こぐれ日録 KOGURE Diary 2005.1



418.1/31〜2/6

1/31(月)

断酒歴28日。

日記をつけていると、その繰り返しが当たり前にあって、どれだけ、それをやっているのか、その実際の長さが感じないままにすぎてゆく。
気が付くと12月になって、今年もアーツを何本みたなあとか、それなりの感慨があって、また一年というわけだ。
よくない惰性。今年が少し違うのは断酒歴ができたこと。
やっぱり自分の暦があるというのは嬉しいものだ。
同じように、わが家憲法というのもあるのかも知れない。家訓というもの。

きょうは、午後から研究会があって、とくに演劇ビジネス研究会は、はじめての人もいらっしゃって、なかなかにいい感じだった。2/21もします。できれば、その前の冠婚葬祭マネジメント研究会にも来て欲しいもの(学内の教員とか学生とか)だわ。


2/1(火)

断酒暦29日。

大阪成蹊大学芸術学部で最終日テスト。中間テストよりも、ずいぶんみんな思い切り書くようになった。手ごたえ十分な解答用紙を抱えて、OBPへ。松本さんとこれからのOBPアーツプロジェクトや日本アートマネジメント学会関西部会のことなどを話す。16時半から19時すぎまで。例会の案として、3/12にある泉北アートプロジェクトの視察、3/20のエメスズキなどによる大阪楽座事業鑑賞などの案を彼に預ける。彼が冠婚葬祭マネジメント研究会に参加したいという。助かる話ですね。
家で採点を終える。とりあえず、46枚。あといくつか答案が自宅に郵送される予定。

記録として、大阪成蹊大学での中間テストと今回の最終テストの問題をアップしておく。なお、京都橘大学での地域文化行政論と一部重複している。

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美術文化政策研究 大阪成蹊大学芸術学部 第8回2004.11.30 小暮宣雄
中間テスト(すべて持ち込み可)

(1) a) 自分が選んだ広域自治体と基礎自治体の正確な名称と人口(有効数字3桁以上なら概数でかまいません)をまず書いてください。
b) 上記の広域自治体と基礎自治体のそれぞれの文化政策に関係する事項(美術文化政策以外でもかまいません)をひとつとりあげ、簡単に説明してください。字数は約200字前後(多少の変動は自由です)。

(2) 教科書や授業でよく使われている以下の字句を3つ選び、簡潔に説明し、自らの意見を付け加えてください。字数は、200字〜300字(多少の変動は自由です)。 
アウトリーチの今日的意義
アウトサイダー・アートと文化政策
アーティスト・イン・レジデンスとまちづくり
芸術におけるヒューマンウェアの諸相
限界芸術と親密圏
21世紀型まちづくりと文化、アーツ
文化芸術振興基本法と特定非営利活動促進法
アーツアポリア事業と大阪市文化政策
京都芸術センターの機能と役割

(救済問題)
なお、以上の二つの問題のうち、どちらかにかえて、以下の問題を回答することも出来ます。
教科書「アートとお年寄りが出会う」188〜190頁を読んで、簡潔にその内容をまとめたのち、価値観や体験の違う人たちと私たちがどうやったらコミュニケーションが可能になるのか、何らかのアーツによるコミュニケーション誘発機会づくりの例を考えて記述してください。600字〜900字(多少の変動は自由です)。

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美術文化政策研究 大阪成蹊大学芸術学部 第13回2005.02.01 小暮宣雄
【最終テスト問題】(すべて持ち込み可)

 (1)、(2)、(3)のうちから、2つを選択して応えて下さい。
(1)自治体の文化政策事例を一つ取り上げ、その歴史や概要(1-1)、そして成果と課題、改善点(1-2)を自分の意見を交えて自由に論評してください。文化施設についてでもいいし、文化に関するソフト事業や人材育成事業など、どんな事例でもかまいませんが、具体的な名称などできるだけわかりやすく記述してください。800〜1000字程度。

(2)この美術文化政策研究を受講したことで、あなたが新たに発見したこと、体験したこと、考えたことなどを自由に記述してください。そのさい、タイトル(2-1)をまず挙げてから、本文(2-2)を書いていき、そのなかにキーワードがあれば、その文字に下線をつけて強調しておいてください。800〜1000字程度。もちろん、みなさんの得意な図や表、イラストなどを描いても結構です。

