こぐれ日録 KOGURE Diary 2006.10


こぐれ日録505 10/2〜10/8


10/2(月)

4回生ゼミは、卒業研究の中間発表の日。
6名が無事発表終了。
けっこうつかれてしまい、出てくるとげっそりしているのが外部に分かるほど。
来週は休みなので、16日に残りの6名が発表する。

今日の6名のうち、4名が論文ではなく制作だった。
その4名を含めてかなりよく出来ていて、びっくりした。
やるなあ、って感じだった。だから、真剣に向かい合ったので疲れたのだ。

午前中とかそのあとはひたすらレジュメづくり。
アーツの扉は4つ以上あった「君が代」メロディーの行方論に行くかどうか。
まあ、来週だろう。ただ、筝曲の説明のなかで、宮城道雄編曲の君が代を聞かせたりはするだろう。
アーツマ各論はビジュアルを多用する予定なので、以下のようなゆるいレジュメである。

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2006年度後期 アーツマネジメント論(演劇・ダンス) (2)

3.限界芸術論〜「だれでもアーツ」の探索

だれでもアーツ=限界芸術を促進するために、先端芸術(とくにコミュニケーション型のもの)に投資するということが、公共的な芸術助成の根拠になっている(アーツマネジメント総論より)。
この限界芸術論そのものへと入っていこう、生活文化、とくに芸術と暮らしの縁、つまり、マージナルなところにあるアーツを探して(マージナル=さかい さかいに幸がある 山の縁 泉 岸辺・渚(浅瀬) 河口 暖流と寒流の交わり)

3-1. 例示1 なまはげ 〜劇としてのなまはげ訪問〜
参考文献 武光誠【「鬼と魔」で読む日本古代史】PHP文庫、2003
民俗行事(地域の祭)としての
なまはげを、演劇舞踊の限界芸術(だれでもアーツ)としてみてみる 
非専門家により提供され非専門家が享受する芸術を限界芸術と呼ぶ(鶴見俊輔)→冠婚葬祭
専門家でない人がなまはげになる 受け手の主人にワキ役性あり 
鬼としてのなまはげ(子どもにとって) 来訪神としてのなまはげ(主人)

秋田県男鹿(おが)地方の「なまはげ」
庶民の想像力が神や鬼を生み出してきた 神(正体を知っている人には) 鬼(正体を知らない人には)
さまざまな望みが、神や鬼に託される
いまのなまはげは、大晦日 でも、かつては小正月(1/15,1/16)。神さまが里にやってくるとき

なまはげの面 集落ごとにちがい(地域文化性) 本来は手作り →美術(工芸)領域の限界芸術
日本海域文化研究所編『ナマハゲ―その面と習俗』2004、秋田文化出版

由来 なもみ剥ぎ なもみ(いろりのそばで怠けてあたっていると火模様の斑ができるが、その火斑)

準備 家族は早めの食事、風呂に入って身体を清め正装してまつ
   神棚と床の間にはきちんと飾りつけ 玄関はしめなわをつけてあけておく 家の戸を開ける
   酒を付けた御膳 切り餅と御祝儀
   こども初嫁初婿を二階か物置部屋に隠す

なまはげ2人〜8人  最初にウォー奇声を発して入る
 戸を激しく叩き、タタミを強く踏み鳴らす
 家の中を見回して
「なぐこいねが、えればみみくど(泣く子はいねいか、いたら耳を食ってしまうぞ)」
「あぐだるこいねが、えればおやまさうれでえぐど(悪い子はいないか、いたらお山に連れていくぞ)」
 隠れている女性や子どもを捜して、家の中をあるきまわる。そのあいだに、怠け者はいないか、初嫁は働くか、初婿は親孝行しているかなどと大声で言う
 家の主人はなまはげの機嫌をとり、酒をすすめつつ
「おいねだばそやこいねず、いうごときぐんえごだ(私の家にそんな子はいません、言うことを聞く良い子です)」と唱える。返してくれと低姿勢。はじめなまはげ暴れる かれらがつけているわらが散る→そのわらでわら紐を作り、頭に巻いて健康祈願

