こぐれ日録 KOGURE Diary 2005.3



こぐれ日録426 3/28〜4/3



3/28(月)


断酒暦81日。

ココルームでコップいっぱいのビールを飲んでしまって、青木さんに断酒していたんじゃないですか?といわれたが、微酒ということで、これ以上は飲まなかったことに免じて、日を重ねる。

大学では二つの研究会。でも、これから当分、冠マ研(冠婚葬祭をはじめとする限界芸術におけるアーツマネジメントの可能性を追求する研究会)は開けそうにない(いまのところ、7月終わりに再開の予定です)。今日は、少しブライダルビジネスの話をする。仏式結婚式の可能性など、お葬式に比べて蓮行さんは、想像力が広がるという。

そのあと、演ビ研(京都演劇力活用ビジネスモデル研究会)。3回目なので、ずいぶんと現実的な方法論が議論されてきて、次回の演劇やダンスを活用したビジネスパーソンとか親子向けなどのワークショップ提案が俄然楽しみになってきた。コーチングとか体験がキーワードになる模様。東京からアゴラ劇場の方も第1回についで参加。また、京都経済新聞の方も初めてさんかしてもらって、広がってきている。

次回の演ビ研の予定は、4月25日(月)16時半から。京都の文化ビジネスの担当者とか、子ども文化に関わる人などいろいろ関わって欲しいなあと思っています。京都橘大学清風館の9301教室(あいていなければ、その近く)がいつもの開催場所です。

そのあと、楽しみにしていた『大阪紙の芝居劇場』へ。フェスティバルゲート4階、cocoroom。すごく濃い内容なので、一つ一つ書けないのですが、でも全体構成はけっこうすっきりとしていて、進行などが、前回のreading THE BIG ISSUE(最近売れ行きが落ち込んでいます、ぜひ、まちかどで見かけたらご一読を)シリーズ第1弾よりも、整理されてきたと思う。

かまなびごえんによる紙芝居のあと、そのメンバーたちと一緒に應典院の秋田光彦さんが簡潔に話しをまとめ、円を囲む舞台のなかで、これからのお坊さんが果す役割の手本となっている。対して、山の手事情社の安田雅弘さんは演劇人として生真面目に反応、でもよく見ている。久しぶりに安田さんにあったので、少し雑談をした。そのなかで、彼は、関西は作家と役者がすごいが、演出家が乏しいとか言っていた。95年暮れか96年1月ぐらいだったか、高齢者向けの演劇ワークショップをしたいのだが、と赤坂の財団法人地域創造に彼が訪ねてきた直後、ぼくが左遷されたのだったなあとい思って、しみじみ。でも、正直、山の手事情社は、昔の役者がいたとき(10数年前)の切れ味抜群のときの公演しか印象がない。

橘安純さんが一人で飛び上がり(太陽に手のひらをかざして)、ホームレスの春夏秋冬の自由律を読む。十分一人でかっこよく大丈夫だ。合いの手を入れるお客さんがおかしい(上田假奈代さんの朗読のときは少しうるさすぎたが)。さすらいのザ・ピアノマンの合田清さんに漂うきざっぽい雰囲気がまた味わいぶかく、赤いマフラーが素敵である。ぜったいに映画になる!上田假奈代さんが読む重低音の詩内容には少しマッチしない甘さではないかとはじめ終わったが、合田さんという個の存在が屹立しているから、それは問題ないなあと思わせる力がある。

かまなびごえんの紙芝居(実は平行して実演や朗読もあり、かつ仮面劇であって、しかも電子ピアノつき)は、ほのぼのとしていて、本当は老人ホームの方々自身にも出てもらいたいかもよねと、来ていた林さんと話す。ぼくが、「負けた」というと、まだ始まってもいないですよ、林さん。そうなんだけれど、桃太郎の子ども役のおっさんの、拍子木(これは想像以上に紙芝居には必須アイテムだ)の音、それを足引きずりながら、かわいく回る姿はもうワンダフルの一言であった。鈴木常勝さんの顔もあり挨拶。ぼくが昨日頭をきれいに坊主にしていて、それを曝していたため、どこであったかなかなか思い出してもられなかった。

3/29(火)


断酒暦82日。
今日が最後の春休み。京都みなみ会館(RCS)の7枚券のうち、2枚が残っている。4月末まで有効だが、もう新学期が始まると使えなくなる確率が高いので、使ってしまうことにする。

ちょうど、読んでいた本のどこかに、同じ行為がかつては、レジスタンスと言われ、ベトナム戦争時にはゲリラとなり、いまでは「テロ」とレッテルを貼られて憎悪され、殲滅されるだけのものになっている、というくだりがあったのだが、具体的にその場所が見つからない。