(3)あなたが鑑賞(体験)したアーツについて、その環境を含めてレビュー(=観たこと聴いたことを自分の感性で振り返り、感想や主観を交えて記述)してください。そのさい、アーツのタイトル、場所、日時などできるだけ具体的に記述してください。800〜1000字程度。
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2/2(水)

四条京阪で直通バスに乗ろうとして、大雪にびっくり。バスは来なくて、山科で待って、ようよう大宅行きが来る。ぼくは滑りやすいので、いい靴を買わなくちゃ、と思うが、毎年忘れた頃に雪が降るから、ツルツル危うい足取りで大学に着く。

断酒暦30日。どうしてかと聴かれて、無呼吸症というと、納得してもらえる。
卒業予定のゼミ生らは私たちが卒業式では代わりに飲んであげますから、という。
単位が危ない学生が研究室をうろちょろしている。

教授会ではこの前の入試判定。女子大を卒業して、どれだけの割合で実際に本学にやってくるのか、初めてだけにむずかしい。看護学部はとりわけそうだ。
学部教授会では、ぼくが感じたいまのゼミと卒業研究の問題点を指摘する。


2/3(木)

断酒暦31日。

なぜ日記をどうでもいいような天気から始めるかというと、それは、そういう何気ない書き出しで、日記を書きやすくしているということだと日記についての本で読んだ記憶がある。ぼくのばあいは、アーツであり、最近は断酒暦ですね。

卒業研究についての考査。考査といっても、ゼミ生は一緒に聞いている形なので、発表会なのだが、一応、5つの質問(話してもらうこと)を黒板に書いておき、自分のレジメを提出して平等に20分間ずつ、教壇に立って話してもらう。10時から17時前まで。

1)あなたの卒業研究って、どんなの?
2)卒業研究で気づいたこと(得たもの)
3)卒業研究などで、出来なかったこと(反省とか愚痴とか)
4)4年間で楽しかった思い出
5)これからのこと(決意とか、戸惑いとか)

やっぱり4年経つと変わっている。当たり前だけれど、18歳から22歳っていうわけで、44歳から49歳に変わった僕よりは変化率が多い。音楽のオーディションサイトの仕事をすでに一緒にしているT。アートコンプレックス1928で照明の仕事をさせてもらっていて(山科の会社で仕事をしつつ)、うまくいけば採用もあるかも知れないピンスポット得意のOなど、結局、自分の好きなことを仕事にしようとしている学生も結構いるし、専門学校に入りなおしていく学生もいて、就職決定率も、何やかやいってこのゼミは大学の平均よりは上だった。

入学式の直後、「先生って有名人?」って聞いたKに、一番初めに学生から声をかけられたことばが、これだったよう、というと、Kは「そんな失礼なことを私言いました?」って。覚えていないんだよなあ。Kはうちで一番ゼミ希望率が高い先生の研究室で、先生って自慢話ばかりですよ、と堂々と抗議したという。ほんとに恐るべき1期生たちだった。

自慢話をする先生というのが、一番彼女たち(とりわけ少しはずれていて、自分で考えるタイプの少数派学生〜つまりぼくの周りの連中)の嫌いなことらしくて、ぼくもこれは常に反省しておくべきことだと思う。1回生のことなんて、あまりの昔のことで何も覚えていないとS。ぼくと同じように飲んで自分は何をしたか分からなかった酒での失敗をどんどん話す。一人暮らしを体験し、いろいろあったことで、それでずいぶん逞しくなっている。

Tとぼくだけ100%ORANGEジュースを飲んでいる。KやOやDが吸っているタバコを一口ずつ味わってみる。するとまたもやK。先生、タバコって肺までぐっと飲み込まなくちゃ、吸っていることにならないよって、そうか、ぼくはタバコをちゃんと吸うことは出来ないなあと、一番苦手なものだといまにして思う。タバコの煙と酒(あと男話)がいっぱいの女子大生宴席で、Tとぼくだけ、どちらもしないでひたすら食べた。よく食べたし安い居酒屋のわりにおいしかった。が、木の壁から隙間風、外に出たら、中も外も同じぐらいの気温だったと思う。安いだけのことはある浪漫屋、at椥辻。

