こぐれ日録 KOGURE Diary 2006.7


こぐれ日録495 7/24〜7/30


7/24(月)


午前中京都府の会議。府庁の人たち向けの弁当を買って、
府庁からタクシーで大学。2960円。その間に食事。
タクシーの人は年配なのに京都橘大学にはじめて行くと言う。
日曜日、小沢征爾を外国の人と一緒に京都コンサートホールまで乗せたらしくて、
あとは、芸能人を乗せた自慢話が続く。はー。

専門演習は、全員が来た3回生、停電で昨日の怪談をしてあげた4回生と
忙しい。ずいぶんアドバイスをしたが、全員には出来ない。あとは、個別に研究室に来てもらおう。
5時限目は大学院授業で、6時限目は修論について。博物館ボランティアは自発的学習者であるというものと、鑑賞者開発について。

後者については、鑑賞者開発についての先行研究をまずまとめることをしてから、それが視覚芸術ではなく、実演芸術、とりわけ、小劇場演劇やコンテンポラリーダンスにおいては、どれだけ有効で、どれが未開発なのかを明らかにしていく。そのときに、実演芸術が持つ固有な条件から、各主体エレメント(創造団体側、鑑賞者側、つなぐ媒体+批評・ジャーナル側、行政・アーツNPOなど文化政策側など)へと視点を移し、また、最後に、各主体をつなぐような展開にしようとしているのだろうと聞きながら思った。

タクシーのなかで、一度、ふと離人症ぎみになって、そのあと、どーっと空しさが押し寄せる。
21時ごろ椥辻、無性にビールが飲みたくなり、そのあと、少しまた虚脱感を覚える。

学期末、珍しく精神の方が弱っている。
明日は、すこしのんびりしよう。


7/25(火)


朝、まだいらいらしている。
昼、やっぱり不機嫌。ある学生にはじめきつく当たってしまった。
わたしだけではなく、同僚の先生もレポートのことでがっかりしたと話しにくる。
そうこうしているうちに、すこし落ち着く。
採点の集計が長引く。

大阪市弁天町の『世界館』に行こうと思っていたが、気がつくと18時近くになっていた。
ということで、玉造小劇店、ラックシステム其の十巻『お願い』は見られず。残念。


7/26(水)


○ うしがえるわが子御玉を祝して謡うの    月豚

隣の小学校一年生の女の子は、お母さんと八幡駅まで行くのだが、とても時間がかかるのだという。どうしてかというと、大谷川の様子が面白すぎるので、大変興奮するからである。
今日は、私もその女の子にならって、ウシガエルの鳴き声姿を見たり、うじょうじょいるその子どもたち(御玉杓子)の泳ぎを見ていた。ざんねんながら、亀の子が親亀に上って、亀の子のうえにまた小亀、孫亀が乗っている姿は見つからなかった。亀は岩清水八幡宮の放生会によって放たれたものかも知れない、大きな鯉もまた。

でも、この川の主は、特に今年は、大きな牛蛙か蟇蛙か、なんというのか知らないが、のっそりとしたカエル君たちである。
もう、今年の夏は最高だったはずで、昨日も、カエルの口が開くたびに桃色の色が川を彩っているのが見えた。でも、その声は美しいとは言いがたい。はじめは、機械音のようでただ気色悪かっただけだった。カエルの姿が見えたから、ちょっと、その音に心が寄るようになったのだ。さらにオタマジャクシが、うじょうじょいる朝があるから、夜の大合唱もさもありなん夏のウシガエルなりなのである。

あんまり関係はないが、テレビという媒体は「音」を素材にするのはとても不得手だったのだが、それをあえてNHK教育の「あいのて」ではやっているというような趣旨のお話を読んだ。なるほど。

朝、一気に成績入力を終える。爽快なり。今日から8/12までなのだが、もう夏休み前の宿題が終わったような気持ち。


7/27(木)


にんげんざ
すたじお
風琴工房
「赤き深爪」
さびしくみる。
大人子供
ずきりな異形

うちあわせ
ごぜんごご。
じぶんなき
おしごとなり。
がくせいさん
いろとりどり。
すずえさん
またとなり。
いんせいさん
こんにちわ。


7/28(金)


姫路でお墓参り。
帰り、タクシーを呼んだので、ぐるっと姫路城をめぐってもらう。
200円のまま、改修できない動物園は、入場料が据え置きなのだそうだ。
姫路市美術館のレンガ壁は装飾でじつは木造。へ〜。戦前は軍、戦後は市役所。