その本とは、森達也『世界が完全に思考停止する前に』角川書店、2004.10。テレビをほとんど見ていないぼくには、新鮮なことが多い。彼が「今生天皇」のドキュメント映画を作製する(p161〜165)なら、ぜひ見てみたいなあと読みながら思う。短いコラムの集成なので、大学の授業などに使いやすいし、印象的なフレーズも多いが、一節のみ、抜書きしておきたい。

《 メディアの役割は懲罰を与えることではなく、みんなが知りたいことを報せること。そもそも下世話で卑しい仕事なのだ。そう思ったほうが間違いない。その引け目や後ろめたさを失ったとき、メディアは公共だの正義だのといった言葉を濫用しながら、「表現の自由」を自ら規制し始まる。それも無自覚に。》p124

さて、みなみ会館。暖かいだろうという予測ははずれ、ずいぶん風が冷たい。2本とも特に予備知識なし。12時15分から始まったアルゼンチンのドキュメント映画『チェ・ゲバラ〜人々のために〜』(1999年、88分、脚本・監督:マルセロ・シャプセス)は、アンコール上映なので回数は少ないが、思ったより観客数が多い。回想のインタービューが多くて単調だけれど、若いときの写真や映像とこの時点での現在とのギャップに驚く。ボリビアのゲリラ支援に行って殺されてしまったゲバラがいま生きていたら、この世界をどう思うのだろう。

つづいて、『舞台よりすてきな生活』(2001アメリカ、監督・脚本:マイケル・カレスニコ、製作総指揮:ロバート・レッドフォード、98分)。ほろ苦い前半がずいぶんと長いコメディ。原題は、まるで違っていて、それは映画内で作られているお芝居の題であり、主人公がうるさい犬を殺してしまいたいと思っている生活そのもののタイトルでもある。How to Kill Your Neighbor’s Dogなので、邦題は、ちょっと解釈が一方的に生活重視になっているきらいがある。舞台だって、生活とシンクロしていって面白くなったのだからね。

劇作家とダンス教師というカップルは、ぼくにとってなかなかにそれだけで興味深いし、中年夫婦とそのすれ違いの実際はけっこう身につまされたなあ。丹波橋の構内のシズヤのオハギを揚げパンにしたオハギドーナツが結構いけたので、かえり、またそれも買って、ムリやり芳江に食させる。

3/30(水)


断酒暦83日。

新学期モード突入。4時に眼が覚めてしまう。肩こり(これは枕のせいかも)と寝不足。
新入生キャンプの打ち合わせ、2回生ゼミとクラスアドバイザーとのミスマッチングの調整、就職セミナーの傍聴。

アートシアターdBで、アンサンブルゾネの新作(結構長い)と前みた印象的なショーピース(Face to Face)を見る。後者(ここでは岡登志子は演出とあるだけで、新作の方は、振付・構成・演出となっている)は前見たのと同じようにとても印象深く、しかも最後のボーダー越えが鮮やか。フリッツの声もプチ不気味かつ滑稽。

前者のPassageは、壁を3方使うシーンに眼が奪われる、というか、眼が室内を泳いでしまって、それは照明(岩村原太)の巧妙な仕掛けのせいかも知れない。まだ、全体がつかめていないのと、ちょっと忙しすぎるので、今日はこの辺で。

そうそう、朝、八幡駅前で朝日新聞を買おうとしたら、あいあいAI京都は挟み込んでいなくて、五条京阪のコンビニで買う。黒いトレーナーの胸に昼ごはんの御飯粒が一つついていたのは、そういえば気がついていたのに、とり忘れていた。誰もわからないだろうけれど。

3/31(木)
断酒暦84日。
枕を低いものにしたら、肩こりが少しよくなった。睡眠も4時に目覚めたが断続的に5時半までうとうとできる。
大学。編入生ガイダンス。3回生編入がはじめてあり、これはゼミ選びが大変であるし、あっという間に卒業となるので、彼女たちも覚悟しているのだろうが、うまくナビゲーションしなくちゃいけない。
にぎやかなのは、生協関連の企画。新入生160名が参加している。男の子の顔が新鮮。

アルティが満員でびっくりした。
求道の舞踏手洪信子(ホン・シンジャ)「Four Walls」を舞う。1944年のジョン・ケージ作曲のピアノ曲を高橋悠治。うーん。歴史的なものを鑑賞したということかしら(「マース・カニングハムの舞踏劇」のために書かれたピアノの白鍵のみを使用するもの)。マース・カニングハムがすでにほとんど踊れなくて、鉄棒を持って動いていたステージを10年以上前に見たが、それを思い出す。