うちのゼミ生でないのも二人参加。そのなかのM(こけしみたいな女の子だった)がこの4年間の思い出というなかで「禁煙をみんなに奨めて、すべてダメだった」というコメントが笑えた。こんなこと書くと京都橘女子大のイメージ崩すかも知れないが、とくにぼくの周りのゼミ生で1期生はそういう柔らかい、気持ちの暖かい、でも少し落ちこぼれ的な連中が大勢集まってきたわけなので(違うよくできる学生もいたが)、「こういうことは、ほかの先生には決していえないけれど」という話もいままでいっぱい聞けて楽しかった。研究室で泣いたゼミ生も約2名(一人は廊下でぼくの顔を見るなり泣き出して、連れ込んだ思い出あり)。もちろん、男の話(ちょっと就職)だったなあ。

これって、自慢話かも知れない。でも、ほんとうにいい子達に恵まれて嬉しいのである。いちばんいい話を書き忘れた。劇団を立ち上げて、2回目の公演に向け、それが正念場と思っているDが、いままでで一番衝撃を受けた芝居が「いかけしごむ」と言ったことは、書き込めておかなくてはいけない。小さなもう一つの場所、藤原さんと広田さんの別役実作品公演を1回生のとき見せたことは、ずいぶん昔のことで、でも、それがとても大きなきっかけになっているとDがいうと、周りのゼミ生もうなずく。そういえば、この前チラシが挟み込まれていた。3/19,20スタジオ・ヴァリエにて。第9回目公演「魔女の猫探し」。


2/4(金)

断酒暦32日。東京、早稲田大学文学部(戸山キャンパス)へ。結局、案内状をもらわなかったのでよくは分からなかったのだが、科学研究費で「アートマネージャー養成システムの構築に関する基礎的研究」を行うので、そのための会議(シンポジウム)だった。衛紀生さんと久しぶりに会う。小林さんがやめたので(いまその件で争っているようでもあるが)、宮城大学で教えているのだった。彼のゼミ生は半分以上大学院に上がり、それ以外の就職率は100%なのだそうだ。すごいなあと思う。

建築家の山崎さんや、凸版ホールの西巻さんもなぜかいた。彼はもともと色々教えていたりしていたなあ。音楽評論家の小沼純一さんにも久しぶりに会う。彼はここで教えているのだった。曽田さんもブログをやっていて気がつくと跡見女子大学の先生だし、みんな先生になっている。先生になってしまったからアートマネジメントというコースが後付で出来たのかも知れない。まあ学部生あたりでは、はっきりいってどんな分野を専攻しても、身に着けなくちゃいけない基礎は同じなのかも知れない。

このシンポは学生のインターンシップの発表会があったので、それにくっつけてしたもので、ぼくの冠マ研と演ビ研の関係と同じである。学生の発表を聞いたが、その内容はもとより、話し方のまずさや感じ悪さがいまどきの学生の基礎力の低さを表していて、ほっとするような、でもやっぱりがっかりするような、そんな複雑な心境になる。自分の仲間を丁寧語で紹介したり、だらだら挨拶したり。身内うけだったり。

誰かに、自分たちが発表する冊子のページをちゃんといったら、と次のチームがアドバイスされると、「ページを言うように言われたからいいます」なんて、とても大学生とは思えない、自律性のない、ふてくされた言い草でそのページを言ったりする。どうしてそう言われたのか考えないのだろうか。言われたことにただ感情的にだけ反応してしまうのだろう。

目の前の聞き手に対してこんな態度(鑑賞者が喜ぶことがアーツマネージャーの喜びのはずなのだが)をとりながら、発表ではぬけぬけと「観客創造」とか言うのだからちゃんちゃらおかしい。こちらの常識ならば、「これから発表しますのは、何ページに関連することでして、演劇チームがページを言わず失礼しました、先ほどの発表は何ページでしたので、お詫びして補足します」・・ぐらい、学生でも言えるだろうと思ってしまう。他山の石なり。

