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こぐれ日録 KOGURE Diary 2006.7 こぐれ日録492 7/3〜7/9
京都府の方たちが来て、京都国民文化祭(2011年だったっけね)についてのご相談。福井国民文化祭のテーマは「糸」だったという。では、京都は?と聴かれて、とりあえず「間」と言っておく。それも内田百_の「_」の「ま」がいいかも。まえから考えていたことだったが、京都国ノ民ナノ文化祭、つまり、京のくにのみんなの文化祭って考えると優しくなるねとも。 ゼミでは、絵本を撮影してもらったりして、これは面白かった。ビデオ、買おうかなあ。そのあと、骨についてのミニセッション。まず、骨のイメージを聞くと、沖縄の洗骨の話が出てきて、もう、うはうは。そして、北海道の原っぱに落ちていた鹿の骨をじっと小さいとき見つめていたという、これもまたかわいくも素敵な話。そして、コンソメスープの素などに入っている牛骨粉・・・・いやあ、結構、熱中した授業だった。 4回生はやはり就職についての相談。でも私はまったく役立たず、すでに就職を決めた学生がとてもいいアドバイスをしていた。基本給が低いといっても、時間外がきちんとつくとか住宅手当の限度額がいいとか、あと昇給率とか色々聴いてみてから判断したらいいとか教えていて(離職者率とか内定承諾書を出しても9月末までは撤回できる話とか)、すごく研究しているのだなあと学生に感心する。 大学院の講義は、いままでのアーツマネジメント総論の早回し講義。そのあと、自分探しの旅の第3問目に出す評論文を決めて、問題にする。
近大は、13回目。講義としては最後となる。 行き返り、「メディアとアーツマネジメント」という話をぼんやり考えている。日曜日に地域メディアのシンポに出たことが影響しているのだ。 まず、アーツの原点のTown Media(まちかどメディア、直接的接触。美術館や劇場、媒体という側面ではアーツそのものまで含むと考えてみる〜チンドン音楽などはその典型例)、そして、文学(書)には切っても切れないものであるPaper Media(紙媒体、新聞、雑誌、チラシ・ポスター)、さらにDigital Media(デジタルな媒体。もちろん、CDなどとインターネットなどとの違いも内部にある。電波メディアもアナログからデジタルになるので一緒にしてしまってもいいかも)。 この3つを縦軸にして、横軸に、personal、regional(associative)、massの範囲によるメディア分類を並べて、3×3=9分類の図を一応書いてみる。すると、例えば、T+p(pT=パーソナル・タウン)メディアとなって、チンドン、紙芝居(紙だけれど、タウンに分類します)、そしてアーツだけには関わらないものとして井戸端会議などの会合、口コミ、うわさなどが例に考えられる。どうように、rTメディア(美術館、劇場、タウンミーティング、議会、公会堂トークなど)、さらに、これは特殊だし、放送メディア(mD)と関わるが、mTメディア、ワールドカップ開催都市とか皇居前新年天皇挨拶、あるいは軍事パレードなどが一応考えられる。あと6タイプ、pP,rD,mP,pD,rD,mDは省略。 と、それなりのメディア分類になるので、それぞれにアーツマネジメントとの相性などを検討すると少し面白いかも知れない。アーツマネジメントに関わるメディア論は、とりわけ、広告とPR、記事化のためのニュースリリースなど実践的なものが中心にしたほうがいいだろう。
