こぐれ日録 KOGURE Diary 2005.6



こぐれ日録438 6/20〜6/26

6/20(月)


黄金比を説明しながら(3回生は何もしてこないので、仕方がない)、これを演者と観者の関係や地域とコミュニティと個人との関係につかえないかと、ラカン的跳躍力を援用しつつ思ったりする。

あとは、大阪市と大阪府とどちらもやめてしまうアイディア(それがすぐには不可能なら道州制になる前の暫定期間、大阪市を解散して大阪府だけにする)を23日にしゃべるかどうかの検討(少なくともアーツ行政分野はできると思う)。一種の道州制と二重構造の自治体体系の再編についてである。

編入生たちの集まりに第2学生会館へ行った(大学院の発表は二人の教員がどちらも病気ということで中止)。先輩たちはずらっといるのだが、肝心の今年度は言った編入生たちがゼロである。何のためにあれだけ、チラシをつくりこちらも話しをしたのだったか!あほくさい。でも、みんながっかりしているはずだが、明るくしているので、こちらも極力明るくしている。

なんだかな。あれだけ、うちのゼミ生も楽しみにしていると言っていたし直前に会っていたのに・・・。「失望は最後にして」と書いているが、まあ、「希望は最後に一人でも見えたら、しよう」という方が正確かも知れない。


6/21(火)


外に一歩も出なかった。
ブログばかりいらっていた。
葬儀場反対の左京区住民の動きは注目していこう。
やったことは、まだまださきの毎日新聞のコラムのみ。
でも、少しずっしりとしたことを書いたと主観的には思う。
「しじまを聴く」。13字×54行。


6/22(水)


金曜日に中学生が大学訪問をするというので、3回生のゼミ生に補助を頼む。むかしは、こういう依頼もスムーズだったのだが、とくに3回生以上の学生は予想もできないようなネガティブ反応があったりするので、びくびくものである。

タフ5は、学生の関わり方についての再確認。1回生、2回生、そして、文学部も参加なので、意思をスムーズにしていくのは、ずいぶんと小鹿さんには苦労をかけている。ただ、専門ゼミの授業として行った昨年よりもとても幅が広くなっていることは確かだ。帰りに、パセリへ、アサヒアートフェスティバルのリーフレットやポスターを渡す。ここは、いつも喜んで置いていただけるのでありがたい。むかしだったら、学生などを連れてタフで遅くなったら来易く飲みに来ただろうが、もう、そういうことは出来なくなった(男子学生も混じると、またいいかも知れないなあ。でも、たかられすぎるか)。

恵美須町で毎日新聞の夕刊を買う。50円か。9面の『社会 事件 ひと 話題』に、けっこう大きく「大阪市 ああ無情「経費節減のため」誘致3年後移転打診 フェスゲ入居芸術4団体困惑」の記事(岸桂子さんの署名入り)が見つかる。彼女は丁寧な取材でNO-MAとかでもお世話になっているし、いま毎月書かせていただいている「風の響き」の連載の担当者でもある。

いろいろコメントしたが(岸さんももっと本質的なことも書きたいけれど、それはあまりにも過激なのでと話していた)、以下のようなものが載る。これも、わざわざ夜電話してくれていた文言だったので、こういう電話取材のあと、事前に掲載コメントを教えていただける記者さんは少ないので感謝である。

「現代芸術に特化した取り組みは、福岡や山口など他の地方都市にも影響を与えるオリジナリティがあった。都市政策として失敗した施設を芸術という別の価値観で救おうとしていたのに、大阪市は結局、個性を消したいということなんだろう。」(小暮宣雄・京都橘大学教授*地域芸術環境研究)2005.5.22(水)毎日新聞夕刊。

2002.12.6(金)の朝日新聞(夕刊)の記事『大阪市の新世界アーツパーク事業 不思議空間にアートの拠点 「公設民営」の新方式で』(鈴木京一記者)と対比して、明日の授業やシンポに使えるなあと思う。ここでは、「文化政策を研究している小暮宣雄」はこんな話をしていた。
「行政が全部直営でやるのはどうしても無理があり、その点で受け皿作りに徹する大阪市の方法は注目に値する。アーティストの側も、NPO法人化することで社会性をもつことになる。フェスティバルゲートに本来期待されていた、わいざつ性を取り戻すことにもなるのではないか」、と。