終わってから打ち上げがあるらしい(うちらの「まちづくりインターゼミナール」とかそういう類とおなじだ)。発表に1時間だけ付き合ってから、シアターワークショップの小池さんがとってくれた新宿ワシントンホテルへ向かう。西早稲田から新宿西口行きのバスがあったので、それでのんびり。彼女が言っていたように古本屋めぐりも面白かったのだが、荷物が増えそうにも思えたので(Happy!の10巻以降を買いたいのではあるが)

ホテルから新国立劇場中ホールへ。徒歩で15分ぐらいか。便利なところにとっていただいたものだ。小池さんも早稲田大学出身だから、早稲田をことさらとくに悪く言うつもりはないし、おまかせでとってもらっていたステージが自分では絶対に行かない勅使河原三郎「風花」で、しかも6300円も払ったからでもない。いまの学生という人たちのレベル全体の問題だろうと思う。途中でラーメン「我流」。いい感じの庶民性。劇場の中に、はじめて入ったが、京都コンサートホールに行くよりは感じは悪くない。木の肌触りとか。

もちろん、ダンス自体は平凡なもので(音楽は電子音みたいでかなり退屈だったので弦楽器が鳴る女性2名の踊りは相対的に気持ちよかった)とりたてて書くことも無い。ただ次々にやってきて過ぎ去っていく。でも、このホールに入ることはもうあんまりないかも知れないので、それは貴重な体験ではあった。いつか、もう一度ぐらいお芝居を観てみるのは悪くはないが、こういう扇形の中劇場で演劇公演はうまく出来るのだろうかとは思う。

そうそう、一番よかったのは、踊らなかった勅使河原三郎が挨拶出てきて、その独特の頭の形が生で見れたこと。福助みたいな大きさで、しかも頭が高原のように平べったいのだ。なかなかない形。昔代々木の体育館でコシノジュンコのファッションショーを見せてもらって、最後に彼女が出てきたとき、ETみたいですねと誰か一緒に行った人が言ったことを思い出す。


2/5(土)

断酒暦33日。4時半に目覚めて、いても立ってもいられず、10時過ぎには新大阪駅に着く。さっそく家に電話。話中ばかり(あとできくと、10時から自動電話案内で合格が分かり、すぐにサイトでも発表されたそうだ)。

仕方なく大阪駅にて、実家の野田に電話。おめでとうと母。よかった、さきはいま嬉しくて電話しているんだなあ。
淀屋橋で下車。大阪倶楽部の場所を確かめて、食事が出来るところをぶらぶら探す。
喫茶店で焼きさば定食を食べながら、店内の電話機で家にかける。店内の公衆電話がうまくかからず、お店の電話を貸してもらう。優しい人がお店を切り盛りしている。橋本敏子さんの研究所の近くだなあと気づく。
芳江は、さきが合格したついでに、はなが退学したことを母に話したという。さきのおかげで何とか話せた、と。さきもこれでセンター入試が落ちたことを知った後に一般入試に臨むという厳しいことにはならなくてよかった。センター入試さまさま。京都橘大学もセンター入試を重視すべきだと提案しようかなと帰ってから言ったら、それは現金な発想だといわれる。そうだなあ。

ほっとして、大阪倶楽部4階ホールにあがる。綿業会館を小ぶりにしたような空間。いい感じだ。ピアノがあって、文楽のセットがあり、突き出したステージ(ここで由良部正美の舞踏が展開する)があるという面白い組み合わせ。
古典の新芽シリーズvol.1『舞踏の源流 文楽』。大阪府の楽座事業採択。指定席が優先されて自由席(招待客も同じ自由)は、後ろと端。その指定席(1000円高く6000円)も開場予定時間が過ぎてもなかなかセットできず、しかも間違っていて、客とかなりとらぶっていた。休憩を挟んで13:07〜14:37。でもぼくは由良部さんの踊りを間近で見られたのでそれだけで大満足。

いまも文楽の太棹を久しぶりに聞き(鶴澤清友)、豊竹英太夫が語る土方巽の言葉もまたおかしく、いい気持ちになる。由良部正美の踊りも客層を考えたのか重くならずにさらりと深く、その見目のよさを気取らずにふわり自在に出す様は、昨日のダンスなど何と堅苦しく無駄が多いのだろうかと思い出されるものでもあった。