朝、サッカーを見ていると、北朝鮮から発射があったらしくて、映像がパソコン画面みたいになっていた。 来週で演習は終わり。もう文化祭の出し物の打ち合わせ。餃子をするのだが、隣のクラスも餃子らしくて、いろいろ秘密作戦をしなくちゃいけないなという感じ。競争は切磋琢磨のドライブとなるかどうか、こちらもウォッチングだ。 はじめて文化政策学科会議を開催した。1回生ゼミだけのものとかは開いていたが、ようやくというところ。次年度のゼミのありかたなどの話しだが、もう教務委員会的には期限がすぐの感じだという。 他方、今年の新入生キャンプは学生によるへんな宴会芸みたいのもなくなり(体育館で汗を流すものに変更)、近江八幡をゆっくりみて、NO-MAにもびわ湖ホールにも寄ったりして、観光、まちづくり、文化産業、アーツマネジメントがほどよくミックスしていて、すっきりしていい感じだから同じでいいとみんな思うのでは?とのんびり考えていたら、そうでもないのだという。これにはびっくり。まあ、任せたらいいのだけれど・・。 そのキャンプについて、一番の問題は泊まったところは年金関係の施設だったので、部屋には風呂がなく、共同風呂には入りたくないという学生がけっこういたということ。なるほど、いまは、共同で風呂に入るというのは、日本の文化ではないのだ。 夕方、加藤種男さんが大学に来る。むかし私が「地域創造」っていっていたようなことを、いま横浜でしているよ、都市文化政策っていうのかなあ、とかつぶやいていた。
それにしても、まだ財団法人地域創造は、無粋な「宝くじは豊かさ築くチカラ持ち。」の宣伝をでかでか、それもチラシの正面に強制的に載せさせている。今回のチラシは、舞台の象徴として出てくる黒い烏、黒いグミ袋など、陰、影、蔭のイメージに、日常的な普通の時間である自転車を象徴的に写真にしているフロントなので、よけいに、このセンスの悪い宣伝が胸糞悪い。地域創造などどうしてつくってしまったのだろうか。 おっと。お芝居は、時代の闇に正確にヒットした作品となっている。しかも、異常な性犯罪者の矯正施設という一応の具象性もあり、もちろん、その寓意的な施設の形状などによって、さまざまな連想や解釈が観劇後出てくるのだが、小劇場演劇の初心者でもまず頭を抱えることはないだろう。収監された男たちの出口の無い右往左往はカフカを思い出す。未到達、不可視、不条理の監視社会に、社会から追放された弱者である男たちが、はしごを少し上って、傾いた格子窓をのぞいて、白い幻想の鳥を見る。片方の靴下には、自分である虫を入れて握っている。 ただし、それは見放されているといったほうがいいのかも知れない。本を読み続けている文字男。暴力のはけ口を同僚に向ける男、水上。彼は性的倒錯と暴力性を兼ね備えて唯一多弁である。はしごを少し上って、傾いた格子窓をのぞいて、白い幻想の鳥を見る長老。片方の靴下には、自分である虫を入れて握っている名前が無くなった男。タイトルはこの男(善人というのは、受難を受けるキリストのイメージか)の靴下である。そして、一番年配である、幻想の夫婦を演じる新人。 そう、役者は選りすぐり。男性陣は、一人ひとりがずいぶん違っていて、それは、犯罪の多様性を表している。性犯罪者として、ひとくくりに出来ない歪みが犯罪行為の違い(監禁、強姦、誘拐・・・)に対応している。障碍の多様性、あるいは、人間の理解できない嗜好の業のようなものまで感じさせられる。田辺剛が役者として出ていて、おちゃめで切ないポーズをするのも、ある意味レアな「みもの」。ただし、演出する方としたら、演出家を役者として使うというのは、よっぽど信頼関係がないとむずかしいことなのかもと思う。いつか、長谷川孝治の演出で、平田オリザやはせひろいちが役者になる舞台とかが見たいかも知れない。 他方、3名の女性の「シスター」は、個性を殺すことで、世間の人達を代表するようで、もちろん、本当のシスター(修道女)であれば、世間から隠れた存在なわけで、その両義性が興味深く、そのために、世間の人びとが性犯罪者に対応するのとは違うある種、滑稽味、コメディ的要素を持ち合わせている。 それは、禁欲の権化のシスターと、彼女たち3人(烏三昧というノンセンスの合唱がいまも耳に残る)の対極にいる性犯罪者との関係はおかしくも濃密な裏返しの関係である。欲望の放逸者であり、収容されている施設では、矯正しようとすれば(その手段は、どうも、シスターに恋愛できるようになることぐらいでしかないらしい。かなり非現実的な設定である)、現実には、見放された環境のなかで、精神障碍になることでかろうじてバランスを取るしかないのだ。 もちろん、それ以外に、矯正できた(幼児に性欲を感じなくなった)と装うという手段や、脱獄(逃走)の可能性、さらに、もっと悲劇的な方法だってあるわけではあるが。 それにしても、シスターは矯正の幇助を行う施設側の人であるようで、じつは、自分たちがいうように、加害者によって殺された被害者の魂なのか、あるいは、同じ収容者なのか・・・・ いずれにせよ、観劇後の余韻が長く続く予感のする舞台であった。
