こぐれ日録 KOGURE Diary 2006.5


こぐれ日録486 5/22〜5/28


5/22(月)


あさ、花粉症の漢方薬を飲まずに家を出る。お隣の小学生を連れた奥さんとプラットフォームで会話。花粉症の話しにどうしてもなってしまう。行きはくしゃみばかり。何度鼻をかんだか。

午前中、書くのを忘れた入試用パンフのためのアンケート(Moreにのせる)回答の後、アーツマネジメント総論の準備。

午後、授業。このあたりから、元気になってきた。この薬はきくのだが、どうも眠くなって、それを阻止しようとすると偏頭痛がする、ということがわかってきた。よく効くひとも多いのでいい薬なのだろうが、夜だけにすればいいのかも知れない。

ゼミは、恥ずかしながら、4回生のほうが3回生よりも多く、まあ、でもこんな日があってもいいよなと元気そのもの。大学院の授業も無事終わって、さて帰ることに。

面白かったのは、常識問題はまったくできなかったのだが、ある有名企業の面接で面白い話をどんどんしたら(タフ3の話しなど)、次のステップに進めた学生がいて、「非常識」も、「非常」を識るという意味でかっこいいのだし、「異常識」とか「超常識」とか言い換えてもいいよなという話になり、この前のエッセイ「日常口」を見せることになった。

ある学生いわく。こういうのを読むと、先生もちゃんと学者のような研究思索をしているように思えるから不思議だと。まあ、非常識なほめられ方をして、うれしいということにしておこう。

【あわててかいたアンケート】
質問1 先生ご自身の学生時代は、どんな学生でしたか?また、何に一番興味がありましたか?(100字以内)

1年生のときに肝炎になりつまらない大学生活開始。高校時代は詩人であり評論家であると自分を規定していたが、4年生のときにようやく恋をして公務員にでもなろうかと。詩だって公務員だったら書けるかもと思って。

質問2 今、最もおもしろいと感じておられる社会現象、もしくはマイブームは?(200字以内)

 はまっているのはゴリラ。ゴリラはじつに素敵なスローライフを送っていて、好物のジャイアントセロリを食べながら集団でハミングをする。さらに、7歳ぐらいになってヒトリゴリラになったオスは孤独をまぎらわすため、このハミングをするという。そして、ときには、民謡のようなメロディーが延々と数分続くらしい。アーツと楽しさ、遊びの関係を研究しているが、ゴリラの遊び文化はハンディをつけたりとてもユニークなのね。


5/23(火)


あさ、ゆっくりと甜茶をすする。
昨日作ったレジュメを近大用に題名だけ変えてはい印刷。
それから、手持ちの原稿を開けて、っと。
おお。なにやらこれは昨日作業をするまえのものではないか!
むむ。保存しなかったのでは????
ありゃ。まあ、今日は大丈夫だけど、昨日の午前中の2時間の作業は何だったか!
打ち出したものは研究室にあるので、それを見ながらもう一度入力だなあ。疲れる。
でも、これもまたよし。今日はCAP HOUSEから2005年度活動報告及び2006年度活動計画が届いているし、寄付税制のことをもっと詳しく知りたいという話もあったので、これを使おう。
前半のイベント論だって、けっこう、深みに入ると長くなるし。

近大は12名。ゆっくりとね。イベント論は去年後期で2回分ぐらい使ったから、これを0.7回ぐらいにするのは結構しんどかった。イベントのように日常的に使っている言葉を分析することはなかなかに面白いと感じてもらえたなとは思う。

アートシアターdB。3日間満員のダンス。新潟市芸術文化会館りゅーとぴあのレジデンスダンスカンパニーの公演。Noism06というのが名前かな。金森穣という振付家。なかなかに有名らしいが、後半、ほとんどバレエぽい4人の女性のところだけかろうじて目に入ったという程度。音が自分にはひどく古いし、一番自分にはいけないのは、しゃべりかた。新劇ぽいのとスコットぽいのが混じって、誰かの手記みたいのを繰り返すのだが、こういう振付家はきっと頭がかなり悪いのをカバーするために、思想とかをただ表面的に持ってくるのだろう。そうして頭の悪い評論家とかが喜ぶのだろうな。

帰り、コンビニで飲料水を買う。私は、その商品を出しながら、袋はいらないから・・といつも言う。ところが今日もそうだったが、袋はご入用ですか?と聞かれるのだ。今日はかなり大きな声で言ったし、その女の子も聞いていたから、これはマニュアルでとっさに出た言葉だったのは確実。

