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こぐれ日録 KOGURE Diary 2007.8 こぐれ日録549 2007年 8/6〜8/12 8/6(月) この前、NHKの午後9時からのニュースに音楽がなくてやたらさびしいという人がいて、変なの!と思っていた。いま読んでいる武満徹のエッセイには、10年以上前についてだが、ニュースに音楽をつけるのを禁止している所があるのに、日本ではうるさいし、音楽で情緒化されて公正さがゆがめられるという趣旨のことが書かれていて、ほっとする。 以下、武満徹『時間の園丁』「テレビと感性の鈍磨」p35〜7より 「しかもその音楽の効果は事実の重みを消してしまい」、「見る側の反応を一様にしてしまいはしないかと、不安になる。視聴者のそれぞれの判断が及ぶ前(さき)に、すでに解答は用意されているのだ。それは正しい報道の在り方だろうか?」。 「ニュースの背景にまで音楽を流す必要などない、と思う。それも一種の情報操作で、そのことは、私に、かつてナチズムが音楽を巧みに利用したことを想い出させる。因に、アメリカでは、報道番組の背景に音楽を流すことは禁止されているようだ。」 大学へ行く: 午後から、京都府の方々が来られて、明日の会議とか、国文祭とか、あれこれ相談。 そうそう、こういう制度を教えてもらった。「京都府地域力再生プロジェクト支援事業交付金」http://www.pref.kyoto.jp/chiikiryoku/1181010434252.html 2次募集もあって、京都市内は1/3だけれど、NPO的な活動が支援されるので、このブログを読んでいる方で京都府内で文化活動をされている方々は一度検討する価値のある制度。
テレビニュースの背景などにどれだけ音楽がついているのかと耳を澄ます。 はじめは、絵本づくりだったようだ。直接出会い伝えるということで、紙芝居にしたという。紙芝居の周りにこどもたちが輪になる。その近づき集中するところがステキだ。お寺でも行われていて、ここにもぴったりである。調べると、長崎にも広島にも被爆体験を伝える紙芝居がある(被爆アオギリ:福山市立女子短大。「15トンの薬と150時間」など)。 長崎のニュースを観ていて、紙芝居には枠があったほうがいいよなあと思う。 午後、京都府のお仕事。司会業なり。去年集まってもう1年以上すぎた文化ベンチャーネットワークの連絡会。うーん、寝不足だったが、何とか時間通りに終わったし、まあ、よかったかな。小原啓渡さんの話を久しぶりに聴けて、個人的にはいろいろ勉強になった。 今年の夏はなんとか冷房なしで過ごせそうだ。一番問題の睡眠不足も、早寝と、扇風機をゆるく使うことでなんとか。 子どもと偕成社文庫(古典シリーズ)3255『飛ぶ教室』、2005年7月初版第一刷。エーリヒ・ケストナー作、若松宣子訳。訳者は高橋健二氏と山口四郎氏の先訳を参照したという。 すると、読み出してすぐ、もう涙が溜まってきて。なんだろう、この感じ。ずいぶん昔感じたなあ。ナルニア国物語を読み出した感触とは違うし・・・眠っているものを動かして、映像がどんどん浮かぶテンポのよさ。説教くさい感じを大昔の自分はケストナーの作品にじつは感じてしまって敬遠していたのが嘘のように思っていると朝食が待っていた。子どもが描いた絵をずっと見ている両親の描写は、子どもだった自分はまるで他人事だったのかも知れない。いまはそれも懐かしい記憶になっていて、名作、古典の価値がこうやって感じられるのだなあという典型。 そのあと、劇団、本谷有希子『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(再演、2004年、青山円形劇場)の映像を見る。DVDでこうしてでるのだから、松尾スズキ系といういまのトレンドだろうからだけれど、ずいぶんと早い人気である。さいきん、映画と演劇と小説とマンガとゲームとのミックス関係に興味が出てきていて、台詞が聞き取りにくいのが残念だったが(途中からヘッドフォンで聞いて大丈夫になった:蝉とトラックが煩いからね)、出演者の映画との違い(妹に関心を持つストーカーが演劇では出てきていた)とか、兄嫁が結構主体的で姉と拮抗しているなあとか、それなりに楽しむ。本谷自身も登場。 大阪谷町4丁目、山本能楽堂へ。ここで昔ダンスを見たことはあったが、お能は見たことがなかったかも。こどもワークショップ。参加費無料。大人気で長い列。 主催は、現代美術家による能案内/NPO法人大阪アーツアポリア。