ミュージカル映画も少し。ちゃんと下準備をしていなかったので、一番見せようと思っておいたところへDVDがとどかない。これはよくないなと思い、終わってから成瀬映画を予習しレジュメづくり。小津映画は去年と同じでいいので、レジュメはそのまま。 2回生でアーツマネジメントコースを自分の学びとして考えているらしい二人組が来て、財団法人地域創造と私は関係があるらしいと知り、そこで出している制作についての冊子がよかったのだということで、なぜか話に来る。こちらは、財団にいたときから雑誌はじめ出すものが微温的なもので(昔ぴあ関係だったところに委託していたのだが)、まったく内容が役人とぴあが合体すると、役所的かつイベント屋的になってしまうなあとごくごく不満だし、いまはもうまるで興味がないので、ごめんなさいなのだが(でももちろん学生はかわいいし悪気はない。ただし、アーツ経験&一般教養が絶望的に欠落している)・・・ともあれ、次年度試みようとあれこれ思案しているアーツマネージャーキャリア形成クルーの原案を早く示す必要はあるだろうと思う、3回生演習との関係でも。 13時から、東部文化会館で、この前の子どもの文化フォーラムの反省会をする。次年度、できれば、山科中の子どもたちの文化発表を前面に押し出して、事前にきちんと調べ発掘し、当日までに接触してプログラムをきちんと作り(つまり事前のアーツマネジメントをして)、そして本番を迎えるべきだろうと思う。そのために、やはり自分と大学生がちゃんと関わろうと思った。ロビーも使って行きたいし、絵画とかワークショップ的な参加とか、フリーマーケットとか、考え出すとあれこれアイディアは出てくる。問題は人手と資金だが。 また、当日、鑑賞の気持ちを当日に示せるような仕掛けも必要で(「うっとり」投票ポストイットみたいなものとか)、交流会的なもの、アフタープログラムなども探りたい。そのためには、実に億劫なのだが「ヨサコイソーラン」も、いまうちの大学生もやっているし、児童館でもやっているらしいので、関わっていかなくちゃとも反省する。あとは、看護学部、次年度できる児童教育学科へのブリッジをどうするかである。 時間つぶしに本屋さんで、旧かなを学んでちゃんとした俳句や短歌を作ろうという本を立ち読みしたりしつつ、ココルームへ。こんにちは委員になって、今日は出番がなかったようで(ちゃんとシンポのように話したりするのではないもっと流動的な会かと思っていた)、お客さんになって、テーブルで「こんちちわ」と対話ということをめぐって話す会に参加した。22時を回ってしまって、いま、西岡たかしのライブをBS2でやっているなあと思いつつ、帰ると23時半だった。 快眠コーディネーターの力田正明さんという人のテーブルに座ったので、さっそく、睡眠薬を飲まないと眠れないという元ニートの人が相談を始めている。他方、9時間ちゃんと寝てもいつでも寝なさいといわれたら寝てしまうという男性もいて、こちらは、ひょっとしたら過眠症という場合もあるということで、肥満とかいろいろ睡眠欲を満たすことがなかなか出来ない原因がある日本のことへと想いが行く。とりわけ、24時間、働き詰めで明るく光っている日本列島の宇宙写真を思い浮かべれば、子どもの就寝時刻が遅いこととか、不規則な看護師さんなどの勤務とか、みんな体を悪くすることばかりが蔓延していることに気づく。 テポドンの北朝鮮は逆に夜とても暗いのだという。外出が出来ないのかも知れないし、草臥れて夜遊んだりするお金も余裕もないのだろう。暗い夜探検ツアーとか砂利道ラリーとかで北朝鮮も平和裏に外貨を稼げばいいのになあ。