そこで、「はじめに言わないで、あなたのその言葉を待ってあげたらよかったねえ」というと、ずっとマニュアルの顔をしていたその子が、素顔に変わった。この変化は実に劇的でしかも何気ない発見だった。こうして、どこにでもステージは作れるので、あんまりわたしはこけおどしのような大げさな装置がいらなくなったのだから、いままで観劇させてもらったものに感謝しなけりゃなあと思うのである。


5/24(水)


1限目の基礎演習。
京都橘高校で教えている基礎的なレクチャーをここでしておく。
60分に限り、きちんとノートを即座に取れるかどうかもチェックした。
その結果。出来る学生がかなりいて、私の板書よりも綺麗!なんて思う。いつか、私の講義録が素敵な教科書みたいにならないかなあ、ソシュールみたいに、なんて。無理ね。

行きの電車で夏休みレポートの書き方とその発表の仕方を考えて、いま2回生の学生の意見も聞きつつ、ペーパーをつくり、学部教授会のあとの文化政策学科会(1回生分科会)で議論してもらう。
そのあと、学生用のペーパーを作って、メンバーに廻して最終チェックをしてもらうことに。


5/25(木)


花粉症がまったくなくなったとは言い切れないのだが、少しよくなる。
すると、どうだろう、ぐにゃぐにゃ踊ったり、おどけたりするいつもが戻ってくる。

朝、バスに乗りながら(アベック登校の二人とは目を合わせないようにしながら)、ゼミ選びのペーパーに、夏休みレポートなど大学で書いたレポートのなかで自信作を添付すること!というようにすると、いいのではないかということを思いつく。

2限目には、大塚児童館の館長さんや下田さん、そして、社会福祉協議会の宮崎さんが介助ボランティアの募集のために来てくれる。一人でも関心を持って電話をしてくれたらどんなにうれしいだろう。
今日のアーツマネジメント総論はイベント論だったので、それとの関係はつけられなかったが、4限目に下田さんがもう一度きてくれた自分探しの旅においては、ちょうど、うっとりとできる楽しいことがみつからなかったら、逆に苦しいこと、苦手なことをやってみるといいというところだったので、ボランティアが苦手な学生の心にちょっとでも届いたらうれしいのだが・・といまは思っている。

今日の自分探しはやっと個性は必要なしから、友達ってそんなに大切なものなの?へと移る。まず、マゾッホの話をして、20世紀少年のともだち教と友達民主党の関係、絶交の意味、そして村八分の意味(この前とてもうまく朗読してくれた学生は、火事と葬式は別ということを知っていた)。

友達は必要かということについて少し書いてもらったが、やっぱり、男子は、友達があんまりいないし、そんなに大切というようなものではなくて利用するものだというコメントが多く、女子はそういうコメントも結構あったが、そうではなく大切だという意見が6割ぐらいを占めていた。でも、結構、サバサバしているようで、これは、しりあがり寿さんの本の力もあるかも知れない。


5/26(金)


演習のあと、今日は高校に行かないので、再来週6/5に行ってもらえる絵本づくりワークショップの打ち合わせ。
高校の男子の作品を見せてもらって、とてもかわいくいい感じでびっくりした。
男子もかわいい!!

ぐずぐずしていて、東部文化会館に着くと事前の準備が終わっていた。山科の方々の写真クラブや俳句の同好会(4団体から短冊などが出展されている)、ちぎり絵、スケッチが展示されていて、子どもは大人やお年寄りとともにまちに在るということが実感できるように思う。少しはそれに聴衆も増えるのでは?ただし、うちの学生がここの場所を知らないので、それが心配。チラシには地図がなかったからなあ。

1限目のアーツ鑑賞演習は演劇ビデオのラッシュ。これで少しは演劇のイメージが出来ればいいのだが。そして、清流劇場『日向ぼっこ』のレポートが25通。力作ぞろいで、やっぱりいい作品を選んで、しかも田中さんに来てもらったかいがあったと思う。以下、少しだけの抄。

