そのままコンクリートにくっきり刻印されている。そこに、なぜか、煙のような儚い草木の影が、立ち上る構図。どうして、こうも焦点がぼやけてこの地面に映っているのか、どうしてもわからない。実像があまりにも平凡な庭木なので、かえってその影のぼやけ方が尋常でないことが心を騒がせる。どうしても、デジカメを取りに戻りたい衝動を押させて。だめだめ、立命館大の試験監督に遅れてしまうから。

めずらしく、わがマンションでは、冷房を一度もつけていない。芳江さんは日中、電気代を考えて去年までもつけないでやってきていたらしいが、ぼくが帰ると即座につけてもらっていた。夜も去年まではつけたまま寝ていた。それが、一転して、どうしたことだろう。年の功?熱量がなくなっちまった?

たぶん、どうも今年はまだ風がよく通るからなのだろうと思う。昨夜から今朝にかけてもまた、快適な目覚め。立命館についても、夏の空っていう透明な色が、自分的には爽やかな限り。今朝のいでたち、ニブロールのTシャツとこの前青森でいただいた奈良美智の手ぬぐいが試験監督的に紺色で、これでだいたい前期が終わるという解放感が気持ちをより快活にするのだろう。

320名ほどが試験を受ける(412名の登録だったが、就職活動で忙しい4回生の脱落が目立つ)。2会場にまたがっているのは、去年と同じ。うっかりと誤植があって、それを立命館の先生(監督官)に指摘してもらい、あわてて訂正。「2Aか2A(→2B)のうちどちらかを選んで・・」。面白いのは、2枚にわたって書く学生が産業社会学部3回生の部屋ではゼロだったのに、他学部と4回生以上の部屋では5人もいたということ。

蹴上駅から、まずギャラリーすずき。加須屋明子企画(イメージの新様相ィ」)、Companion Species Manifesto。山吉ちえのビデオは仲間(コンパニオン)としての2匹の犬、わんちゃんのビデオとインスタレーション。ふつうぽい(紹介ビデオのようなもの)ものもあるし、わんちゃんのお尻の穴から覗くと、ぺろぺろ雑念なく水を飲むわんちゃんが映るものもあった。

いちばん、気持ちいいのは、この夏にぴったりの金魚が泳ぐ水槽に、なぜか、ぴよ〜ん、ぴよ〜んと音たてて飛び上がるわんちゃんである。その、無意味さがおかしくってつい声を出して笑ってしまった。なんにも考えないですむ現代美術をめざしているようにも思えるが、一応、フェミニズムとか寛容と和解とかとの関連での解説もあって、そういうこともまったく念頭から抜けたわけでもないが、軽さが特徴な作風のように思った。

軽さという意味では、ちょっと松山賢の絵画やインスタレーションの方には分がない。それよりも、薄さが際立ち、その薄さというのは、日本が世界で一番薄いのかも知れないと思わせるぐらいに、その着ぐるみのような動物もヌードな手足に過剰にレースされていうる女の子も、つるつる地表を滑っているスケーターも、表面はどんな素材であっても何もかも同じく、薄いのである。
そやつは、毛皮を着たレッサーパンダなのかモモンガなのかムササビなのか知らないけれど、実にふわふわっとしていて、でも表面しかなくて薄いので、その反語性にいたく滑らかに感動する。

ペットとか着ぐるみとかぬいぐるみとかが、ロリコンな女の子の図像以上にエッチに見えるには、夏の日差しにぼくがやられたのかも知れないと思いつつ、アートスペース虹へと道を横断する。

こちらは、爽やかな木々の世界である。
適度な水分と心地よい蒸発のための風=空気の流れ、熱の放散。
朝の散歩のときに目を留めて、夕方、紅茶を飲んだあとに、ふと絵筆を持って気がつくと作品になってしまったかのようなリズムが聞こえてしまう(もちろん、そんなお芝居じみた話ではないとしても)。
それはまた、平板な紹介になってしまうが、まっとうな、ふつうの風景画ということも出来てしまうかも知れない。つまり、結局、児玉靖枝という美術家の方の過去の作風がずいぶん違っていたはずだということを思い出すことなどまったく必要がないほど、気持ちのいいairが、ここには流れている。

このあと、アートスペース虹は、8月は22日までお休み。お休み前に、避暑地の涼しさを味わえて幸せにさせてくれる展示だった。地震もテロもサリンも被爆も何もかもすでに知り尽くしたあとの静けさというか、あるいは、逆にそういう悲劇と無関係にこの世界はあっていたとしてもいいような瞬間はまだ残っているという信念であるかのような、平穏さ。

ギャラリーはねうさぎでは、若い人たちの個展。マンホールを陶器にしている人と平面の人と。

Jポップについて書いてある新書を読みながら、各駅停車でゆっくりと戻る。まだ、16時。シャワーを浴びて、やっぱり冷房のいらない風の吹き抜ける居間で缶ビール。サラリーマンがまだ働いているときに、缶ビールは悪いなあと思いつつ、買ってきた『クウネル』(木陰主義。2005.91)をめくる。故デレク・ジャーマンの庭に咲く芥子の赤さが目に沁みる。