いやいや、この前に見た田辺剛の進行形のお芝居とは対極にある演出(にぎやか、さわがしい)だが、才能の強さと可能性は並んで行くかも知れないと予感させる舞台だった。

ジャングル・インデペンダントシアター。19:32〜21:16。
フランスパン(France_pan 6th session)『洟垂れバナレ』作・演出:伊藤拓。見る寸前まで、鼻たれたバナナ(インポテンツな一物をシュールに表すようなものかなと)と思っていた、意味などないタイトルだと。劇団名だってそうだ。フランスパンと書いたら、カフェでちまちま公演するようなおばさん劇団ぽいが、ぼくなら、もういっそ「フランスパン」とかしたほうが、基礎知力、演劇基盤体力がある集団なので、「青年団」と同じぐらいにインパクトが出るようにも思える。

16公演もするのに、今日はぎっしり。立っている人もいる。みんな若い。久しぶりに昔の小劇場の感じ(スズナリにはまだあがらない駅前劇場の熱気)がした。

音楽の歌詞に依存しすぎ。無意味な大声。無節操に歌いだす。ナレーション入れまくり。説明過多。シモネタ。はずすことも多いギャグ。舞台裏ねた。単調さ。今時点で、たとえば、「マレビトの会」(関西を代表するいい制作ぶりであるとは思う)と比べたら、演技はお上手ではないといわれるかも知れない。でも、これからどうなるか知れない、化けるかも、と思わせる3名の役者がいる。

恥ずかしいことを知らない本城マキの歌いまくる金髪が素敵だ。シスコンの神藤恭平の垂れ下がった鼻が愛らしい、スマップの中居とかいうタレントかと思った中野聡の中途半端さがいとおしい。


6/23(木)


午前中立命館大。あさ、前半にしゃべる予定のノートを京都橘大学に置き忘れたことを発見。
はじめ、黒板を一部使う。すると、学生たちのしゃべり声がよく聞こえる。
芸術のいれもの、音楽ホールがまだどうして必要なのかといえば、いまの社会に絶望的に不足している「しじま」がそこにあるからである・・・とかいいつつ、少し口を閉ざしてそのしゃべりごえに耳をすましていると、すーっとその声が自然とやむ。「間」がぼくの授業には足りないことを実感する。

レクチャーには、聴衆が考える空白の「間」がいる。というか、その空白の「間」がいまの社会にないから、講義を聴いて、教員のいいどよんだ「間」のあいだに、自らの思考を始めることが必要なのだということかも知れない。

でも、またノート(簡易紙芝居)の授業に戻り、ミューズカンパニー、カンバセーションやアリオン音楽事務所、セゾン文化財団、そしてJCDNのことを話していたら、あっという間にチャイムが鳴った。まったく、これら大切なアーツサービスオーガニゼーションを嬉々としてしゃべっていると、ときを忘れていて、今回の授業など学生をまったく置き忘れてしまった授業になったのかも知れない。

フェスゲへ。阪急が改装するというのでバーゲンをしていて、靴下5足を買う。アートシアターdBのシンポジウムのとき、前半ははだしになり、後半は、買ったもののなかで、「和紙入り」の靴下に替える。だれか、この地味なパフォーマンスに気づいてくれた人はいなかったかなあ。