なまはげは「自分は一年中、神社の大木の穴の中にいる」という。良くない子どもや初嫁、初婿がいればすぐにやってくると言って去っていく。
稲雄次『ナマハゲ 新版』民俗選書Vol.15 秋田文化出版 2005
来訪神崇拝(まれびとであれ、先祖神であれ、来訪して祝福し、それから帰ってゆく形式:日本人の神概念の基本の一つ):ナマハゲに類似している行事はアカマタ・クロマタ(八重山諸島)である。来訪神儀礼の原型に近いものがある
@ 異常なまでの仮面信仰がある
A 祭典そのものが現実なのか、常世なのかと、現実社会から超越させる
B 来訪神そのものを神聖不可侵とし、神聖さを強調する
C 秘儀性を徹底させる
D 祭典の保守主義 祭典日の日取り選びが、満月日とか水に因む日とかにこだわる

3-2. 例示2 祭り、行事
限界芸術のなかのハレ部分に、冠婚葬祭がある。ハレ⇔ケ
そのなかの「祭」の部分(狭義では法事などだが広義に解釈して)をナマハゲで見たので、それ以外も少し

◎ヨーロッパの祭り
遠藤紀勝『ヨーロッパの祭り―新年から大晦日まで』1986年、講談社文庫
「ふゆの祭り」(キリスト教がこの祭りに合体してクリスマスになる)の一つ ニコルスピーレン 悪魔のすがたは、ナマハゲみたい   ところが 
「こ(死霊)の仮面の神様たちは、子供の味方です。・・子供たちは松明を掲げて、深夜の村中を奇妙な唄を歌いながら行進しました。家々では死霊の代理人であるこの子供たちに、たくさんの贈り物をしなければなりませんでした。子供たちは靴下を枕元に下げて、神妙にサンタクロースのやってくるのを待つなんておとなしいことをしませんでした。自分で出かけていって、大人たちから贈り物を「強奪」する権利があったのです。そうやって、ヨーロッパの農村では、来るべき年の「富の増殖」を言祝ごうとしていました。」中沢新一『愛と経済のロゴス』p185 2003年、講談社

◎沖縄の祭り
比嘉政夫『沖縄の祭りと行事』1993年 沖縄文化社
ウイミ(折目)、シチビ(節日)=節句

◎京都の祭り
ひらのりょうこ 上村清治(写真)『京都十二ヶ月』1998年 山と渓流社

◎「室礼」入門
山本三千子『四季の行事のおもてなし』2002年、PHP研究所


10/3(火)

メールがダンスボックスの文さんからきて、
8日(日)のダンス100連発とかいうダンスづけ、こんだけダンスをみたら観る阿呆だってすごいんだぞ!という感じの企画</a>が13時から夜遅くまである(20:50終了と一応なっているが)ので、(当日パンフ用になるのだと思うけれど)言葉を寄せて欲しいという。

もちろんよろこんでさっそく書くが、400字しかないので、かつての踊りの玉手箱、トリイホールのことだけで終わってしまう。49組もでて、それぞれ、100字のメッセージを載せるということで、当日パンフづくりも大変だと思う。伊藤キムに最後はしげやん。素晴らしいラインアップである。

大阪成蹊大学芸術学部初日。
56名の登録で54名の出席。高校生並みの出席率である。
静かに聴いていただけたので、来週からもこの調子でいければありがたい。
行きしなに、ビッグイッシューが売っていたのでなにげなく買うと中身がコミュニケーションアートで、野村誠さんも大きく出ていてびっくり。さっそく最後のコーナーで紹介しておく。NO-MAにもかなり興味を持ってもらったようで、帰りのバスで、ぜひ行きますと男子学生がわざわざ席に来て言う。

梅田で時間つぶし。来年の手帳を買う。
アサヒビールの吹田工場へ。メイシアターに行くときにいつも見ていた工場で、一部レンガ造りの部分があったりするのが歴史を感じさせる。このあたり神社もあって立ち寄ったりする。最近、神社をよく観察するようになってきた。

ビッグビッグバンド。大阪アーツアポリアのみなさんがいて、お久しぶりとか挨拶。加藤種男さんもいる。インドネシアのアンクロンを中西美穂さんからもらってステージの隅にいさせてもらうことになる。ジョン・ゾーンのコブラをよく観ていたので、その演奏をこんなに多くで出来てとても楽しかった。


10/4(水)

基礎ゼミ。15名。
本を読む。小坂明子「あなた」を聞いたついでに、結婚式定番メロディーを吹く。
民謡音階になっているのが面白い。

校務日。モノローグになってしまう会議と会議のあいだに、

子守唄、とくに、守り子唄を歌っている。
ぜんぶ五木の子守唄のメロディになっているけれど、限界芸術の例示にとてもいいことが分かる。
レジュメを以下に(未定稿)
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3-3. 限界芸術論の例示3 日本の子守唄
参考書 赤坂憲雄『子守り唄の誕生』2006年、講談社学術文庫

