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こぐれ日録 KOGURE Diary 2007.8〜9 こぐれ日録552 2007年 8/27〜9/2
8/27(月) 土日、ずっと家にいたら、余計、体調が変になってしまって、頭痛が少しする。 大津駅に下りるとまだ30分以上も時間があったので、天孫神社をぶらついたあと、旧東海道を少し歩く。お東さんに、お西さん(看板にそう別文字で追加されているのが面白い)、地蔵さんに浄土宗のお寺もあって、旧道というのは、風情がある。知事の小さな事務所?の横を小さなキレイな川が流れていて、すぐ向うが県庁街とは思えない。 「滋賀らしい文化芸術振興のあり方検討委員会だ6回会議」。ようやく報告書が少し微調整はあるが、出来上がり、来月の10日あたりに知事へ提出できることになる。 そのあと、打ち上げ。呑み放題であんまりみなさん呑まないので、いつしか、あれこれ呑んでしまった。 雨かな。まあ、出かけるのはよそうかな。 テレビをずいぶん見た。CMでは、検索せよというものがとても多い。あと、変なダンスとかがあって、それが、ユーチューブなどでまた見せようとしたりしている。 支持率がすぐに上がるような妙案はないと、喉の癌手術をして8キロも細くなった与謝野馨官房長官の生い立ちが気になって、彼の自己紹介サイトなどを見ている。おばあさんは、彼が4歳のときになくなったのか。 高取正男・橋本峰雄『宗教以前』NHKブックス73、1968年。古い本だが、なかなか含蓄があり、かつ、柳田國男の『先祖の話』などについての批判は、ちょうど柳田説を読み終えたあとだったので、相対化でき有意義。たとえば、こんな部分をマーク: 《 古代日本人にとっても、祖先崇拝の宗教と神の宗教とが二本立てになっていたであろう。津田(左右吉:小暮注)氏は日本人の観念、神社の起源を自然崇拝にみようとしている―津田氏の解釈では、氏神は祖先が祭ったものであって、祖先である人を祭ったものではない―といえるが、むしろこれが日本の神道研究者の通説であって、柳田氏の祖霊説は独自の少数意見なのである。》p.166〜167 古代には、特に死穢の観念があるために、すぐにはタマはカミにはなれず、もし霊が浄化されても、そこから人間の救済者としての神となるというためには、ずいぶんと飛躍がいるというのである。 あと、京都市右京区の西院が「さい」であったこと。つまり、この世とあの世の境である賽の河原の「賽」だという部分とか、いろいろなところを蛍光ペンで黄色にして読んだ。 午前中、購入していた小津安二郎『宗方姉妹』(1950年、112分)を観る。ずいぶん前にBSで観たがもう一度観て、かなり激しい感情が出ている作品だったことを想い出す。雨が降るし、暴力(平手撃ちなどは結構他の小津作品にもあるが)的、破滅的な部分がぐさりと残る。 頭がぼーとしたまま、名古屋に着く。中途半端な時間に着きどうしようかと思ったが、ふと、あおなみ線という見慣れない路線を見つけたので、終点まで乗って、メッセ会場とか結婚式場(古いヨーロッパのお家風?)などを見る。途中、自動車が輸出されるのだろうか、船が面白い形をして泊まっていた。 栄駅に降りてびっくり。愛知芸術文化センターに行くのは6年ぶりぐらいだからだろうか、NHKが出来ていてオアシス21というところからそのまま地下二階にいけてしまうのだ。 愛知県の国際芸術祭構想というのは、「2010年の初回開催をめざして、あいち発の文化芸術を世界・未来に向けて発信する」というもので、「発信」が特にイベントなので強調されている。つまり、愛知はとても豊かであんまり他の地域に売り込んだり有名になったりしなくてもいいという風土なのだが、万博をやってみたら、市民活動が予想以上に盛んで連帯感とか達成感も生まれたと観ていて、何かイベントをすることを県民のみなさんは期待しているだろうというのが、県庁の考えのようだ。話をいっぱい聞いておき、基本構想は委員会などはどうも作らないで、愛知県県民生活部文化芸術課が中心となって作るということらしい。 