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こぐれ日録 KOGURE Diary 2006.7 こぐれ日録495 7/24〜7/30
専門演習は、全員が来た3回生、停電で昨日の怪談をしてあげた4回生と 後者については、鑑賞者開発についての先行研究をまずまとめることをしてから、それが視覚芸術ではなく、実演芸術、とりわけ、小劇場演劇やコンテンポラリーダンスにおいては、どれだけ有効で、どれが未開発なのかを明らかにしていく。そのときに、実演芸術が持つ固有な条件から、各主体エレメント(創造団体側、鑑賞者側、つなぐ媒体+批評・ジャーナル側、行政・アーツNPOなど文化政策側など)へと視点を移し、また、最後に、各主体をつなぐような展開にしようとしているのだろうと聞きながら思った。 タクシーのなかで、一度、ふと離人症ぎみになって、そのあと、どーっと空しさが押し寄せる。 学期末、珍しく精神の方が弱っている。
大阪市弁天町の『世界館』に行こうと思っていたが、気がつくと18時近くになっていた。
隣の小学校一年生の女の子は、お母さんと八幡駅まで行くのだが、とても時間がかかるのだという。どうしてかというと、大谷川の様子が面白すぎるので、大変興奮するからである。 でも、この川の主は、特に今年は、大きな牛蛙か蟇蛙か、なんというのか知らないが、のっそりとしたカエル君たちである。 あんまり関係はないが、テレビという媒体は「音」を素材にするのはとても不得手だったのだが、それをあえてNHK教育の「あいのて」ではやっているというような趣旨のお話を読んだ。なるほど。 朝、一気に成績入力を終える。爽快なり。今日から8/12までなのだが、もう夏休み前の宿題が終わったような気持ち。
うちあわせ
京都芸術センターの講堂で、「at Hirakata @枚方」。演劇ユニットYOU企画、 TOKYOSCAPE、昨日はじめてみて(風琴工房『紅き深爪』)、今日はアートコンプレックス1928で見る。 今日の鳥瞰図さんは、スピーディで、軽めの直球という特色がある。コメディの集積。京都ネタもうまく取り上げて、ディスコミュニケーションのパタンをオムニバスしている。過去にないものをしようとか、大リーグボールを開発しようとか、そういうことなど考えず、前に同じようなものがあってもなくてもいいから、自分たちで楽しくつくろうという感じ。そう偉大なるアマチュアリズム。 まだ、2つだけだが、こうして東京の今の劇団を複数見られるというのは貴重なものだ。展覧会だったら、ベルギー美術の今とかなんとか、すぐに企画できるが、演劇だとずいぶん大変なフェスティバル。 東京はいい意味で巨大な地方、田舎っていう言葉があって、これは洗練されているけれど広がりがない京都というか、閉塞感が高まっている地域演劇というか、そういう対比としても使えるのかも知れないと、仮説的に書いておこう。
三田村管打団? 『!』 野村誠の世界 8/27 4回目。 「上手の、目利かずの心に合はぬ事、これは、目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、また、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん為手をば、花を極めたるとや申すべき。」世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫、1958)p73 ここを含む節にあたって、馬場あき子は、『古典を読む 風姿花伝』(岩波現代文庫、2003)p143において、花を極めたシテの芸は、目利かず(鑑賞眼のない人たち)の眼にも、工夫とサービス精神で面白いように能を舞えと世阿弥は言っているのだと解説している。そして、以下、鑑賞者開発とかアウトリーチとか鑑賞ワークショップと関係して深く考えさせられる記述になっている。つまり: 《最高の芸能者たる覚悟から、この「観客」あっての芸である意識が脱落することを戒めているのだ。しかもそれは、決して観客に媚びるのではなく、低い観客、目利かずの批評家の眼を高めていく、真の芸術への誘いの部分があってもよいと考えているのである。》p143
シャガールよ、奈良美智よ。 ユニークポイント『トリガー』。アトリエ劇研。TOKYOSCAPEの3本目。 常識的に見れば、主人公がやってしまった行為の直接の誘引は、離婚状を出されたこと。それも、仲人を妻と二人でした直後。ベンツの運転をしていた男との関係や自分の認知症の親が原因であったことが、離婚の理由とすると、まあ、それがその行為(介護に疲れてその親を殺めてしまう)の引き金であるというわけである。 ところが、本人は、ぐらぐらしていた右奥歯が、離婚状にハンコを押したその日に抜けたことが、その行為の誘引ととりあえず説明している。どちらが正しいということは言えない。そのどちらでもないということももちろんできる。蛍光灯のつき方が暗示的だがあくどくはない。事件現場は現われない。表しようがないのだろう。あるのは、漂う臭い。それを臭いという妻、妻に防臭スプレーを執拗にかける夫。タバコの臭いを気にしながら、出戻りの娘が専業主婦の母のところに戻る(おなじアパート)所もあり、臭いはかなり重要ポイント。でも、ユニークな臭いではなく、アパートの同じ間取りと同じく、どこでもありうる設定。どこでもありうるポイントに対して、奇を衒った作劇術、演出術を使わずに台詞にしている。主人公の夫が突然声が大きくなる、いくつかの感情爆発寸前のポイントにおいて。 ふと、この劇団名のユニークというのは、個性的とか「オンリーワン」とかではなく、孤立した人間の(ロンリーワンの)、というぐらいの意味なのかも知れないなと見ながら思った。それほど、展開がスムーズで逆に色々観察する余裕がある作品だった(そこが閉鎖的で展開が見えず、狂おしいまでの凝縮感を覚えた『赤き深爪』との大きな違い)。 ポカリン記憶舎『煙の行方』。西陣織成館の須佐命舎というスペースにて。 長さは京都でこういうフェスティバルで行うからそうしたということだというのは、このポカリンでもそうで(60分)、実は、女優4人の公演の前に、男優4人の公演がセットになって初演では見られるようになってもいたということである。それでも、ここではきっと、この女優4名のステージはそれはそれで完結しているように提示されているのだろうし、最後に、作者(たぶん、着物美人でかつ夏目漱石の作品から抜け出てきたみたいな人)がそういう話をしたのは、丁寧に作品解説しつつ、戯曲も販売していることをさりげなく教えてくれたためだろう。 日本舞踊の稽古そのものは見せないで、稽古している人の待機場所で、稽古している人って、どんな仕草になるのだろうか、とか、そういう世界の独特の仕草、態度、物言い。そういう設定をこの庭が見える場所で巧みに活用しつつ、「溺れる」ことへの恐怖と憧れの気持ちを金魚が泳ぐ金魚鉢が置かれたテーブルのある部屋で展開する。ゆっくり、物憂げで優雅というか、囲われている女が持つようなけだるさも幾分潜ませて。 リンゴ酢ジュースのあぶくと金魚鉢(これは現実にそこに在るもの)から、母に顔を押し付けられた洗面器、学校のプール、波が怖い海、足を引っ張られた川、そして、銭湯(これは意外で面白かった、ヒトデのように浮かぶ見学希望者の話として出てくる)の「記憶」が紡がれていく。もちろん、学校のプールに染み出た紅さの煙として気化する行方がクライマックスであろう、一応。 |