◎ 限界芸術としての民謡の一つ
《柳田国男は、この種の大衆芸術(昭和初期に流行歌の専門作家が地方の有力者の要望によって作った擬似「民謡」)としての流行歌から限界芸術としての民謡を区別するために、「民謡」を、いくらさかのぼってしらべて見ても、作者名の分からぬものと定義した。そして、民謡の発生にさいしては、おそらく最初の歌い手と作者とは同一人物だったのであろうと推定している。》19p 鶴見俊輔『限界芸術論』1999年、ちくま学芸文庫
   
◎子守唄
子守唄は、わらべ唄(手まり唄、縄とび唄、鬼遊び唄)の一部とみなされていたが、そうではない
子守唄の種類:寝させ唄 遊ばせ唄 子守り娘(ネエヤ)の唄
◎ 守り子唄(子守り娘の唄):
仕事唄の一種(守りをしながら自分自身のために唄う:紡績工場に集まった女工の唄に近い)
子守りの少女(7,8歳から12,3歳まで)らの自己慰安のモノローグ 欧米にはないもの
 18世紀後半から文献にでて、近代(3500篇ほど1947年には収集されている)には子守唄の主流となる

◎ 守り子唄の特色
@七七七五(近世民謡調)
明治以降に新たに発生した民謡として柳田国男は守り子唄を1929年の「民謡の今と昔」に記述している:
「年頃というよりも少し前の少女を雇い入れて、その背に子供をくくり附けて外に出す習慣は、決してそう古くからのものでないらしいのだが、彼等はたちまち群をなし群の空気を作り、一朝にして百二百の守唄を作ってしまった。何人もいまだ子守唄の作者をもって任ずる者はなく、流行唄があってもその選択応用はすべて彼等の自主であったが、しかも号令もなくまた強制もなくしても、唄はことごとくすでに彼等の共有になっているのである。」
A自然発生的な集団創作
B身近な対象を描く:子守りの苦労、同輩や主人の批評(うわさ)、背の子の問題、周囲の自然や往来の人
Cトーナメントのように競い合って作られ唄われる
D数多く作られ、そのために駄作なども多く、残ったのはほんの一部のみ

◎ 守り子唄のサンプル
おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんど 盆が早よくりゃ 早よもどる
おどま勧進かんじん あん衆(し)たちゃよかし よか衆(し)ゃよか帯 よか着物(きもん)
きりょで一番 姿で二番 髪の結いよで 二十五番
山家(やまが) 山家と 下の人は言うけどよ きりょのよい花 山に咲くよ
山を越えこえ 使いに来たが 芋のひとつも くれはせぬ
子どん可愛いけりゃ 守りに餅食わせ 守りが転くれば 子もこくる
こん子よう泣く ヒバリかヒヨか 鳥じゃござらぬ 人の子よ
守が守せず 子に怪我させて 内へ帰れず 軒でねた
山でこわいのは イゲばら木ばら 里でこわいのは 守りの口
わしが死んでも 泣くものないが 山のからすと 親ばかり
人の守りこは 哀れなもんよ どこで死んでん 墓もなか
おどんが憎けりゃ 野山で殺せ 親にそのわけ 言うて殺せ
思いきれきれ あのやせ男 やぶれ行灯 骨ばかり
おどんが歌とたいば 二階から笑ろた うたじゃ飯ゃ食ぁん ゴゼじゃなし

◎ 門付けをして歩く人びと
 守り子唄には、精神的な紐帯を持って遭遇した「ナガレモン」「勧進」たちがいた
 山法師(やんぼし):ほら貝を吹き鳴らし、門付けをして銭を乞う
 托鉢僧 虚無僧 粟島さん(ご詠歌)
 三味線弾き 獅子舞(正月) 神さんの札売り(正月)
 ゴゼ
流れ行く人びと(山師、さんが) 民謡、芸能の伝播
 
◎守り子のその後
 嫁入り(十五でねえやは嫁にいき・・)
 紡績工場の女工
 遊女 芸者


10/5(木)

今日は、滋賀らしい文化芸術振興のあり方検討委員会の始めての会合ということもあり、
知事も挨拶され、一言こちらも何かいうことになるということだったので、ネクタイを締める。
そういう日に限って蒸す。