はじめの15分間で話したことは、
1) 芸術予算がだんぜん少ない大阪市(政令指定都市14のなかでも、人口比なら絶対にびりだと思う。絶対額はちょっと自信はないが)が、どうして、内容で個性化できるかを考えて、芸術文化アクションプランを作ったという話。つまり、ハードウェアがないことを逆手にとって、ソフトウェアとヒューマンウェア(その集まりであるアソシエーション=アーツNPO)へと集中する視点を考えた、ということ。
2) メトロポリスには、少なくとも(佐々木教授らのいう「創造都市」ならそこも)、自分でアーツの未知を切り開く「アポリア」部門を持つべきであるというテーゼをアクションプランに盛り込んだということ。自分で自分のアーツみちを切り開く勇気が都会に住んでいる人の矜持ではないか、ということ。これはあとの質問で答える形で、術のうち、学術と技術は市場で扱えない「未来の投資」として、行政でおこなうべき価値も認めているのに、芸術だけその認識がなかったことへの反省という形で補足した。
3) 大阪市が策定した(議会が議決した)振興条例の前文などにこのアクションプランがじつは濃厚に反映していることの指摘。条例には明示的にかかれてはいないが、法令というのは、行政が文化についてやってはいけないことも規定しているので、それについての、簡単なコメントも付与する。一つ、市場が成立しているジャンル、芸術産業に助成したり委託することで市場を乱してはいけない。二つ、行政は動員イベントを安易に行って、芸術を強制してはいけない。三つ、政府が強引なコンテストをして、アーツの権威づけをしてはいけない。
4) 道州制の先取りと道州制になったときに、一番秀でたアーツ政策をとるための準備について。仮に西国州となったとすると(個人的には、4〜5の州あるいは道による政府がいいと思う)、その西国州にアーツカウンシルがあるという状態をさきに準備し、州政府ができると、まずドイツの各州の文化基本法のようなものを制定する。そのために、一度大阪市と大阪府はどちらもそれぞれの失敗した都市政策を清算するために機能委譲をしあって(大阪清算事業団)、東京都と同じような形態をとるための模索。そこで、まず大阪市が自発的に解体して大阪府と合体し、そのあと西国州になったとき、大阪府もなくなり、西国州の首都として大阪市が再生するという案。


6/24(金)


大阪市バッシングの尻馬だけは乗りたくないとは思っている。できる限り、前向きな考えを出していきたい。そう思いつつ、昨夜出合った朝日新聞の記者さんの電話取材で、大阪市役所に対してどういう心境ですか?ときかれえると言いよどんでしまう。

道州制の動きはチェックしなくちゃいけない。えらそうに法律や行政の専門家だったんです、とか言っちゃったが、ただ、法律・条例の制定や地方自治法の改正にはいささか下作業者とかかわり法制局や国会に風呂敷包みを持って往復し、その前に他省にいじめられた(もちろん、自治省が他省の法案に対してずいぶんいじめつくしてきたからその報復である)という経験があるだけだということも白状しておいたほうが気は楽だ。

午前中、京都府の南のほうから(回りは山ばかりと言っていた)、中学3年生6名が大学訪問にやってくる。そのあと、光華大学に午後行くといっていて、ずいぶんハードなスケジュール。だのに、10近くも質問があって、3回生ゼミ生も一緒に楽しく答えてくれたこともあって、時間があっという間にすんでしまった。もっと早く切り上げて、生協でごはんを食べて中学生の意見とか気持ちとかを探ればよかった。

今日は午後授業を振り替えたので、文化政策学部の1回生必修講義に顔を出してみた。前よりおしゃべりは少なくなったかも知れない。そのかわり、脱力して寝てたり、だら〜としている学生の多いこと!携帯メールにいそしむ学生は当たり前にちらほら(携帯電話のベルがならないだけまし)。中学生なんぞに見せられる代物ではない。

ノートを取っている学生は稀有。とても面白くてノートテークの瞬間など無数にあるのに・・
このあとの課題が要約(と「論評」・・1回生の分際で何が論評かと思ってしまうが)なので、配布資料を書き写せばいいと思っているからだろうと思量される。授業の合間の途中の休憩で廊下に出てしゃべる声のでかいこと。ぼくは、隣の9502教室でいつも授業しているので、これが原因だなあと再確認。TAは注意しているというが、現行犯で注意していない。11名もTAがいてもまるで役立たない。

「事業の定義」の大切さ。たとえば、アート引越しセンターが、お引越し事業を荷物の移動ではなく「生活の移動」と定義づけたことで、どんどんサービスが広がったという教授の一言で、どれだけ、他の企業のCI戦略(の成功と失敗)を思いうかべさせられるか、それがそのあとのTAの授業で引き出せていれば、2講時連続の「小人数」授業も意味がある。が、それもあらかじめTAにセットしてあげておかないと、出来ない寸法だろう。