インドも日本に次いで明るいのだそうで、インドも急速に変わっているとは聴いていたが、暗闇はそんなに深くなくなっているのかと思った。イルカの脳が半分ずつ眠ることや、ライオンは20時間眠ることなど話題はそちらだけでもつきない。ゴリラの睡眠時間はどうなのだろう。 こうもりなど夜行性の動物は、ずっと明るいと目が覚めないのかも知れない。人は朝、眠くとも光を浴びて起きるモードになれば、14時間ぐらいたって、睡眠したいなあというホルモンだか何かが出てくるのだそうで、朝光を浴びて、それから午前中とか昼間ちょっと仮眠するのがいいのだそうだ。昼間に光を浴びて起きるようになると、寝付けないのはそもそも5万年前のホモサピエンスの遺伝子に書き込まれた習性なのだろうという。
やはり、演劇でも同じ危険あり。 もちろん、時間は直線ではないし、昔はよかったというものではない。だが、オウム真理教を描いた「ここからは、遠い国」では、時間が微妙にずれていったが、そういう複雑で面妖な作劇方法ではなく、ある意味、すーっと入りやすい仕掛けである。 逆に、何でもかんでも公の施設なら適用され、しかも民間へとシフトするように仕向けられ、そそのかされて運用されてしまっている指定管理者制度が、あまりにも面妖すぎる代物であり。だから、現実の方が余りにも込み入っていて、誰が介護する者で誰が介護される者かという区分など、この荒立った制度適用のいま、もう、きちんと機能されていないことが、実際の現場からのヒアリングに基づく作劇で浮き彫りになる。 理事長の娘である所長山浦は加害者なのか被害者なのか。 ボブ・ディラン。 朝、昨夜放送されていた西岡たかしの録画を見ていた。矢野真紀というシンガーが歌う「遠い世界に」が入ったアルバムを注文。「これが日本だ、ぼくらの国だ」。 夜は京大西部講堂へ。広場で学生が火を燃やしていた。夕ぐれ、西部講堂の屋根と大きな緑が美しかった。自動車置き場になってしまって残念だが、まだ、大学にこのような空間があることは京都の誇りであるに違いない。とりふね舞踏舎・三上賀代舞踏公演『献花』。ほとんどソロの70分余。
話は全然替わって。指定管理者制度の情報を見ようかとやくぺん先生うわの空を眺めていて、単線路面電車を発見。しかも新しい・・・ ヤン・シュバンクマイエル『アリス』を全部見たいと学生が言っていたな。不思議の国のアリスにまつわる表現を少し集めると面白いかも。まず、原作を読み直さなくちゃ。 京都芸術センター。京都コンテンポラリーダンス・ラボ12、ガラ・パフォーマンス。前の席の若い役者さんが、ぎりぎりにきて、途中で舟を漕ぎ出す。寝ていてもいい(寝ているかどうかいびきをしなけりゃ分からない)のだが、あまりにも動きすぎで(電車で座っているとこういう迷惑な若い女性の横に座って逃げ出したりするよな)、ここまで動いてもらうと、こちらも見るのはベテランといえど、かなり注意がそれるので「寝るのはいいでしょうけれど(まあ、同じ舞台に出ている者としてどうだか?とは思うけれど)、動きすぎは・・・」と言っておく。休憩後は動かずにほっとする。 納谷衣美×山下残「シビビビ」。このときばかりは、舟こぎ役者さんもちゃんとみていた。それほど、広い層にフィットしつつ、じつに不思議なシュールさをもたらしている。切り返しは鮮やかで、構成といい緻密でそれを感じさせないところが天性のおおらかさである。子どもっぽいようで、これはずっとやってほしい作品である。ますますのっぽさんは背が高くなり、ちっちゃいひとは小さくなったような錯覚がする。 セレノグラフィカ「それをすると(抜粋)」。ますます洗練されていて、動きは反復もおおいために、みんな知っているはずなのに、それがここに投げ出されると、すべて新しい。投げ出すといっても、その様はじつにそっとそっとではあるが。 砂連尾理+寺田みさこ「ユラフ(抜粋)」も懐かしい。この先がわたしにはよく見えなくなるのだなあと確認。 さて、モノクロームサーカスの中心の方は説明とかお上手で、作品自体をみないでおけば、こころ静かにいられるかも知れない。また、アウトリーチなども積極的でとてもいい活動をされていると思わせる技術があり、すごいのだろう。 |