9時30分ジャストに、嘉田知事あいさつ。忙しいのでぴったりにはじまり、5分で退席。
就任以来2ヶ月と10日、あつい夏をすごしましたとのこと。生活文化と芸術文化のことに言及し、後者に力点があるが、じつはそれらをつなぐことが大事・・。アグリカルチャーもカルチャーだというお話もあり。

成安造形大学の木村学長が会長にまず選ばれ、木村会長が私を副会長に指名していただく。
じつはわたしだけ、このまえ研究室にわざわざ届けていただいていた書類を持ってこなかった。会長と私以外は、郵送で届いていたようで、みんなちゃんと持ってこられていて、また悪いことをした。

メンバーは、長浜の商工会議所会頭さんとか高島市長さんとかいろいろ。びぃめーるの方、公募委員もお二人。異色でしかも面白いなあと思った方は石山に400人が入るライブハウス、ユーストーンU-STONEを最近作って高校生のバンド大会とかをやっている人。川本勇委員。石山の駅前はいつも通っていたので、ほーっと思う。貸しスタジオが3部屋。

一回生ゼミの二人とバス内でしゃべりながら大学へ。この二人は東山青少年センターへ夕方行くのだそうだ。秋の「ヒガシガシ」の編集に、つづいて参加している。食堂では同じくゼミの学生たちが大学祭の手ぬぐいのガラについて相談。わたしもその中のどれかに投票せよという。みんな自発的でいい感じである。

4限目。アーツの扉の3回目。11/19の糸川一雄記念舞台芸術祭に向けての練習している映像をお借りしたので、それを見せてのスタート。明治時代には到着するかと思ったが、三味線音楽で終了。上野さんの「炊事節」はやはり人気である。去年もそうだったが、薩摩琵琶の音への驚きもあった。

チェラロンコン合奏団来日コンサートin綿業会館。大阪府の大阪楽座事業で選ばれたものの一つ。タイの音楽をこういう合奏団でちゃんと大阪で紹介されたのは、36年ぶり、つまり大阪万博以来だという。
船場アートカフェ主催。大阪市立大学都市研究ブラザ、中川真さんがタイの衣装で司会する(帰りに頼みたい案件あり、っておっしゃっていたなあ、なんだろう?)。

タイの音楽はCDで聴いていたのみで、こうしてタイの最高峰のチェラロンコン大学芸術学部の先生や院生の演奏で聴くと、そのバリエーションが特によく分かる。南北に長いので、地味な北タイの音楽から軽快な南タイの音楽を聴くはじまりで、その広がりが実感できる。仏教式の両手を合わせる挨拶だとか、優雅だけれど少しシャイな感じの踊りとか、そういうなかから、どうしてもタイといえば微笑みの国という印象は出てくるし、そういう先入イメージを覆すということではなかったけれども。

横笛を吹いている女性の吹き方に注目。口にくわえてほっぺまで笛の先端が入っているのだ。小さな縦笛の方が教授だろうなあとか、タイの人の丸い感じがやっぱり仏教ぽい。二胡系の楽器は素朴な味。

次は中部タイの音楽。ビーパート。タイ音楽というとわたしはこの音楽が一番連想される。木琴二つが華やかに演奏。木琴が船から飛び出しそうに叩かれて動いていて、楽器が命を吹き込まれている感じがする。硬いマレットの演奏が特にビビット(柔らかいものは心休まる)。西洋音階が出てきたなあと思ったら、1920年の作曲のものもあった。日本では篳篥ぐらいしか残っていないチェルメラ系の楽器が印象的で、じつはわたし、このへしゃげた音が大好きなので、もっともっと聴きたいなあと思う。韓楽器でもこの系の楽器が好き。

後半は東北タイの音楽で、休憩のあと、楽屋から音楽がはじまり、打楽器中心で場内を練り歩きしてもらったのがとても嬉しい出来事だった。東北タイの音楽でも庶民のものは、こういう形で演奏され聴かれていたことがよくわかる。きっと、結婚式やお葬式、そして毎年のお祭りがこの演奏ととともにあったのだろう。ステージのクライマックスは東北タイの宮廷の音楽。垂直にたてて演奏する木琴、ボンラーンが大活躍。演奏者が終わって腕を振っていた。かなり疲れるだろうと思う。どうして、たてなのか。やはり移動して演奏した名残なのか。

小さな寸劇も混じっていて、なんとその題は「ありの卵をつかまえる」というもの。日本のお神楽みたいだというのが一番近い説明かも知れない。でも、どうして、ありの卵が空中にあるの?それは、このありは樹木に巣を作るからで、この昆虫食は、類人猿、ゴリラなども蟻を食べるし、もともとサルは昆虫食からはじまったわけで、なかなかに深い話でもあるなあと帰りながら思った。