鑑賞した清流劇場『日向ぼっこ』についての一部の学生のレビューの抄録
(1)・・そうだったのかもしれないな、という曖昧な思いを、徐々にそうだろうという確実な思いにするまでには、鑑賞後少なくとも数日間の時間がかかった。庶民派であり感情の移入がしやすい舞台程、何かの新しい発見も今までの思考の中に埋もれてしまってなかなか気づきにくいものなのかもしれない。しかし、少しずつ気づいていくという時間をかける事によって、そうだったのか!というひらめきを感じられることも事実だ。ひとつの舞台からでも、一人ひとりの捕らえ方によって何を感じ、何を学んだか、というのは変わってくる。そこから、何を感じるかというのは紛れもなくその人の感性や、享受能力によるものであって、目の付け所が異なってくるのだ。何かを知る機会を与えられてくれるもの、私は演劇をそのようなものであると思っている。
 感じて、それを自分の中で消化し、これからの自分に少なからず影響を与えてくれる。ほんの数時間という短い時間でありながら、周囲と共に感じ体感することで得られるものは、私たちが日常的に吸収するものよりもはるかに密度が高い。また、いつもと違った見方をした成果もあるのだろうか、より深いところまで、偏った見方にとらわれず、鑑賞することが出来たように思えた。

(2)見終わってすぐは、扱われた問題をすべて思い出そうとして混乱したが、思い出すことが重要なのではなく、覚えていることを自分でどう考えるのかが重要なのだと思うようになった。また、場面によっては、複数の問題が含まれている場合もあり、その場面に表されている社会問題が何であるのか、人それぞれで捕らえ方が違うのではないかと思った。・・・・今回の作品を見て、アーツを鑑賞するということは、ただ見て楽しむだけでなく、その後、自分が何を考えるのか、そして、何を感じるのか、またそのことを通じて、社会にどう関わることにするのか考えることも大切なのだと感じることができた。
 草博と飛行船を見て、愛知万博を思い出した。飛行船での宣伝、キャラクターの名前がいかにも、な感じのところ、反対市民の運動が似ていたように思った。いま気づいたのだが、これも社会問題のひとつだったのだろうか。市民の憩いの場を壊し、草の博覧会を行うという設定は、市民の憩いの場と少しだとしても自然を壊しながら、自然の大切さを訴えた愛知万博に対する皮肉がこめられていたのだろうか。もしそうなら、いまでも余韻に浸っているという感じの愛知県の人にも見せたいと思った。どんな反応をするのだろうか。

(3)日向ぼっこをしているなかで、不意に出会う登場人物、出てくる度に繰り広げられる展開と会話。お弁当に入っているエビフライで例えられる人間模様。時には日本海側と太平洋側で例えられる光と影の存在。ホームレスとの会話で生まれる考え方のズレ。そんな会話を聞いている中で、本当の意味の「日向ぼっこ」の意味に気づいた。
 「日向ぼっこ」という言葉はただ単に「のんびり」「気持ちが良い」「癒し」「平和」といった明るい言葉ばかりが並べられたものではなく、日の光に例えられた明るい日々の暮らしで過ごしている者、日陰に例えられた暗い中での日々の暮らしを余儀なくして過ごしている者。その両者が織り成す日々の暮らし方や、互いの考え方の微妙なすれ違いのことを「日向ぼっこ」というのだ、と。その本当の意味に気づいたとき初めて、題名にこめられた思いを知ることが出来たと同時に、見る前から抱いていた自分の頭の中に並べられた「日向ぼっこ」の言葉たちは見事に消え去っていた。
 一歩間違えるとゴロゴロと転がってしまうのではないか、という不安を抱えながらの暮らしと、光が当たった場所でのびのびと暮らしているけれどいつその生活が変わるかはわからないという不安の残る今の時代背景。その光景を表現するために作られていた斜めの舞台は、この作品の中で、とても大きな意味を持った演出の一つだったように思う。
 「日向ぼっこ」を鑑賞したことで、自らが抱いていた「日向ぼっこ」のイメージは少しだけ変わった。ホームレスや日本海側・太平洋側といった表現で描かれた日の当たる場所での生活とそうでない生活との格差。そういった問題を捉えることで、今の日本の時代背景を違った角度から知ることが出来たし、「考える」という時間を作るきっかけにもなった。しかし、日が当たるとか、当たらないとかと関係なしに、「日向ぼっこ」という日常的な平和な時間の存在は、誰もがほしがるものであって、なくてはならないものでもあるように思う。作品のはじめに描かれていたような姿・・・家族が触れ合い、その時間で生まれる何気ない会話や笑顔、人が人として生きてゆく姿を大切にしたいからこそ、「日向ぼっこ」は存在するのではないかとも感じる。
 二つの意味から捉えられる「日向ぼっこ」」の存在は、どちらが正しくてどちらが間違っているかなど、結局は答えを出すことは難しく、理解しづらい部分も多くあるけれど、それぞれが何を意味し、何を語りかけているかを自分なりで想像することで、新しく発見できる楽しさをこの「日向ぼっこ」は教えてくれたのである。

