|
こぐれ日録 KOGURE Diary 2005.9-10 こぐれ日録452 9/26〜10/2
こういうゲストをまたお願いと書く学生もいるが、そうそうはこういうチャンスはない。だからこそ、ライブであり、パフォーミングアーツの醍醐味というもの。そのあとは、実際に劇場に足を運ばなくちゃね。 そうそう、うれしいことに、私語が皆無。やっぱり実演者の力だ。そして、教室の前方だけに学生は座るようにして、マイクなしでしゃべったのも効果的だったかも知れない。この調子で何とか冬を乗り切ろう。 それにしても3回生ゼミは思いやられる。 いやあ、授業にお客さんが少ないとしても、まあ、そんなにがっかりはしないが、それでも、2時限目にいた3回生ゼミ生たちが、3時限目のゼミには顔を出さないというのは、かなり失礼ではないだろうか。彼女たちは欠席するという何の連絡もしないのだ、これが。午前中、そこにいてぼくに欠席しますと断れる状況にあるというのに・・である。まったく理解不能ないまどきの学生さんたちである。・・・でもまあ、諦めず、諭すしかない。これを読んだ該当学生がいたら、猛省してほしいものだ。 それでも来た3名の学生と楽しく、就職活動のための1分間スピーチのトライアルとか卒研の準備のお話をする。4回生は5名も来て逆にびっくり。来週と再来週、13時から卒研の中間発表なので、20部ほどのコピー、忘れないでね。まあ、3回生は3名しか来ないかも知れないけれど・・・ 演劇ビジネス研究会は、関電の方も来ていただき、最終報告書づくりの準備となる。ただ、大学生の就職活動支援との関連を探るために、今度の研究会は、10/31(月)の16時から行うが、その前に、13時から3回生ゼミ生(3名以上参加があればいいんですが・・・)でのトライアルを行うことにした。じつにラッキーなこと。 このとき、できれば、4回生も13時から参加してもらうといいなあと思う。こんなシチュエーションがあったという風に教えてもらうと助かるので。きっと蓮行さんややすなさんに直接会えるのは、大学生時代しかないと思うから。
午後は、東裕紀のオタク系サブカルチャーとポストモダンについての考え方をメモっておく。比較的図式化がうまく出来ていてかつシンプルなので、動物化とかデータベース消費とか、なかなかに、使いやすい用語のように思える(前に読んだ本でも、例えば、彼が言っていた環境管理型権力と規律訓練型権力という分類は、携帯電話を劇場でオフにさせるのか、環境自体を電波が届かなくするのか、という選択だとアーツマネジメント的例示が考えられるので、問題作成にも使えそうで便利)。ただ、なかなか彼が得意とする文化表象と、たとえばコンテンポラリーダンスのようなものとで、共有できるものかどうかは、具体的に試してみる必要はありそうだ。つぎの大学院の授業のネタにしようと思う。 買っていた桂枝雀の「饅頭こわい」と「替り目」を帰って見る。「饅頭こわい」がこんなに長いとは知らなかった。「替り目」は、自虐的になるほどではないが、ついビールを飲みたくなってしまうもので、二人で飲んでいると、隣の芳江がばんばんぼくをぶつ。虚構ではなく、ぼくの酔っ払い姿というノンフィクション的過去に反応して、面白がっている証拠だ。東京サンシャインボーイズをシアとートップスに二人で見に行ったときとまったく同じ反応なのがおかしい。
そして、10/1までに出す人は特に注意して欲しいのだが、出典を明らかにし(サイトを明記)、写真を写したらその日時と場所、インタビューしたならば、した日時や聴いた人のポジションなどを書いておくようにしてね。 13時からのまちかど紙芝居の自主的な活動を見る。林加奈さんがいないので、大変だが、一年生らが何とかかんとか、考えて紙芝居の演出とか、登場人物などを脚色している。この、試行錯誤が役立つだろう。ただ、当日パンフのことなど、制作面はまったく考えていないようなので、マネジメント班のフォローが大切。 15時から会議を一つして(ぼくとしては、いい感じ)、その間、打ち合わせとか下書き(学部長へ渡すもの)とか、あれこれ。18時から生協の理事会。さあ、早く風呂に入って寝なくちゃ。明日は一時限だ。