7/29(金)


あさ、中古で注文していたORANGE RANGE『1st CONTACT』を聴く。もちろん、途中からザザッピング(おっと、ミステイク、でもいいか、ザッとザッピングの意味で)とになったけれど。なるほど、高校生はこういうのを聞いているのか、と。まあ、なんとなく知っていたけれど。

そのチープさが不思議な感じ。かつての渋谷系とはまるで違う。最後の『山内中校歌』のみ耳に残る。これも音楽、いえ、いまは、これが音楽。では、今日、八重山民謡とかは、何と呼んだらいいのだろう。あるいは、ベラ・バルトークやアントン・ウェーベルンは。

そのあと、昨日、二条駅そばの大垣書店(2階にゲーセンがあり4階がシネコンがあるこのビルもUSJの兵舎っぽさと同じくすでに何かが終わったあとの廃墟っぽさが漂っていた)で買っていた『ゼクシィ』9月号の付録DVDを見る。なるほど、うまく作っている。韓国で編集とかしているいみたい。タイアップ曲を書き歌うユーミンってその生存自体がすごいなあ。マリッジブルーを克服するまで。こうして結婚式に向かってもらわなくてはウェディングビジネスが成立しなくなっているからねえ。うまい(うまいって二度も言った)。それにしても本体が重すぎる。

午前中、大学で毎日新聞のエッセイを書く。8/19(金)連載予定なのでずいぶん早いのだが、どうも、せっかちなので、つい書いてしまう。

題して「だれでもアーツ」。軽いものにした。ホントは、見えない壁とか、死の三つの人称とかも、考えたが、まあ、字数的にはこれでいいのではないかと。そのあと、成績をつけて無事提出。学生がよく本を借りに来るようになった。知的な交流が出来て嬉しい。前年度までは、勘違いした学生が授業も出ずに居座り、うだうだ甘やかすだけの研究室だった(これはやはりこちらも学習が不足していた感は否めない)が、あることをきっかけに、ずいぶんと改善されたものだ。

開放的な気持ちで、地下鉄に乗る。ダンスを見るつもりだったが、無意識に京阪三条駅で降りていた。どうも、まだ拒否反応が強いなのだろう。ゆっくりプロ野球観戦。阪神が今年は中日よりもやっぱり強いことは確実。それでも川上憲伸の勇姿はファンとしては気持ちよいもの。

烏賀陽弘道(うがやひろみち)『Jポップとは何か〜巨大化する音楽産業〜』岩波新書、2005.4。朝日新聞社の元記者で岩波書店というとあまりにもパタンだが、ぼくには、ずいぶんと参考になる新書だった。まだ、暫定的だが、もし自分探しの旅を来年もするのであれば、今年は愛国イベントからの自由だったが、「音楽ビジネスからの自由」というテーマにして、この本を使う手があるなあと漠然と思った。P228の部分のみを引用しておく。

《 こうした「製品」そのものの質を競うのではなく、広告や宣伝などで競争することを一般的に「製品外競争」という。テレビ出演をめぐる饗応や買収も、広義には製品外競争の一つであるといえる。(中略)
《 98年以降、CDの売上げが急落してから、音楽産業は様々な「犯人」を挙げ、それを潰すことには実に熱心である。「インターネットからの不法ダウンロード」や「逆輸入盤」などがその例だ。しかし、全く不思議なことに、その最大の「製品」である「楽曲」についての自省の声がほとんど聞こえてこない。CDが売れなくなったことについて、「外部の敵」を非難することには熱心だが「自分たちが送り出す楽曲は、今のままでいいのか」という真剣な議論や検討の声が聞こえてこないのだ。そういう反省がないまま「外部の敵潰し」ばかりを続ければ、リスナーの反感を買うだけの結果に終わりかねない。そろそろ「タイアップなどなくとも、人々の心に響くうたをつくろう」というごく単純明快な「製品内競争」が始まってもいいことではないだろうか。》


7/30(土)


大学院の2年生中間発表に行こうかと思ったが、そのまえに、昨日届いていた『五つの赤い風船2000』のDVDを視てしまうと、これをどうやって授業にしようかなあと、オリジナルのCDを聴いたり、西岡たかしがソロでオーケストラをバックに歌っているCDを視たりしているうちに、どうも、出かけるタイミングを逸した。

まあ、土曜日なので、芳江さんが名和晃平さんの展示に行くというので、彼女が準備をしているあいだ、小島麻由美『二十歳の恋』を聴きながら待って出かける。西長堀駅そばのstudioJは午後かららしいというので、東急ハンズでファイル(昔どこでもあった紙製のcase fileがなくてびっくり)などを買ったあと、南新場でランチ。手ごろなイタリア料理店だった(ZUOU)。