携帯電話の注意がないなあとおもったら、案の定、3回も携帯電話が鳴った。最後の携帯電話など、けっこう、舞台とシンクロしていたみたいで、ひょっとしたら演出かなと思ったぐらい。携帯電話の音が一番どきどき。あと、中断があるのだが、これも何の合図もないので、これもけっこうどきどき。

4/1(金)


断酒歴85日。


早朝、ココルームの通信のペーパーに載る文章を書く。期待されているテーマが「アーツを伝える(あるいは、教える)倫理」だったので、アーツを伝える立場から書くことにする(倫理とはプロポーズだ、というネタは温存します)。珍しく、指定の倍になってしまう。
こういうことは少ないのだが、どうも「倫理」にまつわることを書き、具体例を書くとこんなになってしまった。1000字に絞る必要があってもそれはそれで作り直せるとは思うけれど。

午前中、新1回生へのガイダンス。文化政策学部があつまると、9501教室がいっぱいになって。若い教務委員さんが少ししゃべっている学生を注意するとぴりりとなる(1/3が男性であるし、一発かます気合なのだろうね)。たいしたものだ。少し遅れたことをずいぶんと謝っていたが、それって、副学長がしきりに時間通り授業を始めるようにという言っていることを忠実に守ろうとするためだろうかしら。5分ぐらいタイムが遅れるのは、学生も多いしざわざわする許容時間(というか、公演では5分押しが通例である、ライブの遅れはどうもルーズすぎるが)だけれどなあと思う。それに、質問するのが大事だと彼がしきりにいっていたのに、質問タイムをとらなかったので、きっと忘れたのかと思い、確認しておく。この調子で、新入生キャンプでも20分間、学習の仕方について話してくれるだろう。

午後に、新しい二つの学舎を見学する。明日には、父母の方々に案内する必要があり、まず、ぼくらが見なくちゃいけないから。上半身だけの人形が寝ていたり、入院患者の給食のサンプルがあったりと、看護という具体的な世界が垣間見られる。

大きな絵画や版画も並んでいる。こういう予算があるんだったら、関西の若手アーティストとかいろいろこちらも考えられるのだが、そういうことを公式の場で話したこともあったけれど、こちらにはまるで相談はないのだなあとおかしい。文化政策学部のある清風館の廃墟の絵画よりは、ましだと素人的には思われる感じではあり、まあ、仕方がないかもね。

前にそういう話を同僚のSさんが話していたが、ゼミ選びも一つのコマにすぎなくて、昔風に、○○研究室に入るという感じではなくなっている。だから、卒業した学生のなかでも、一つもぼくの授業をとらない学生もいて、ああと思いつつ、あきらめざるを得なかった。ただ、これからは、それもちょっとむごいなあと気持ちは伝えることにしようとは思う、教員だって人間だから。

とはいえ、結局、選ぶほうの学生が完全に大学、そしてその大学から雇われている教員よりも格段に立場は上であるのだ。つまりは、「オレ様化する子どもたち」ということなのだろう。退学するのも選択だけれど、安易にすると親が悲しんだり、困ったりするよ、とかいって、自分の娘の例とかを無理やり引用するしかなくなるのである。

帰ろうと思うと、退院したということで、久しぶりにゼミ生が来る。四方山話。まずは、単位、そして、秋口から就職活動。うまくいけば、出遅れたとか心配しなくても、何とかなるのではないか。いま、ぼくが一番関心をもっているのが、いかに就職できるか、なので、一緒にやろうという。すると、でも、先生って、すぐ関心が変わるし言うことが変わるからな、と彼女。それほどの洞察力があれば、すべてうまく行くよ。ほんとに。

4/2(土)


断酒中断


入学式、保護者会懇談会、キャンパス見学会。保護者の方々の熱心なこと。
お母さんの方が大学に来たいみたいに思えてくる。あとは、とくに男の子のお母さんが、離れがたいという。これは、ぼくも自分の娘を思えば、同じことなので、偉そうにはいえない。そうですね、心配ですよね。でも、本人は親が考えているより、ずいぶん、しっかりしてくるものです、と自戒もこめ期待もこめて、言っておこう。

大学院のパーティで飲む。飲むとつい本気=むきになってしまう。
やっぱり、ぼくにはアルコールは人前では厳禁です。

でもでもね。
「小暮先生の嫌いなミュージカルを見ました」とほとんど知らない院生にパーティのスピーチとして堂々と人前で言われたのには、まいった。

「嫌い」というのではないんですよねえ。
ミュージカルという商品は市場で売れるように作られたもの(市場芸術)なので、それを分析するのは、他のところでされればよろしい、と。たとえば、企業ビジネスマネジメントとして考えれば、経営学やマーケティング論でとりあつかえばいいし、都市観光でもいいだろうし。