拍子木と鉦と締め太鼓を用意する。もちろん、タフ5の説明のために紙芝居の額縁も。結構、この実物攻勢が受けた。終わって、これらが、何円か?と聞かれて、しばし沈黙(質問自体が聞き取れなかったのだ)。授業の後、これはいくらですか?と聞かれるというのは、それは授業内容の質問としてどうかなとちょっとは思うが、まあ、読みきりマンガ的授業としては、こんなものだろう。マイクなし。私語なし。これで上出来としよう。 大阪楽座事業の関係で、淀屋橋。大阪倶楽部4階ホール。ここには能舞台があるのだ。将棋や囲碁のスペースと同じ余暇、老後対応ね。古典の新芽シリーズvol.2。お能がテーマ。『能の試み氈`フルートの囃子で能を舞う』伴野久美子制作。 2回公演があるので、午後の部、16時にまず間に合わせる(前回は、それぞれ違っていたのでてっきりそうかと思っていたら、同じものだったので、夜の部は前半のみ見る)。でも、三島元太郎の太鼓を、ソロで聞けただけで最高にしあわせだった。 最後の太鼓一調だけでの謡い「高砂」(上野雄三、泉雅一郎)も、その音を聴きながら少しだけ舞いが見えた気がした。想像力の余地が高いステージはじつに楽しめる。新作能は、2回見たが、シテの舞いの手を2回目は分析的に拝見して、これも得るところが多かった。フルートと合わすとか、現代音楽作曲家が関わるとかの意味(or無意味)については、ここでは言及しない。
こちらは、経済学の丁寧な説明を聞けて助かる。経済学の基本タームである財、資源配分はなじみだが、経世済民としての経済とのつながりはともすると忘れがちになるので、文化経済学がこうしていまある意義である、という流れの伏線となるわけで、こうした阪本先生の話をゼミでもちかえり、具体例と総論との連結によって反復していけばとても役立つので、いっぱい得るところがあった。しかも、彼の文化の説明も実に抑制的で(つまり、文化経済学が扱う「文化」の領域論であり、「文化的財」としての「文化」であるから)、これも勉強になった。 2回生ゼミは、スローライフとしての文化政策・アーツマネジメントなので、ゆっくり。それでも始めということもあり、数名の欠席のみで、のんびり。3回生からのゼミ研究のための予行練習になればいいのだが、教科書がちょっと高いので、この本って、5つ分(スローコミュニティ論、スローフード論、スローリビング論、スローエコノミー論、スローレジャー論などなど)以上の内容があるから、けして高くないよう、という説明に終始した(そして、終わって生協でまたそろえてもらうように頼むと、そうそう、この教科書、春ほとんど売れ残ったんですよ!といわれてしまう)。 明日からの卓上展覧会のための展示準備が終わって、夕方、大学の学生ラウンジに設置した直後に出会い、それをしばし眺める。3回生ゼミ生もいて、こういうのを見るのは好きなんだなあと思いつつ、どうしたら、こういう人たちが、にこにことゼミに来てくれるのだろうかと思案する。いっそ、ぼくがいなければいいのかも知れない(というか、ぼくがいることはどうでもいいことで、ここに来て、することをすればいいというような、フリースクール的に志向されるがごとき空気のような環境のみをつくるゼミ・・・)。 久しぶりにクラリネットな彼女に会い、いっしょに椥辻まで歩く。これから河原で練習したあと、飛び入りでジャズするんだという。アウトサイダーアートにも興味があるようで、いろいろなことに興味がある学生としゃべるのは、気持ちのいいもの。アドリブのむずかしさ、ジャズと落語の比較論などをする。 そんなこんなで、アトリエ劇研には間に合わず、明日の夜に行こうと思う。単に展示具合を見ようとのぞいた「銀杏の木」でアンミツを食べて、そうしたらタフ5の連中が展示を持ってきたので、図らずも、お仕事をした感じでもあった。18時までで閉まってしまう喫茶店(カフェ)だが、感じのいい店長ママさんとアルバイトさん。 京都橘大学生ばかりになると、生協のカフェみたいになるので、その按配がむずかしいが、お奨めであることには変わりない。タフ5のチラシもなくなっていて、追加する。このチラシ、今年は不足気味で嬉しい悲鳴。まちかどに、かなりポスターも貼らしてもらったし、さてどうなるかなあ。
KIC講義情報くちこみ系サイト。「裏講義概要、真シラバス」より(http://64.233.167.104/search?q=cache:r_x72ltPZywJ:rstaff.hn.org/kic/onlinesyllabus/ ss.cgi+%E5%B0%8F%E6%9A%AE%E5%AE%A3%E9%9B%84&hl=ja)アートマネジメント論 S小暮 宣雄(担当) 通常衣笠で開講 配当: 3回生 ついでに、アマゾンのレビューもhttp://www.amazon.co.jp/exec/obidos/flex-sign-in/ref=cm_rate_rev_pagepos1/ 250-3882328-6519455#rated-review 昨日の毎日新聞の夕刊を買うのを忘れる。お袋が最後のコラム「まちかどアーツ」を読んだと留守電が入っていたので、電話をする。ああいう風景って、私たちは分かるけれど、上流の方々はもともと分からないのと違う?とか言うので、そうかもねえ、と笑う。 15時からの京都芸術劇場『春秋座』でのコンサート。かなり早く着く。カフェに座って本を読んでいるが、舞台づくりだろうか、電器ドリルとかの音が騒がしい。