10/6(金)

寝ていて、こむらがえり。久しぶりなので、軽度だったが、びっくり。柔軟体操を怠っていたわい。
朝、一限目のアーツマ各論。30名。なまはげを演劇的に解説。まずまずかな。獅子舞との関連を指摘する学生数名。獅子舞もじつに気になってしまって、子守唄をとりあえず来週は扱うが、舞という言葉はどうしてもそそられるもの。

雨もあがって暑いぐらい。
京都橘高校の文化政策は二度目のフィールドワーク。
商店街を3つきちんと復習的に観察すること。そして、伏見を観光したいという人にどう案内するかというテーマで見てもらう。かっぱ資料館で英語のパンフをお願いしたがなかったと生徒が言っていた。積極的、能動的で感心する。

草臥れたので早く帰って、来週の高校における授業準備を簡単にした後、BS1にて中日広島戦を観戦。比較的ゆったりと終了。いい気持ちだったが、裏番組では太田光総理の番組をやっていてちらりとみたりもした。そのあと、あいのてのたわしバージョンを観られなかったので、録画したものを楽しむ。こする音は少し苦手だったが、たわしは大丈夫だった。


10/7(土)

フラダンス、一枚ください。
フラガールですね。お席をお選びください。
お任せで。では観やすい席にいたします。後ろに近いほうの真ん中で。
MOVIX京都。京都シネマで観たかったのだが、夕方しかやっていなかったので、12:35の回を見る。
紀伊国屋のビルの6階です。エスカレーターをあがりながら、フェスゲが新品だったときってこんな感じだったのだろうと思う。
座るとお隣は女性2名でお食事とおしゃべり。はじまってもなかなかおしゃべりが終わらない。別のお隣はビールとポップコーン。席を聞かれたとき、端とかでできるだけ隣に人が来ない可能性が高いところプリーズといえばよかった。

シネカノンをあとで調べて、すごいなあと思う。監督の李相日(りさんいる)も若くて、ミニシアター研究をしたい3回生の学生にシネカノンをチェックするようにアドバイスしようと思う。昭和40年、1965年、10年後に閉山する常磐炭鉱。まちおこしのために、ハワイアンセンターが出来るまで。その悶々。夕張炭鉱に移る家族のシーンは泣かずにはいられない。そして、夕張もまたそのあとに悲しい運命が待っていることを知っている私たちがいまここにある。

エンタテインメント映画としてはじつによく出来ていて、出だしのモノクロじゃないのに押さえた色彩とかボンネットバスとか実在の炭鉱住宅を使っているところとか、産炭地域を知るものにとっては、それだけで胸がつまる。踊りをメインにした映画としてもこれはなかなかのものではないだろうか。ここから、もっと「三池」のような自分で考える楽しみを持つ映画へと誘われたら最高であるが。120分があっという間。帰りにいわき市のシネマ観光パンフレットが置かれていた。

17時に打ち合わせるというので、それまで東野周辺をぶらぶら。川沿いの様子を見たり、鳥が水遊びをしている音を感じてそぞろ歩き。お東さん(東御坊、東本願寺山科別院)はよく知っていたが(山科青少年活動センターのそばなので)西本願寺山科別院にはじめて入る。野球ごっこを境内でやっているのをぼんやりと眺める。境内から、雅楽の練習の音が聴こえてくる。若い人がおトイレに出てきたので聴くと、去年入ったばかりで長岡京から練習に来ているとのこと。お寺と雅楽という関係もけっこう昔からあるのだろう。四天王寺とか、確か有名だったはず(いい加減な記憶ですが)。

めくるめく紙芝居ワークショップ。今日は、井上信太さん。明日は滋賀(さきら?)とか岐阜とかに行くとかで、車いっぱいのサファリ板。組み合わせて自分だけの面白い動物を作りあって、名づけ、性格なども想像(創造)していく。最後は照明を暗くして、暗闇迫るジャングルでのコンサートっていう感じだった。太陽クラブからは確か6名ほどの参加。倍増である。さきらの催しにひょっとしたら太陽クラブも参加するかも知れない。チラシをみて思わぬ展開。でも、太陽クラブのみなさん、忙しそうで、明日は六甲山に上ったりする人たちがいたり、ヨサコイを22日には踊ったり。太陽クラブのみなさんを中心としつつ、もう少しどうしたら広がることができるのかなあ。個人的には今日はアルムちゃんのおじいさんにはなれずに残念だったが、それはそれ。アンクルンを鳴らしながら、タイではアンクルンが3オクターブの大きなものになっていて、木曜日の日記にそれの演奏を聴いたことを書かなかったなあと気づいたりもした。アンクルンは、この秋、3回出合ったことになる。佐々木さんから一番演奏しやすい持ち方、揺らし方を教えてもらった。なるほど。


