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こぐれ日録 KOGURE Diary 2006.3 こぐれ日録477 3/20〜3/26
卒業したゼミ生が残していったサンテレビ(正月放送「シューベルティアーデたんば2005)の映像を見る。 狂言風オペラ、モーツァルト、フィガロの結婚。いずみホール。これから、25日の東京オペラシティまであと4回。明日は福岡シンフォニーホール、22日は札幌コンサートホール、24日に名古屋能楽堂。大変だ。 19時から2時間。満席に近い。茂山千之丞以下、茂山あきら、宗彦、茂、童司。歌がないのがとても爽やか。狂言の型がところどころに現われ、そのさっぱり感がモーツァルトにぴったし。 プロデューサー:白神克敏(Mヴォイシング)、舞台監督:關秀哉(M流)。 管楽八重奏にコントラバスの演奏。いずみホールなのでこれでも寂しくない。一人ひとりの演奏がよく聴こえて楽しい。せっかくの演奏中にまで狂言部分のアクションはなくてもいいかなとも思ったが、まあ、それも一興。ただ、声はちょっと響きすぎで耳障り。仕方がないけれども、能楽堂ではないので。歌舞伎系の小鼓が洋楽器に合わせる。まあ、これも一興か。あと、人形もあり。ゴージャスにしようとしているのだろうが、コストパフォーマンスとしてみたら、関係者が多すぎるようにも思う。 川柳もどきのビール感想。 ○ プチLOHAS独逸農家を飲みました 月豚
こちらは完全休暇。
10時半から非常勤講師のみなさんへのオリエンテーション。こういう丁寧な説明をするところは仏教大学など少数ではないかという話があった。お昼に懇親会。4月から来ていただく建築インテリアコース担当の先生も出席。夜の送別会のときも含めて、顔合わせとか、どんな感じなのかとか、ちょこちょこ話したりする。すーっと溶け込んでいただけるような感じがするが、ずいぶんそれぞれ大学風土というのは違うだろうから、事前に説明したり、質問できやすい雰囲気を作らなくちゃいけない。 あさ、大学へ行く途中、そういえば、大宅一里塚を見たことがなかったなあと思って、塚を覆う古い榎の枝を見上げる。隣の家?が工事中。ついでに甲ノ辻児童公園(子ども神輿が回るのでそこは行ったことがあったが)とか、大学生協が提供する寮、そして、大宅中学校のすぐそば、大宅奥山田という地名(京都橘大学は大宅山田)にある歓喜光寺をたずねる。時宗の道場。ここ山科の地に来たのは昭和50年のことだそうだが、地蔵の塚のような集合の具合とか、今日は閉められていたが本堂の佇まいとか、大学から5分ぐらいにとても素敵な空間があることに気づいて、しみじみ。 4月いっぱい、工事があって、今日入った門があいているが、通常はその本堂前の門は閉まっていて、いま工事をされているところの門から入るのだそうだ。住職さんが気安く説明していただいて、一遍上人と聞いても、踊念仏の一語のみしか連想しない私へも、どうぞ学生さんを連れてきてくださいと親切にしていただけて、嬉しい。浄土宗の大円寺はいつも通っているし、大宅寺は実はちゃんとまだ見ていないし、その他ご近所のお寺も時間があったら見て回ろうと思う。
宣伝やら子どもの声やら、どこが本編なのか分からないミッキーのアニメを見ていたつもりがうつらうつら。もちろん、当時のアメリカ的価値観の反映とか、大筋の話はできそうだし、いままでの反省として、学生の目線からはじめるアーツマネジメントという模索のはじまりだろうとは思う。 午後から肥後橋駅のそばの児玉画廊がかつてあった場所でお仕事。 あわてて、京都橘大学へ。
個人的にラスキンの固有価値というのが、本物はすごいのだという権威主義的な押し付けと錯覚しがちで敬遠していたが、それは、結局、「いまだ評価されていない価値」だってまわりにはいっぱいあるよ、とくに文化の分野にはね、という警告あるいは希望だったのだということだった。なるほど。あとは、これを政策手法とリンクすることだ。 まずいろいろ準備して明らかにすべきこと:市場メカニズムは効用アプローチ以外にも及ぶ有用な機構なのかどうか。政治マーケティングとしての選挙=投票モデルや文化マーケティングを拡張しても届かない部分、つまり、固有価値(=社会関係資本をベースとした文化的価値=人びとが効用として評価していなくても、その潜在能力が開花するのを待っているにふさわしい文化資源)の発見はどうあるべきなのか。 とりあえず、文化的価値の発見は、地域あるいはNPO的結社(公共圏または親密圏をベースとするコミュニティ)のガバナンスによるという仮説(つまり、「文化のまちそだて」の推進)の実践的な検証というふうにすすむだろう。アウトリーチは、潜在能力アプローチの政策実践の一つではあると位置づけていくことも大切だし。 森小路駅に降りると、4月から指定管理者として大阪芸術創造館を動かす小原さんに会う。 『ジンセイのスパイスにカンゲキ』第6回クラシック・ルネサンス。トリコ・Aプロデュース、夢魔、孤児の処置。今回も、さまざまな実験を「近代戯曲」という私にはまったく未知(ほとんどの演劇関係者にとっても未知な世界で、レトロというような懐かしさを感じられる人はごく少数であろう)なので、特に、「夢魔」はチラシに書いてあるあらすじを読まないと何がなんだかどんどん分からなくなっていく。 