(本来TAとは、授業の補助者であり、別の講時に小クラスを任させるというのは、とても危ない仕組みである。これは、必修の教員の補助者であるという範囲で許されるもので、もし、その教員が必要ないというのであれば、無理やり押し付けてはいけない。もちろん、個人的にこういう専任教員によるクラス指導権を犯すTA制度自体にはずっと反対意見を述べているが、実際にそうなっているので出来る限り被害を最小限度にしたいと思って、いままで必修を優先してゼミはそれに擦り寄るように努めている。)

すべてにおいて、基礎的教養、即座の判断力と事態への対応力、他者への配慮、間違っていることについてちゃんと意見を述べる勇気・・が絶対的に不足している。支配しているのは、惰性、無関心、自己弁護・・自分が非難されていると思って突然切れまくる危ない人たち。

春秋座とはよっぽど相性が悪いのね。
伊藤キム、白井剛の『禁色』を観たが、はじめはおおーっと思いなかなかに楽しかったが、後半はなんだか消化試合みたいだった。多分、原作にひっぱられている分、想像力の飛翔がなかったためかなと善意に考えて帰路に着いた。もったいないことだ。たぶん、もっと短くていいのかも知れない。19:08〜20:41。93分もあるので、互いに疲れる。
これを60分にすれば(きっと、それぐらいがもともとの種なのではないかなあ)、それなりに観られるはず。でも、内向きの時代のうち向きのダンスではある。


6/25(土)


ぶじ、山科醍醐における子どもと文化のフォーラムのお仕事を終える。
なかなか、第1部が終わったあと、第2部まで学生たちを引きとどめさせるのは難しい。

第2部を授業と位置付けてしまう手があったとあとで気づく。
あとの祭りだな。
うちの大学スタッフの娘さんがはねず踊りを踊っていたり、なかなかに面白いこともいっぱいあり。中学生のサキソフォーン四重奏はなかなかの聴き応え。中学の先生もいろいろ。

第2部での田辺剛さんと林加奈さんの話。二人の共通点とそのなかでの違いがもっと楽しめるようにするのは、もっと時間がいるな。これは、大学できちんとすべきだなあと思う。一つ論文が書ける位である。もちろん演劇と即興的アーツとの違いという目線でもあるし。

大学に行って仕事を減らすために出席をつける。嬉しいことに、第1部で帰った学生と最後までいた学生を区別してもらっていた(こちらは、途中で帰るとは想定しなかった、あまいなあ)。とりあえず、○と◎で区別しておく(どう評価するかしないかはあとで考える)。

数年前はこんなこと、ほんとにどうでもいいと思っていたし、まず考えたりしなかった。もっと、学生はぼくたち(アーツ関係者)が面白いと思うことを素直に面白いと思うものだと思っていた。じつに甘美な日々であったことだろう。でも、振り子を大きく「管理」へと振りすぎるのはよくない。

昨日、ベテランの穏やかなTAさんに、目が怖いです、そうナーバスにならないでください、といわれたことを思い出す。50歳になって、学生のおしゃべりごときでナーバスになっていると思われていることが恥ずかしいし悔しい。まあ、でも辛抱のなかに必ず活路があるはず。


6/26(日)


ストローでまず篳篥みたいな楽器を。これって、数分。もう少しかけると、フィルムの空きケースとストローでかわいいオカリナのような音の楽器ができる。そして、牛乳パックを設計図どおりに折ると、なんともかわいい笛の出来上がり。運動会で使えるよ。2日目の子どもの文化フォーラムは、まず13時から、東部文化会館創造活動室で、こどもの遊び場づくりだった。私たちはタフ5の一環で楽器づくり。林加奈さんに教えてもらって学生たちがこどもに対応する。はじめお客が来るかなあと思っていたら、途中から満員御礼に。紙芝居づくりは出来ずじまいだった。

15時からは、西遊記。むすび座。大きなお人形のお芝居だが中国との合作ということもあり、絶妙に動き、巧み。なかなかに厭きさせない。

午前中、愛知情報文化センターを授業で例示(アーツサービス機関のうち自治体系)として、使うこともあり、どこかにいってしまって見当たらない『トワイライツ』をDVDで注文していたのが、来たので、それをみる。1994年なのだが、まったく古さを感じさせないし、10年間以上、なにもアーツって進化していないんじゃないかと思うほど。天野天街論を読みたいなと思う。



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