春秋座の奥がフローリングのギャラリーになっていた。ギャルリ・オーブとかいうらしい。曙画廊ですね。 ギターの小さくて豊かで、それでいてさりげない音をはじめて美しいなあと感じだ。クラリネット(フランス式のものは歴史が新しいのだという)とのデュオは、はじめ、ちょっと奇異な感じがしたが、そのうちにとても気持ちよく聴けるようになった。シューベルトのアルベッジョーネ・ソナタに違和感があり、特に聞いたことのあるメロディーが繰り返されていくとどうしてもだれてしまう癖がまた出てしまう。 ところが、鈴木大介のソロ『ブラジアーナ第13番』(R.ニャタリ)を聴いて、完璧に音楽聴取態へと覚醒してしまう。それ以降、ぐいぐい。そうなると、亀井良信によるカーター『グラ』のクラリネット独奏に、居住まいを正し、プーランク、カステルノーヴォ=テデスコの程よい緊張感と和みバランスで心地よいひととき。普段は吹かない音域で、しかもクラリネットのピアニッシモの連続というのは、なかなかに大変なことなのだろう。アンコールが静謐なショーロというのも心憎い(ブラジルのショーロでは、この組み合わせが自然だということ)。オール武満徹ギターソロのCDを買っておく。 トークがあって、豆知識も得る。たとえば照明が強いと温度が上がって、ギターのピッチは低くなり逆にクラリネットは高くなるので、できるだけ、照明を弱くしてもらったのだという。 北大路通りを歩いて、アトリエ劇研へ。時間調節に入ろうと思っていた飲茶の店が見当たらない。野菜いっぱい居酒屋アロアロですじ肉ジャガイモ丼を食べて(アルコールを入れるとおしっこがしなくなるので辛抱して)、劇団飛び道具『人形師Q』を見る。6年前が初演。ぼくはそれよりもう少し前にやはり西部講堂でこの劇団を始めてみたと思うが、その舞台と感じが似ていた。柳田民俗学の素材を使った作劇。いま見ると、最近の作品の方が(当たり前だろうけれど)、素材に対する濃厚な読み取りと次へ次へと観客を巻き込むリズミカルなテンポがあると感じた。が、この流れで、もう少し民俗学の成果を取り込んでかつ輻輳する時代背景も書き込めば(柳田國男って一筋縄ではない人物だと思うので)、オジサンが興奮するような渋くクールな展開もあるんじゃないのかなあとも思った。
テレビも前はニュースぐらいみていたのに、さっぱりつけない。新聞もそうだ。そうそう、新聞と言えば、内田樹さんが、朝日新聞が余りにもひどいので毎日新聞に換えたという。うちも毎日に替えようかなと思ったりする。毎日だって、「まちの宝物探し、イベントで文化発信」(京都新聞のいつものやつ:これは、立命館大ゼミのクリシェ紹介だったかな)なんて見出しが全くないとは限らないが。 自分の家族のことだけでものを言ってはいけないかも知れないが、テレビがない暮らしというのは、読書の時間が復活し、あれこれと思索する大学生時代を取り戻してくれるように思える。だから、「テレビのない下宿生活」というのを、うちの大学生に普及できたらどんなに素敵だろうと前々から思っている。勝負は合格後の生協などでの下宿探しの段階で、そこで家財道具そろえとしてテレビ受像機が入ると万事休すである。 ということで、入学式までの間である。 大阪市立芸術創造館へはじめて行く3人組がいたので、声をかけて一緒に行く。最近、どうも演劇鑑賞人口が減ってきたように思えるので、こうしてはじめて劇場に足を運ぶみなさんが迷ってしまって、結局行かなかったということがないようにしたいんです、とかいいつつ。第三回大阪現代演劇祭ステップアップシアター参加作品、水の会vol.11『もの凄いイエ』(作・演出:奥野将彰)。70分余りのお芝居だったが、途中から俄然面白くなり、終わり方もインパクトあり。客席もぎっしり埋まっていて、今日に限れば、演劇鑑賞人口減少については、杞憂だったということかも知れない。 壊す予定のアパートに住みだしている「住人」にとってのイエの不安定性と住むことの意味づけなどというものだったから、「うちやまつり」とか、OMSの最後に見た南万歳一座のお芝居などを連想した。ここのいつものイメージは、もう少しコミカルな劇団というものだったが、テーマのためか(発電機が調子悪いのも、人為的なものだった)暗い色調がベースとなっている。 追い詰められた疑心暗鬼とどん詰まりの袋小路状態である現在。わが国の地域や各種組織・社会の現在を、幻の不法占拠正統化イデオロギーやいつ何時闇になるかも知れない「サロン」があぶりだしている。不法占拠仲間という擬似共同体(似非コミュニティ)が、コミュニケーションがぎこちなく不全状態である人たちのまったりとしたユルい時代をよく象徴化していると思う。こういう状態では、内と外という意識が明確化して外部の排除に陥りやすく、内部の過失や罪を外部の敵づくり、あるいは監禁というカタチで排除したり生贄にしたりするのである。 |