一緒に即興をまず行った谷川賢作のピアノも久しぶりに聞いたけれど、谷川俊太郎の詩がテープで流れる部分にちょっと違和感を覚えた以外は、いい感じだった。優しいメロディと叩きつける鍵盤のバランスもクラシックな小さな会場を十分配慮した穏やかさである。始めの由良部正美が着ていた着物は狂言の役者の装束の色合いみたいで、室町時代にいた芸能僧のような感じだった。

休憩後の桐竹勘十郎の人形遣いは面白く、その前に人形のない動きを前半にしていたが、あんまりそれは何も感じなかった(というよりも太棹の演奏ばかり見てしまっていたから見損なったともいえるが)分、文楽劇場にもまた足を運びたいなあと思わせるものだったし、日高川と木札の表示が立てられるだけで文楽の舞台になり、人形なので放り投げているように濁流にもまれる清姫が蛇に変化する様も大衆芸能ぽくて愉快だった。

西長堀駅のすぐ近く、タクシー会社のそばの画廊、studioJにて、松山賢個展『花と和平(名前)』を見る。紙ででき、レースが施された戦車や装甲車。白と黄色と黒。黒がストッキングの花模様みたいなのが実にウィットが効いている。個人的には、ドコモなどがある街に立つ(というよりも浮かぶ)、風俗少女ぽい肖像が気になった。街角までバーチャルになっている今がそこにはある。

19時からアンサンブルゾネをKAVCで見るつもりにしていたが、やっぱり早く帰りたくなり、アンテノールのショートケーキを京橋の京阪百貨店で買って帰る。家には、ほんとに嬉しそうなさきの笑顔があった。


2/6(日)

断酒暦33日。

でも、いつも夕食後、風呂湯上りで計る体重が72.0kg(体脂肪率19.0%)で、これには、がっかり(70kgを目標にしていたのが、また退歩)。

大阪市立中央青年センターに来ていたアーツワークスの鈴木さんにも言われたが、かわりに甘いものを食べてしまうので、せっかくアルコールを入れても、体重が変わらないのだ。「50歳からの男バレエ入門」というぼんやりした個人的な計画があるのだが、この体型では、始めるのすら、危うい感じがする。

第6回目のアートマネジメントセミナー。政策班が提案するアーツ・コンペ予定者についてのプレゼンがあり、言語化チームや技術チームなどによる質疑応答が続くという実技に向かうセッション。参加者は先が見えなくて不安げではあるが、こちらは、なかなかに面白い。

昨日読んだ本。加太こうじ『紙芝居昭和史』岩波現代文庫。2004.8.1971年に立風書房より刊行されたもの。紙芝居画家(兼作家であり、戦前戦後を紙芝居とともに歩んだ中心的人物)である加太が鶴見俊輔のアドバイスで自伝みたいなところから文章を書き出したという。固有名詞が満載で、すでに滅びてしまった街頭紙芝居の貴重な歴史資料であろう。ただ、実物が見たくなるし、語りも一度は再現してみたいなあという気持ちが高ぶる本。

戦前、政府の検閲が始まったために、台本をいままでは作らずに口移しで紙芝居説明者に教えていたが、裏などに書くようになったことなど、文化政策(取り締まり)が、芸能の様子を変更させる事例として面白いもの。紙芝居製作所が集まって大日本画劇株式会社が出来たので、いっぺんやってみたかった争議を行う(形はストライキではないことにして官憲から逃れる)くだりなど、ちょっと加太の手柄話のようでもあるが、戦後は親分として問題があったと殊勝に書いていたりするのも何とも味がある。

紙芝居屋(紙芝居説明業者)の変質についての以下の記述も、紙芝居の目的などを考える際には、よく参照されるものである。P111〜2
《紙芝居を説明して子どもを楽しませるというだけではなく、昭和11年頃からはオマケとして売る食品の選択や売り方について紙芝居屋の多くが注意するようになった。それは街の芸人から、子どもの遊び相手としての行商人に紙芝居屋の質が変化したことを意味する。昭和8,9年の固型飴、それにつづく水飴の時期の後で、昭和10,11年には紙芝居屋の符丁でいう新ネタがふれた。水飴は、はじめは割箸を二つ折りにしてものに巻きとって売るだけだったが、10年ごろから、割箸を2本にして、こねかわさせて一番白くなった者には商品をやるという商法がもちいられるようになった。・・・・》



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