いや、分からなくしようという意思があって、その分からなさがこの戯曲だということを示しているのだろうとはようやく思える感じ。つまり、台詞がばらばらに複数の話者に分有され、役柄が混交するのである。だから、ここに至る(きっと完成というのがトリコの場合なかなか見つけずらい感じなのかも知れない)過程を知るともっと輻輳的に面白いはずだ。 それにしても、今回の舞台環境づくりは、うまくこの小屋を使っていたように思う。鉄格子の中にいたために、いつも役者は背後からくるので、それだけで怖い。後半の「虎児の処置」は前に見ていたので、異動が楽しめる分、不可解さは減少。うちの学生も出ていて、うちの学生だけ若くて下手くそだったら困るなあと思ったが、まず、とび蹴りとかバシっと楽しそうにしたのをみて安心。それからさきは、もうそういう身内観劇ではなく、自転車が回り、ダンス的な演出を楽しむ。最後に生唄。今回はこれがなかったらもうはちゃめちゃやん、という感じはまるでなく、あってよかったけれど、なくても十分に成立していた。
この演習で鑑賞してほしいものはいっぱいあるので、どれにしぼるのがいいのか、去年はたまたまファックジャパンさんが冒頭に一人芝居を披露してくれたので、一人芸という流れで、紙芝居や落語、講談、浪曲という感じでしたのだが。まあ、「シンデレラ」で、グリムとペローの民話、二つに基づく絵本の違いとその読み聞かせ、いま発注中の紙芝居で、絵本から紙芝居へ、そして、アニメという連続電子紙芝居も・・・という新しい流れは一部見えてはいるけれど。大きなテーマを14回の授業で作るのはなかなかにむずかしい。90分間でひとつちゃんとした公演をするつもりで臨む。これって、まあ、大変な覚悟だけれどもね。 さて、15時から、文化政策博士論文の発表会。 たとえば、行政の文化政策上の役割は、「聴くこと」だと私に気づかせてくれる。コーディネートするなんておこがましいじゃないの、何も見ても聞いてもいないし、まず第一に文化に対する享受能力って行政の人にあるの?なんていわれないためのアクセプタンス。これは、静かに耳を傾けることなのだ。新年度のうちの生協のキャッチフレーズ原案が「聴く生協」(変わるかも知れませんが)。専務もなかなか渋い。 夜は、学生たち主体の送別会。 こうゆうことをしていたので、「コンテンポラリーダンスin新世界」にはまたまた行けなかった。
もちろん常磐津節(その音楽)は、浄瑠璃であり語り物であるので、義太夫節、それもここ文楽劇場で拝聴する音楽と同じ系統である。でも、歌舞伎音楽として十八世紀半ばに江戸で開花したこと、それ以降の清元や新内ほどではないが、豪快さから繊細さ、小粋へと移行するちょうどまん中あたりの芸能であるために、江戸時代の芸能のスペクタクルをすべて含んでいるため、じつに興味深く他の芸能(といっても、少ない体験しかないけれど)と比較できるし、当日パンフが充実していたために、とても勉強になった。 常磐津綱男師歴三十周年のお披露目会であるから、私のような関係者以外の人は少ないのだろうし、最後にあって、聴けなかった『恨葛露濡衣〜道行から久八意見まで』が人間国宝の常磐津一巴太夫の出演(松廼羽衣でお声が聴けてよかった)だから、それはとても残念である。でも、お能(謡)を題材にした作品を聞かせてもらうと、能のお囃子と三味線とが合奏されていて、じつに重層的な音楽文化の積み上げとしての日本芸能の特色がよく見えて、じつに興味深いし、常磐津で知った演目から能楽や文楽、歌舞伎(歌舞伎系のさまざまなジャンル)、あるいは、もっと下って浪曲や講談へと行くという道筋もあるはずで、どうしたら若い人たちがこういう楽しい経験が出来るようになるかを真剣に考えなくちゃと思う。 さて、フジハラビル。ここに行く途中、上方落語の定席となる意気込みで建設中の繁盛亭の建築現場を見て(運営が大変でしょうと藤原さん)、天満宮に入ると、知り合いの舞踏家がいて、いまから『ラストデイト』(作・演出:岩崎正裕)を観るので、というと、彼は絶句していて、えっ、4月じゃなかったのですかという。とてもあつく濃厚な舞台が実際に演じられていてとてもよかったのだが、惜しむらくはチラシの書き方で、まず東京公演4/14,15,16とあって、それから大阪公演3/24,25,26,27とあるので、きっと、東京の次だとその人は勘違いしたのだろうと思う。 でも、まだ27日大阪公演と3/31,4/1の京都アートコンプレックス1928公演(これもフジハラビルのようにそのまま室内の閉ざされた濃さではないにしても、とおりの自動車音が深夜から夜明けまでの微妙な空気を作ったりするのは同じだし、なんとしてもレトロビルとぴったりだからお奨めである)があるので、ぜひぜひというところだ。 音が音楽になる前の速度、フィルターのない疾走感。そう、失踪した疾走温度。 戸川純が鈴木いずみ役、奇異保が安倍薫役。はじめ、奇異保のキャラが戸川純とでは優しすぎるのではと思ったが、時刻と時代設定の妙もあって、けっこう、拮抗していたように思った。また観ている人たちが普段関西で観劇する人たちよりも匂いが濃くて括弧よかったなあ(アンダーグラウンドぽいいでたち)。1時間15分ほど。でも、始まる前の映像と音楽もよく客席にいて客席ではなく何かのクラブにまぎれているような感じ。 |