ただ、2本だけ以下の(4)(5)ようなものもあり〜他学部生なのでほっとしたりもするが〜、さまざまな反応があってしかるべきだという思いと、文政のカリキュラムをまったくとらず、もちろんアーツマネジメント総論などをとらないで、この授業だけをとるというのは、ちょっと無謀ではないかという思いが交雑する。文政の学生で抽選に落ちた学生のことも考えるとまた複雑になるしなあ。

(4) 内容について、私は、正直に言うと面白くないと感じた。特に筋もなく、だらだらと人が出て入っていく、まとまりがない。各人の話を聞いて、それで終わり。何かしら結末らしきものをつけてはいるが、観客はそれでは満足しないと思う。だいたい、他の登場人物のうち、誰が抜けても話が成立するではないか。少なくとも、大阪人の私としては、「だから何やねん」とつっこみたくなる。私は、見ている途中で、疲れてきた。高校の文化祭と思うような場面などもあり、乳幼児の存在もあってもなくてもよかったと思われる。最後も突然すぎる。ホームレス保護のアンケート用紙に兄嫁が署名をするところで終わるのだが、わけがわからない。・・・・最終的に、新しいものというのはなかなか理解されにくいので「タニマチ」がバックアップするのだろう。あまり見ないジャンルの舞台だったので勉強にはなったが、自分から進んで以降行こうとは思わないだろう。

(5) ネタが嫌いだった。とても自然な演技であるせいで、まるで他人様の家庭を覗き見しているような居心地の悪さを感じた。また最近の親族状況と被って、息苦しくて目を背けたかった。全然非日常じゃなくて、気持ち悪かった。お金を払ってまで避け続けたい日常を強制直視させられるなんて。ストーリーが暗くなり始めたくらいに、隣の妹は寝ていた。
 私はああいうプータローは消えうせたらいいのにと思う。絶縁したいと思う。ああいう人生の逃げ方をする人間は、無意味だと思う。あとはあの性格や考え方も嫌いだ。甘ったれた幼い精神だと思う。必要以上に親の迷惑になるなんて、「大人」の一人としてあるまじきことだと思う。・・・次に見る機会があれば、自分とは無縁の現実の話がいい。そうすれば心ゆくまで楽しんで、考えることができると思う。

以上、学生のレポートの一部でした。


5/27(土)


朝、発作的に、岡林信康の「友よ」を自分探しの旅で流したくなって、それではあんまり唐突なので、数曲「友」の歌が入ったCDを捜す。でも、あんまりこれといったものがない。遠藤賢司「夢よ叫べ」「俺は勝つ」は、20世紀少年つながりもあっていいかも。あと、いじめ関係の歌として三浦久「それぞれの道」も一緒に流すことに(「カムサハムニダイ・スヒョン」も時間があれば・・)。そのあと、東部文化会館で宮崎さんからゆずに「友達の唄」というのがあると教えてもったので、これを入手しておこう。

第2回子どもの文化フォーラム〜川そぞろ、やましなの里あそび〜。うちの学生は169名の参加。第2部まできちんと残っていたのが53名。半数ぐらい残ってくれれば・・とは思うし、アンケートにも出席にすべきです、途中で帰った学生たちは・・というのもあるが、まあ、1回分振替ということであれば、仕方がないかも。出席カード(レスポンスペーパー)には、それなりにきちんと身近な自然としての川、それと子どもたちの遊び、文化について感想が書かれていたので、まずまず。

問題は、このなかの数人でも、ほたるネットワークとか、この前の関係では介助ボランティアとか、山科醍醐こどもの広場さんらの活動などに参加するか!ということで、可能性が高いかな、と思ったのはNPO法人いーわ山科さんで、イベント好きはまあうまくマッチングするかも。今年の1年生で歴史とかに男子が多く、文化政策とは違うところで地域の歴史として第1部を受け止めていたことが印象的。

AL・THE・CREWという約30名ほどのダンスグループが第2部では演技したのだが、その出始めとか、ゴリラやチンパンジー的な姿勢なので、ゴリラつながりで微笑ましい。大石囃子のみなさんはリハでは寂しい感じだったが、ちゃんと人が集まって、獅子舞とひょっとこが絡んでほのぼのと滑稽。最後にモルゲングランツ少年少女合唱団。少年がいないのは残念だが、白いスカートが清々しくて、なかなか。轟音のダンスのあとなので、一服の清涼感。でも「そうらん節」は、地声でないとうーんと思うよね。