今日は、「国際芸術祭基本構想検討調査ワークショップ」の一つ「ワークショップ6 祝祭的なアートフェスティバルのあり方〜地域が支える国際芸術祭の祝祭的展開やNPO・ボランティアとの連携・協働〜」のコーディネーターをするので来たのだが、いろいろお話を聞いて、愛知県のことが少し分かった部分もあってなかなかに面白かった。商店街の方がたの音楽祭や文化イベントのことを直接聞くことも最近なかったし。 そのまま帰ろうかと思っていたのだが、札幌からコンカリーニョの斉藤ちずさんも来ていて、ちょっとだけ食事しようと思ったら、そのままずるずる。ネットカフェ難民になろうと思ったが、ビジネスホテルを急きょ取ってもらって泊まる。 朝帰り。 夜、アトリエ劇研に行こうと思っていたが、どうも体が動かない。 昨日読んだ本。竹内宏『とげぬき地蔵商店街の経済学〜「シニア攻略」12の法則』日経ビジネス人文庫、2005年。もう商店街振興は縁日、お祭、占いなど、神仏信仰までいかなくてもスピリチュアル系の演出しかないかも知れないなあと思う。 28日からもう2学期が始まっている京都橘高校に行く。全員出席。職員室ももちろん授業モード。 少しだけ、伏見奉行所跡とか鳥羽伏見の戦い弾痕あとなどをチェックして、戻る。 夜、エリック・ロメール『愛の昼下がり』1972年、98分。 久しぶりに気持ちがいい一日だった。疲れはあるけれど。 そのあと、高校の図書委員に頼まれた原稿書きとかメール整理とか。新潟県のツマリの関係でまちの公務員の知らない方から、芸術の公共性についての質問メールが届いていて、それに答えるためには、一冊ぐらいの本が書けるようなものだったので、真意を知るために電話しようと思ったが、また、今度にしようと思っている。 そして、山科青少年活動センターへ(タクシーに乗るといい疲労感)。 今日は、動きにはあえて参加しないでひたすら吹くことをしていた。 井出上さんが、この第2期は、何とかしようとか思わなくてもかってにみんながそうやっていくのですよという。わたしなど、今日はずっと自分の音だしばかり楽しんでいたし、それは、一人研究室にいては到底思いつかないようなもので、たとえば、小学校のときプールに入って同じ方向にぐるぐる回っていると、すごい流れになって、泳げなかった子も気づくと、ふわふわ泳いでいるような、そんな感じかも知れない。 少しずつ、霞がかった気持ちが晴れてくるような。 ダンスカンパニー・セレノグラフィカ『待たない人〜樹下の双魚』。15時すぎから16時23分まで。ユニバーサル版としてこのアイホールでは展開されていて、一般的なプロセアム空間向けに作られたもの。ステージと客席が対面しているので、バレエやミュージカルなどのダンスをただ観客は座って鑑賞するというスタティックなものになりがちなバージョン。そのためかどうか、最後は観客も巻き込まれていくなかなかに冒険的で開放的な終結部を持っていた。 終結部はセレノに続いてこれからの活躍が期待されているy-yakk79(塚原悠也、垣尾優とのcontact Gonzoを見なくちゃ)が、出鱈目な(ルールが明らかでない、あるいは恣意的な)サッカー舞台ゲームを仕切るもので、これがセレノの次の展開かどうかは分からないが未知数なものだけに、これからが楽しみになる。審判のy-yakk79だけが足を使って、プレーヤーが手を使うというアイディアにも、何らかの知的批評精神は出ている。 ただ、靴を両手につけてミットにするサッカー?ゲームになるまでも、y-yakk79は、後半はダンスに混じってしまって、いままでの同じ作品を微妙に動かしつつ、でも基本は変わらずにして、ここを見たときは、お能のワキみたいな役割かしらと思っていた。 休憩までの前半あたりでは、y-yakk79は、ただ岩村原太の照明と装置を動かしたり(これはダンスボックスでよく見かける風景であった)、隅地と阿比留のいでたちがやっぱりダンス衣装だと思わせるような普段着で出てきて携帯電話を眺める仕草によって、異化的な効果をもたらしたりはしていたが、それほどセレノの舞台に介入してこなかったので、そのじわじわと侵入していく割合が増えるところが結構見ていてスリルがあった。 