だから、ぼくが対象とするアーツマネジメントとは「無縁」ですということをできるだけマイルドにいっている(関係するとすれば、市場芸術に行政や企業メセナがアーツ投資として支援するのは、市場が混乱するので問題である、という加藤種男さんの論旨を説明するときぐらいである)。それが、どうも、間違って(ただの感情論として)、伝わっている。それが残念でしかたがないというわけである。

これって、イベントマネジメントとの関係でもそうなのだが、イベントとアーツの関係については、大学紀要に書いたため、U教授が、イベントの話は刺激的で面白かったといっていただいたのは、格段に嬉しかった。ほんとに孤立無援でここまで来たからなあ。

大学の宣伝、去年に続いて、させていただく。でも、このしわくちゃのおっさんの写真、嫌だなあ。

4/3(日)


断酒暦86日。二日酔いである。


でも、日本アートマネジメント学会関西部会の例会の日なので、OBPへ。
吹き抜け空間では、映画のプロモーション。どうもとつよしとかいうタレントの写真を携帯電話で写している女性がいっぱいいた。どうもととかいう人は有名な人のようで、近くにいた高校生に何事?てきくと、丁寧に教えてくれた。そういえば、キンキキッズとかいうデュオが好きなゼミ生もいたな。

待てども松本さんが来ない。新しい運転手控え室にも行ったが。仕方なく、パナクリエイトにも行ったが、今日は休みだという。子どもの入学式にでもいったのかしら。同じく迷っている3人の学会員と、喫茶店で小さな例会をする。
そういえば、予算書が出来ないとかメールが来ていたっけ。延期したいとあとで聞くと書いていたというが、延期するのは予算書のことで、例会を延期するとは思わなかった。しかも、学会員にはメールで4/3予定としたあと、何も通知はしていなくて、ぼくもだから、あるんだろうと思っていて、少しでも早く行って打ち合わせしなくちゃと思っていたのだ。

宝塚市の文化財団の人がすごくいり込み客も多かった宝塚音楽回廊を、今年も11/12にするという報告。今度は学会の例会にして、回ってみようと話す。5/5〜5/7に学会員の中西美穂さんを団長とする青森アーツツアーをする話。そして、全国大会が11/26、27と横浜であり、これは参加する価値が大きいということなどを話す。

指定管理者制度は、それが本格的に動き出すので、そのなかで、アーツマネージャーたちがどう対応していくのか。流動してくる職場において、職能団体的な役割をこのJAM Westが果していければいいなあと思う。もちろん、学生なども就職活動として活用していただくのもいい。これから、大学を超えて横の連絡がますます必要になるし、有効だ。組織に所属するよりも、仕事の専門性を高める方向に向かうのだから、それを現実的に担保するものとして、この学会に所属して発表したり研鑽していることも、転職などのプラスとして位置づけられるようなオーソリティを持たす努力である。

なお、夜、松本さんが自宅に来て(ぼくが怒っていると心配になったのだ、そのあととてもいい目に会ったので、問題なくごきげんさんのあたしがいたのだったが)、分かった年間予定としては、7/25(月)16時半からOBPにおいて、芸術見本市関連でシンポジウムがこのJAM Westとして主催することになっている。

16時から、上田假奈代さんが砂連尾理さんに振付されて、練習嫌いで有名な上田さんが連日ダンスの稽古を京都芸術センターまで通って練習しているという歴史的事件に遭遇するのだが、とても時間が余る。フェスティバルゲートの上映でましなものがあればと思ったが、なし。でも、横堀さんが「金粉ショー」の金粉(というか金色絵の具?)を持っているのを見たこともあり、マグロとアボガドの洋風どんぶりを食べに、4dlに入る。

「ポストコロニアル」について書かれた岩波新書(「ポストコロニアリズム」本橋哲也著、2005)を読みながら、ぼんやりしていると(ファノンの自ら創っていく民衆文化の形、そして、文化や社会化は、対位法的に考えれば、支配側の文化も抵抗側の文化も同時に浮かび上がってくるというザイードの話などをメモる)、横堀さんが、いま金粉ショーの稽古がはじまるという。見ていいですか? 実は、6日に、大阪港の<仮設劇場>WAにてオープニングがあるのだが、生協の理事会で出れなくなり、本番が見れないし、稽古を見るというのは、できるだけしない方がいいかなあとは思っていたが、でも、今日は思い切ってお願いしてみた。