京都芸術センターの講堂で、「at Hirakata @枚方」。演劇ユニットYOU企画、
秋公演「ハーフ―Where the heart will be―」上演のための、
ワークインプログレス公演30分間と、前後に、平野愛による「モチーフとなる枚方の風景のフォトプロジェクション」。じつは、八幡市の風景もあった。もうすこしで何もかも白い光になる寸前の風景が多い。
クスキユウ、松浦友、楠木悠と、作、演出、登場人物が微妙に変わっていくのもおもしろい。

TOKYOSCAPE、昨日はじめてみて(風琴工房『紅き深爪』)、今日はアートコンプレックス1928で見る。
bird’s-eye view『girl girl boy girl boy』。
どちらも直球だなあと思った。もちろん、昨日の風琴工房の球の速度は速くなくでも重たくて下手をするとバッドが折れてしまいそう。演技のはじめに違和感があったが、そのうちにテーマの確実さでそれも消える。ただ、60分ということで、少し説明で終わっている所があるし、どこか、ふーっと息が抜けてもよかったかも。

今日の鳥瞰図さんは、スピーディで、軽めの直球という特色がある。コメディの集積。京都ネタもうまく取り上げて、ディスコミュニケーションのパタンをオムニバスしている。過去にないものをしようとか、大リーグボールを開発しようとか、そういうことなど考えず、前に同じようなものがあってもなくてもいいから、自分たちで楽しくつくろうという感じ。そう偉大なるアマチュアリズム。

まだ、2つだけだが、こうして東京の今の劇団を複数見られるというのは貴重なものだ。展覧会だったら、ベルギー美術の今とかなんとか、すぐに企画できるが、演劇だとずいぶん大変なフェスティバル。
でも、関西の演劇界にとったら、自分たちの世界とどのように同じでどのように異なるのか、自分たちはどうなのか、いろいろ考えて感じるいい機会であることは間違いない。

東京はいい意味で巨大な地方、田舎っていう言葉があって、これは洗練されているけれど広がりがない京都というか、閉塞感が高まっている地域演劇というか、そういう対比としても使えるのかも知れないと、仮説的に書いておこう。


7/29(土)


大学院生の発表。
おろおろみしみし。
2回生のお二人が
ぶじご卒業なら
来年は出番なし
それも楽チン。
文化政策研究科と
アーツマネジメントとの
極大的遠さ実感。
近づけるなんて
無理無理無意味

三田村管打団? 『!』
というファーストアルバム
!(やったね)の山科音頭。
木下先生に届けよう
著作権さがしにお世話になった。

野村誠の世界 8/27 4回目。
碧水ホール。新しい館長の方針で
200名入らないと終わりだという。
そのものいい、あまりにも、
こすくて、ずるくて、やだ。

「上手の、目利かずの心に合はぬ事、これは、目利かずの眼の及ばぬ所なれども、得たる上手にて、工夫あらん為手ならば、また、目利かずの眼にも面白しと見るやうに、能をすべし。この工夫と達者とを極めたらん為手をば、花を極めたるとや申すべき。」世阿弥『風姿花伝』(岩波文庫、1958)p73

ここを含む節にあたって、馬場あき子は、『古典を読む 風姿花伝』(岩波現代文庫、2003)p143において、花を極めたシテの芸は、目利かず(鑑賞眼のない人たち)の眼にも、工夫とサービス精神で面白いように能を舞えと世阿弥は言っているのだと解説している。そして、以下、鑑賞者開発とかアウトリーチとか鑑賞ワークショップと関係して深く考えさせられる記述になっている。つまり:

《最高の芸能者たる覚悟から、この「観客」あっての芸である意識が脱落することを戒めているのだ。しかもそれは、決して観客に媚びるのではなく、低い観客、目利かずの批評家の眼を高めていく、真の芸術への誘いの部分があってもよいと考えているのである。》p143


7/30(日)


つっこみ所いっぱいのアーツ。
これって、私たちのなかでは、とてもプラスなイメージで、つっこみ所をいっぱいつくろうとか、今度の「めくるめく紙芝居」プロジェクトでも言っているぐらい。
「つっこみ所いっぱいのCD(でいいのか?)になっていると思います」と、包みを開けると森本アリさんがCD『!』の送り状に書いてあったので(振り込み先はまた聞かなくちゃ)、忘れずにメモっておく。
三田村管打団?の?というのも、なかなかの味で、バンド名?がもうすでにつっこみ所ばかりなわけだけれどね。