光は重要だが変化は少ない。窓の開け閉め。後半は暗転が数度。音は、ダンス自体の動き、衣装を手で擦ったり床に擦れる音がたまにあり、あと、y-yakk79が、響く鐘を数回鳴らしてアクセントをつける。一つの振りで、隅地の声が発せられるのだが、それはとても印象的なポイントとなっている。 舞踊の現在性を知っていただくのにとてもいい舞台だったと自分は思っているが、このセレノグラフィカのステージに初めて出会ったお客さんもいらしたかも知れない。まず、音楽がないことに新鮮な驚きを感じたのではないかと思う。つぎに、バレエとかお能とか歌舞伎とかミュージカルダンスとかジャズダンスとかヒップホップダンスとか、何か普段の自分たちの身体では出来ないもの、アクロバットなもの、よく訓練されて揃っている、速い、あるいは、信じられないほど遅い・・・という技巧としてのダンスシーンが起きるのかと思うと、どうも、そうではない。 よくある身体動作がスナップされていて、同じ年齢の人ならだいたいできるような、そういうものではないかしら、では、どうして、卓越した技術とか超越的な美や眩暈のような動きとかではなく、そういう何気ない仕草の組み合わせのようなものを、いま、こうしてダンスとして、実演芸術の一つとして提示するのだろうかしらと思われたかも知れない。 つまり、ここでは、何が創られているのか、と。 まず、もう少し、いま創られている現在進行形の舞踊を見て比べて自分なりの見方を作るのが王道です、と言うほかないかも知れない。たとえば、セレノグラフィカだけを追うのも実はいいかも知れなくて、西陣のファクトリーガーデンで創られ踊られたものとプロセアム空間での公演と比較するだけで、鑑賞する多様なあり方が感じられると思う。 つまり、自分の鑑賞したその特定の場所はここであって、同じ自分でも違う場所からそれを鑑賞したら違ったかも知れず、公演ごとに創造されたダンスが違うということと同じく、観賞場所、鑑賞者のひとつひとつに固有の経験が刻まれて、それは代替不可能である。時と場所に刻印された鑑賞点をつないでダンス鑑賞経験を自分流に構築する楽しみ。それが、ダンスをつくり、ダンスをプロデュースする人たちを応援することであるとともに、自分の不確かな場所を揺れ動く身体との出会いによって、確実にするのではないか、ということがいえるのかも知れない。 抽象的すぎるので、比ゆ的に言い直すと、京のおばんさい料理のような楽しみ方がセレノグラフィカのダンスにはあると見終わって思った。つまり、喩えていえば、素材の新鮮さとか珍しさというよりも、丁寧な仕上がりに価値があるおばんさいコース料理のようなのだ。 普段着のようで、実は、無理なくでもこだわったレイアウト、分量、計算された物足りなさ。さっぱり感の低カロリー。自分たちが普段使っている食材とあんまり変わらないのに、どこかが違うと思わせる京の見えない魔力。でも、それは、着実な精進とか日常のなかの繊細な立ち振る舞いのしつけから出てきたものだったりする。 なお、表現を抑え技巧を控えた世界、見る方には物足りないと感じさせるというのは、否定的ではあるが、隙間とか、想像力の余地を残すという意味ではプラスにもなりうるもの。 もちろん、禅寺のお庭との比ゆも考えてみたが、お庭を武満徹さんのように音楽のインスピレーションにしたという話からお庭に興味を持ち出したばかりなので、お庭を鑑賞することとダンスを鑑賞することをどのように相互作用的に高めて楽しみとできるのか、今後の自分の課題にしようと思う。 夜は、『飛ぶ教室』(2003年、ドイツ映画、114分、トミー・ヴィカット監督)を観る。原作のケストナー文学を読むようなどきどき感は少なかったが、それほど悪いものではない。ハリウッド的な娯楽要素とかラップとかが中途半端に入っているのが、いまのドイツの風景として見てとれる。 |