40分ぐらい、柔軟体操とかしているので、そのあとだったらいいと大谷燠さんが言ってくれたみたいで、はじめて、大谷さんが振付ける姿も見られたし(彼自身、金粉ショーに出ていたのだ)、いやー、練習を見るのは、実は面白く(ハードな肉体訓練だと思う)、特に舞踏系は言葉で振りを覚えていくのかも知れないとか、いろいろと発見がある。でも、福岡まな実さんの本番が見られないのは残念。ストリップ劇場で、6〜70年代のストリップと同じ構成のものを再現できたら素敵だなあ。6/10〜12の同じくWAによる『GUYS。』の宣伝がこの金粉ショー4/6なのだが、今度の芸術文化鑑賞演習bでは、演劇にぴったりのものが見つかりそうにないので、少し遠いけれど、これを対象にしようと思いつつある(「まれびとの会」が時期的にはいいのだが、初級入門としてはハードルが高すぎるように感じるからね)。

偶然の出会いによって、少しずつ新学期の予定が決まりつつあるので、前年の11月に作るシラバスほど、早すぎて縛りがかかってしまうものはない(いつも、授業アンケートでは、シラバスにこの教員は忠実ではないとか、あらかじめスケジュールを確定しないので困るとか、遠くに行かなくてはいけないので、どうして京都にしないのか!とか色々書かれるのだが、まあ、こんなことにも少しずつ慣れてくる)。

さて、3階、4階をうろうろ。すると、ココルームで砂連尾さんと眼が合う。ちょいとのぞく。またもや、リハーサルがこのあとあるそうで、見てもいいですか!とグレープフルーツジュースを注文。いいですよと假奈代さん。假奈代さんの体は、すでにリズムがあるから、詩を読むだけでもすでに音楽でありダンスなのだと砂連尾さん。あとで、教えてもらったのだが、街中の自転車の音などを拾ったサウンドを使ったのは、假奈代さんの踊りには、どんな音楽も合わなかったからなのだそうだ。

第三回全日本★朗読シンポジウム。前半が砂連尾理(振付家・ダンサー)の冒頭のダンスと、彼の振付による上田假奈代(闘う詩人・詩業家)によるダンスプラスポエム語り(即興とすでにダンスのなかで作られた詩篇の片鱗部分と)。後半は、二人のシンポジウム。とりわけ、「社会化」、「関係性」、現代詩の問題点などなど。

現代詩の話は、かつて現代詩ファンだったぼくにはとりわけ興味深い。ポエムリーディングがブームだった数年前。それを聞いた人たちがあまりにも面白くない(詩を朗読するのは、踊るよりも格段に安易に参入できるのだ)から、下火になってしまったいま。30万件の詩のサイト。でも、ほとんど批評厳禁なのだそうだ。詩集は売れず、自費出版してみんな進呈しあう。H氏賞などは、詩集に出るので、上田さんのように詩集でない詩活動をしている人には何もアオードはない。

16時ごろ、ビッグイッシューの販売員さんが上田さんに相談。丁寧に聞いている假奈代さん、でも、公演直前なのに、大丈夫かなあと思ったが、やはりプロ。まったく、動じない。砂連尾さんのソロ。ココルームで踊る砂連尾さんの姿はまた不思議な空気をここに呼び込む。ふと、ギャラリーそわかで彼らのデュオを初めてみたときに感じた空気感が甦る。ステージでもいいが、ギャラリーみたいなところに会う身体なのだろう。実際、4/21まで桧垣文江展が同時になされていて、彼女の作品も下手に展示されているのだが、いつしか、その作品が、舞台美術に溶け込み、上田さんが壁を探って言葉を掘り出すシーンに来たら、その白い作品がヨーロッパの墓標のように見えてきたのには驚いた。

砂連尾さんの踊りも、そのあとの假奈代さんの踊りも、假奈代さんが踊りの稽古の過程で作った詩に基づいて振付けられたもので、即興性よりもコラージュの合わせる部分の呼吸にこそ、創造性が発揮するというタイプのステージ。だから、想像していたものよりもずいぶんと作品的な結晶度を要求するステージである。よく、詩人と舞踊家のコラボレーションというものもあるだろうが、この二人の試みはそういう一過性のものとは随分違って、継続する二人の軌跡がちょっと交わったら、こういうスパークがあったのねえという持続するクリエーションの姿として、とても楽しめるものだった。

塹壕と地雷原。どこまでも荒涼とした風景に、ためらいもなく立つ詩人の体。

以下、詳しくは「こぐれ日記」にて。


KOGURE Diary/こぐれ日録》の扉へ戻る