10/8(日)

ダンスボックスがはや10周年になり、フェスティバルゲート3階のArt Theater dBにて、ダンスサーカス100連発(実際は10歳若いヤザキタケシ映像入れて49連発)を堪能する。
若い人には、ギャグ系が手っ取り早いのか、流行なのか・・・(でも、ヴァンカラバッカとか好きなものもあったし、BISCOはいつまでもビスコであるし、村上和司は笑いダンスのくくりを自由に超えている)。

昔の流行歌で踊るのも簡単に8分程度ではまとめられるので、流行ってしまうのだろう。ぎゃくに、踊りの力の差がよく出てしまうので、見ているほうは比較がしやすいけれど、プログラムを作るという面からは考えさせられるかも知れない。食べ物使い、客席あしらい。客席あしらいでは、クルスタシアがダントツ。真後ろの照明さんから、乗って踊ってましたねえと言われるが、踊りを見るというのも、実は見る踊りそのものなので、手綱が切れるとどこまでも踊ってしまうのだ。

13時から22時まで。はじめの第1ラウンドでノックアウト寸前(朦朧状態)になったが、徐々に立ち直って、最後の第5ラウンドはびんびんだった。で、前の方に席を取ったぐらい。やっぱり、肉体の寸前でダンスは観るべきだと、松本芽紅見の腕を見てしみじみ。宮北裕美は、黒子さなえと一緒に踊ったのを見たのが初めてだったと思うが、彼女が黒子と対照的な神経症系動きでそれをちょっと思い出す。

伊藤キムさんとずっと客席で一緒だったのだが、かなり久しぶりなので、一緒に道後温泉に入ったこととか、両国のシアターカイやジャンジャンで見たことを思い出したりしていた。伊藤キムの即興は挨拶ぶくみ。さすがの知性、エンタテナー、そして踊りの緩急。ラスト、シゲヤンのご披露にびっくりしつつ、ミニシゲは大丈夫かなあとまたおじいちゃん的になってしまった。

ポポル・ヴフや伊藤愛のミニマムな抽象世界はずいぶんとレアになってしまっている。そのレアさをいつも支持してきた自分だったなあ。若井博人は、地唄?で高砂の舞。仕舞をやっていたので、それを少し時代を下らせていく趣向か。鎌田牧子の舞踏にはススキのにおい、今貂子の舞踏は直立する仁王像。

ちなみに、トリイホールにおけるダンスサーカスの第1回目は、1996年の8/19と8/26と9/9だが、それらを全部わたしは見ていて、その記録は、鈴木英生さんが編集してくれたCD-ROMに残っている。その後も皆勤に近かったかも知れない。

当日パンフ、というか、ミニ冊子がぎりぎり間に合ったみたいで、よかった。私の書いたもの(加藤種男さんと佐東範和さんにはさまれて載っている)を以下にあげておこう。
・・・・・・・・・・
舞踊寄席
40年ほど前のお正月、家族で寄席と新喜劇を見たぼんやりとした記憶。なんばのトリイホール前まで歩く道すがら。にぎやかだけれどいくぶん草臥れたまちがあった。大阪でダンスを見ること。道行きにもホールにも東京で舞踊鑑賞するのとは違うにおいがした。

おどり箱
1996年2月、自治省、財団法人地域創造から追放=左遷され関西蟄居。嬉しいことに同年おどりの箱の胎動をきく。そしてこの玉手箱の蓋を開けさすれば、大阪なんばへ行きさえすれば、見たこともないダンスが観られるようになった。こころの救いだった。

文化行政
いつしか、トリイホールで大阪市の職員さん二人の顔に出会うように。閉校された精華小学校と精華幼稚園。幼稚園講堂の小さくやさしい空間でのワークショップがいまも鮮やかに甦る。2階の幼稚園プール、雨にぬかるんだ校庭の巨大な椅子の影。そして、体育館での舞踏と音楽。
(そのさきはほかの人にゆずりつつ)
これからも未知なる世界がこの舞踊の玉手箱から出ますように!こころからお祈りします。

(小暮宣雄 地域芸術環境研究)


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