シャガールよ、奈良美智よ。
と電話の向こうで子どもたちが興奮して言っているので、テレビをつけると(新日曜美術館)、高橋さんという白いシャツがさわやかな学芸員さんも一緒に、大きな空間の四方を取り囲むアレコなどでお話をしていた。新しくできた青森県の美術館である。また、完成してからずっと見ていない美術館にならないようにしなくちゃなあ。

ユニークポイント『トリガー』。アトリエ劇研。TOKYOSCAPEの3本目。
これもまたまじめな作品。コンビニの時給が680円といっていたので、当日パンフを見なくても数年前のことだと分かる。題名もずばり、trigger。鉄砲の引き金。誘引。比喩というよりもより直接的なものである。

常識的に見れば、主人公がやってしまった行為の直接の誘引は、離婚状を出されたこと。それも、仲人を妻と二人でした直後。ベンツの運転をしていた男との関係や自分の認知症の親が原因であったことが、離婚の理由とすると、まあ、それがその行為(介護に疲れてその親を殺めてしまう)の引き金であるというわけである。

ところが、本人は、ぐらぐらしていた右奥歯が、離婚状にハンコを押したその日に抜けたことが、その行為の誘引ととりあえず説明している。どちらが正しいということは言えない。そのどちらでもないということももちろんできる。蛍光灯のつき方が暗示的だがあくどくはない。事件現場は現われない。表しようがないのだろう。あるのは、漂う臭い。それを臭いという妻、妻に防臭スプレーを執拗にかける夫。タバコの臭いを気にしながら、出戻りの娘が専業主婦の母のところに戻る(おなじアパート)所もあり、臭いはかなり重要ポイント。でも、ユニークな臭いではなく、アパートの同じ間取りと同じく、どこでもありうる設定。どこでもありうるポイントに対して、奇を衒った作劇術、演出術を使わずに台詞にしている。主人公の夫が突然声が大きくなる、いくつかの感情爆発寸前のポイントにおいて。

ふと、この劇団名のユニークというのは、個性的とか「オンリーワン」とかではなく、孤立した人間の(ロンリーワンの)、というぐらいの意味なのかも知れないなと見ながら思った。それほど、展開がスムーズで逆に色々観察する余裕がある作品だった(そこが閉鎖的で展開が見えず、狂おしいまでの凝縮感を覚えた『赤き深爪』との大きな違い)。

ポカリン記憶舎『煙の行方』。西陣織成館の須佐命舎というスペースにて。
タクシーで行ったら時間がかなり余った。麦茶のサービス。浴衣美人の案内。
『トリガー』も1時間半にはならず、東京の演劇は比較的関西よりは短めなのかなと思ったら、一般的には、東京の方が長いということで、このお芝居は連続して見られるように、短めのものをセレクションしているのではないかということだった。これは、確かにそうかも知れない。

長さは京都でこういうフェスティバルで行うからそうしたということだというのは、このポカリンでもそうで(60分)、実は、女優4人の公演の前に、男優4人の公演がセットになって初演では見られるようになってもいたということである。それでも、ここではきっと、この女優4名のステージはそれはそれで完結しているように提示されているのだろうし、最後に、作者(たぶん、着物美人でかつ夏目漱石の作品から抜け出てきたみたいな人)がそういう話をしたのは、丁寧に作品解説しつつ、戯曲も販売していることをさりげなく教えてくれたためだろう。

日本舞踊の稽古そのものは見せないで、稽古している人の待機場所で、稽古している人って、どんな仕草になるのだろうか、とか、そういう世界の独特の仕草、態度、物言い。そういう設定をこの庭が見える場所で巧みに活用しつつ、「溺れる」ことへの恐怖と憧れの気持ちを金魚が泳ぐ金魚鉢が置かれたテーブルのある部屋で展開する。ゆっくり、物憂げで優雅というか、囲われている女が持つようなけだるさも幾分潜ませて。

リンゴ酢ジュースのあぶくと金魚鉢(これは現実にそこに在るもの)から、母に顔を押し付けられた洗面器、学校のプール、波が怖い海、足を引っ張られた川、そして、銭湯(これは意外で面白かった、ヒトデのように浮かぶ見学希望者の話として出てくる)の「記憶」が紡がれていく。もちろん、学校のプールに染み出た紅さの煙として気化する行方がクライマックスであろう、一応。



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