Kohei Nawa Drawingsは、ニューヨークにいる名和のドローイングのみの展示。こんな試作をしているのかなということが判るようなもの。親父に手向けるドライフラワーを持って、実家へ。物置から出たままになっていた雑誌(ユリイカ〜1969.7の創刊号があった〜など)と文庫本(ほとんどが岩波の哲学と思想のものばかり)のなかで、残すもの(カントなどはちゃんと読んでいたがヘーゲルとかマルクスの資本論などでちゃんと読んでいないようなものもあり)と処分するもの(整理するものとしては、岩波新書も多かったが、なんと岡義達『政治』が発見された)を整理。ほとんどは中高時代に読んだものだがそのほか、20年前ぐらいからずっと読んでいた広告批評が一箱(これは、学生が興味を持つかも知れない)。

まだまだ整理すべきことは多い。また、野田を訪れて一緒に片づけなくちゃなあと思いつつ(親父の納骨が先だけれど)、三条駅へ。大橋から鴨川一帯に、試験期間が終わったからだろう、学生たちの集団がたむろしていて、歩きづらい。何が楽しくてたむろしているのだろう。冷房にあたりたいためか、コンビニに集団で待ち合わせしているのを見て、これにはびっくり。

めずらしく拡声器で演説している学生(立命館大の院生と京都精華大の学生で、辺野古移転反対デモにも参加したのだという。でも、かつてのような調子がなく、遊興の学生たちの群れに埋没しがちである)がいて、カンパと署名。こんなに聞いている人が珍しいのだろう、「沖縄の関係者ですか?」と団塊の世代の男性に尋ねられる。ええ、沖縄開発庁にいまして。それでは、公共工事で破壊してきた方ですね。予算のまとめ役でしたから、北部5ダムのほか、座間味ダムなんていうのもしましたよ、マリリンに会いに泳ぐ犬と一緒に。あと、首里城公園という張りぼての地ならし作業とか、つぶれ地問題、不発弾処理。

沖縄はますますシャブ付けですよ。基地の見返りで。結局、もう誰が工事をするのかとか決まっているのでしょうねえ・・。そういえば、防衛施設庁長官の更迭の記事が夕刊に載っていた。長官といっても山中昭栄さんだったので、旧自治省の先輩も苦労しているなあと思ったところであった。

19時過ぎから21時まで。うずらギャラリー。カナダ人で仏教徒のシェリーのささやく歌(主催の富田民人のギター)、いまアメリカに行っているささやまのりひろのフォークソング。一番初めが高石ともやの歌を英語と日本語で交替に歌っていて、朝、五つの赤い風船が高石ともやの前座に出た話を聞いていたところだったのでシンクロしたなあと微笑む。里かつゆきのソロと、ささやまと里のデュオ(山里)での歌。二人はクリスチャン(里の方がかなり信仰に入り込んでいる歌)なので、歌詞に神様が出てくる。英語だったら気にならないのに、日本語で超越神が出てきて、鳥と人間の役割は違うのだというような教義に基づく歌になると、アニミズム的な自然観の日本ではかなり異質な文化だなあと思ってしまう。

マイクはなし。里のギターはスピーカーにつながれている。冷房がなく扇風機が二台。ぼくは平気だったが、隣の中年の女性がライブの間中、多動気味でミネラルウォーターをしゃかしゃかと言わしたり、仲間以外のことは眼中にない典型的なオバタリアン(死語かな?)で困った。途中、行儀は悪いが、その女性がソファーを占領するので、こらえきれず窓辺に上って聴取する。


7/31(日)


やはり、こぐれ日乗の訪問者数は減少している。昨日は60台。
ただ、この1週間ぐらい、回りに心配をかけているなあと痛感(それでアクセスが多かったのかも知れない)。
甘えるばかりではいけない。
少しずつ、体調ならぬ「心調」を整えていこうと思いつつ、まだ、家の中にいる。

今日の未明、あまりの暑さに3時半には目が覚めた。全身ぐっしょり。
何でも、宣言してそれに囚われるということはあるが、今年は、冷房を入れないと書いたばかりにちょっと、やせ我慢かな。でも、雨が降ってから涼しくなって、気がつけば、午睡。心地よし。
甲本ヒロトの歌詞には、アニミズム的仏教の世界観があるという部分だけ、烏賀陽弘道『Jポップの心象風景』(文春新書、2005.3)を拾い読んでいて、そのままねむったので、珍しくシュールな夢を見た。
明日、立命館大学の採点をすれば、前期はほぼ終わり。

最近、閉じこもっているせいか、アマゾンで本やCDを買いすぎた。
無理せず、冷房をするときはして、書斎の夏というのもまたいいかも知れない。
何事も囚われないこと。自己規定も他者による自己の統一性も、そのセルフアイデンティティが、未知なる自己を狭め、それに縛られるぐらいなら、そんなアイデンティティは、ないほうがましである。



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