神戸アートビレッジセンターへ。これはもっとみんな観るように強く言うべきだった。直前におならいごと的なアーツ(それはそれで地元のほのぼのとした文化なんですが)を見たせいもあって、自由な表現ってこうだよなあ、とこれまた脳内がすきっとした観劇だった。

KAVCチャレンジシアタージョイント公演《3 pieces》。神戸アートビレッジセンターの風は強くヒヤッとしている。

France_pan「Re:ビョーキ」作・演出(声だけ出演):伊藤拓。ビョーキな日本のサラリーマンやファーストフード店長、フリーター男やマグロ女たちへの返信という感じかな。
実験なのにエンタテインメントとしても両立していて、多くの先人たちの表現を学び、そしてきちんとオマージュしていて(「引用符」がある感じだ)しかも韜晦ではなく、さらに、役者一人ひとりがここでないと観られないと思わせるぐらいキャラ立ちしている。もちろん、フェミニズム論議的にも面白く(本條マキのマグロ談義)、弁慶立ちのサラリーマンは映画の一こまである。嶋尾明菜という役者さんは見たかどうか定かではないが、腹筋Vなど踊り的にも楽しい。

ウラボン「からくり湖」。二人組み。安心感はあるが、どうしても、あとの村上和司のRED MAN 2006もあるので、印象は薄れがち。宮沢賢治の「やずなし」だったか。フラムボンは笑っただったけ。そういう出だしのお月様にうつるほやほや〜とした映像をもっとダンスでみせてもらえるとよかったな。きっと、あまりにも忠実に舞踏的な言語に浸っているからなのかも知れない。もっと壊すかあるいはもっと惑溺ダンスドラッグびしゃびしゃなほど浸りつくすといいかも。幻覚と幻聴の雨にこそ舞踏はサバイバルするのかもねえとか偉そうなことを思いながら、でも「湖だよ、ここは」と思うとうっとりできるようにも思える。

村上和司のRED MAN 2006は、一言。あなたは偉いです。素敵です。いつまでも踊れる踊りである。90歳の赤い人を是非見たい。まず、還暦の赤い人が楽しみ。なんていって、私が生きているのか??


5/28(日)


10時に行こうと思って20分遅れ。今日も京都市立東部文化会館。すでに今日の子どもの文化フォーラムの準備が始まっていた。まず、大きな輪になって紹介しあっていたらしい。
わがTAM研紙芝居チーム4名は隣の公園で練習。公演にウーロン茶を届けてそのあと少年野球の練習をしばし見る。女の子が二人いて、一人は何とか流れをとぎらせずにキャッチボールの練習が出来ているのだが、もう一人がまったくキャッチングが出来ない。きっと、このままだと、彼女にとっては難しすぎて面白くないままで、上達はしないだろう。ここにも、身近なフロー理論で考えるサンプルがある。

なんでフロー理論モデルが気になるかというと、京都橘大学生がどうして、鑑賞する力を徐々に身に付けていくか。いままでそれで満足していたかも知れないような、薄められたミュージカルとかアニメとか流行り歌などが市場デマンドに対応してマーケティングされプロデュースされたものであることがわかるための耐性と視線の確保。その存在を客観視しつつ、自らはそれらから徐々に徐々に離陸して、アーツそのものへと向かう方策を考えているからなのだけれど。

無事、東部文化会館創造活動室での遊び体験も終わり、マイク無しでシンデレラ紙芝居を無事終わった4名の学生たちが帰る。紙芝居について前口上したりして何だか大学生みたいだ(おっと、失礼!)。メロディパイプを鳴らすという演出を彼女たち自身で考えたのだが、それがとても効果的で、この楽器はそのあとも子どもたち、そして大人たちにも大人気だった。

2時間、今年もむすび座の『西遊記〜天竺への道の巻』を見る。大きな紐を使ったりなかなかの芸達者たちの集団である。これほど学校めぐりとか親子劇場めぐりとかして一生を終える児童演劇という文化も歴史的なものになっているなあとそういう感慨もしつつ、またくしゃみがとまらない夕方の日曜日。マスクを取り出して八幡に帰る。少ししてKAVCから芳江から帰ってきて、金満里さんのアフタートークの様子を教えてもらう。


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