それゆえ、現代美術家の池田朗子による工作がずいぶん事前の準備をしていたようで、リーダーたちのキツネもかわいく、ハサミの安全チェックとか気遣いも丁寧。はじまりは少し押したが、終わりはぴたり。余裕を見てワークショップが構成されている。 2階で観ていたのだが、囃子のとき、ずっとしゃべり続けるお母さんが二人、三人いて、この人たちは、最後の半能のときも、けらけらやっていた。大声で聞こえてしまう話の中身は、親が買った100万以上の箪笥ってもったいないけれど無駄であるとか、だいたいお金と家具のこと、塾の悪口などなど。子どもたちは自分たちで謡い太鼓も打ち、そして、シテのキツネさんの「戴物(いただきもの)」をめいめい楽しくテープなどで飾って頭に戴いていたから、ずっと真剣で、囃子のあしらいが聴こえるだけで、シーンとなる。未来は子どもにあるね。腐ってしまったお母さんとかに汚されないで!と祈りつつ、帰る。 明日の引越し祝いに翁で水菓子。 近江八幡市へ。 3日から始まっていた『生きものバンザイ!』を観る。 帰り、引越し先によって、そのあと夕食。感じのいいお店だった。綴とかいう和食屋さん。 この1週間あまり、オフなのかオンなのか、中途半端な状態が続く。 国柱会と宮沢賢治のことが前からずっと気になっていて(『春と修羅』詩集にも、突然「(ナモサダルマフンダリカスートラ)=妙法蓮華経」とか出てくるし)、もちろん創価学会と柳田國男の関係とかのこともあり。でも、日蓮宗にはどうもなじめなくて(寛容という言葉の対極にある感じがあって)、最近になって祇園祭(御霊会)のことをちょっと調べて、ようやく気になりだす。もうすぐ、「妙」「法」も大文字焼されるしね。 午後は、京都府のお仕事。会議。 B)では、NO-MAの公募や大阪楽座事業を参照してはなし、D)ではこのまえのNPO法人大阪アーツアポリアが入ったことでお能の鑑賞ワークショップが飛躍的に面白くなったことを例にする。 帰り、『(世界遺産)ナスカ展〜地上絵の創造者たち』を京都文化博物館で見る(8/4〜9/24)。毎日新聞社。去年すでに東京(国立科学博物館)でやっていたそうだ(http://shijimi.cocolog-nifty.com/blog/2006/05/2_f0a1.html)。ただぼんやり行っただけなのに、ずいぶんと見入ってしまって17時からの映画『大阪物語』にはぜんぜん間に合わなかった。いやあ、はじめの陶器など(太鼓も面白い)の図柄はまるでキース・ヘリングとかのグラフィティでしかもアウトサイダーアートと同じ水脈であって、楽しすぎる。 でも、一方で、葬送研究にぴったりの展示でもあって、死者と正者の一体感が伝わってくる。ミイラや頭蓋骨、トロフィー(首級:つまり、勇者の印としての敵方の武者の首の数)と壷や布とが共通していて、えげつないようにはまるで思えない。地上絵、ジオグリフは、どうしていままで残っていたのかなあ(雨が降らなかったから?それにしてもシンプルだけにすごいアーツで、有力説として、この線をたどって宗教行事をしていたというから感激である)。そして、20世紀に再発見されてから、車の轍などで保存が危なくなるアイロニー。楽器やシャーマンの演奏姿などが画像として残っている。ジオグリフをたどりながら、松明も持ったりして、どんな音楽や祈るダンスをしたのだろうなあ。 これからしばし、かんぜんオフ。 「いとこ会」。お葬式や法事だけではなく、たまには親戚が気楽に集まろうと、従兄弟の数人が発起していただいた集まり。お袋は、7人兄弟で、その子どもたち(つまり従兄弟たち)が、14名いるのだった。もちろん、叔父叔母(連れ合い)も、従兄弟の子どもも来て賑やか。宴会で家系図を描いてもらう。夜は、10名ほどでカラオケ。 あさ、石切さん(名前はよく聞いていたが自分が行ったことがあったのかどうか記憶になく、たぶんなかったように思う)、石切劔箭(いしきりつるぎや)神社を観に行く。このあたり、神社やお寺が多いく、気持ちのいい朝だなあと散歩気分でいると、新世界の界隈を思い出す参道に出て、びっくり。巣鴨のお地蔵さんの通りも思い出すがもっとコテコテしつつ昭和の錆加減もあって。 占い館というか、長屋というか、ボックスというか。あと、仲人協会だとか、神道系の新興宗教団体とか、あれこれ。大仏も不動明王も牛も新馬も何もかもが歴史や由緒ということなどお構いなしに増殖するエネルギー磁界である。 6時ぐらいに歩いたのでまだ参道のお店はほとんど閉まっていたが、おこわが出来ていたり、あんころ餅がもう売られたりしている。神社ではお百度まいりを10名ほどでしている。白い紙縒りを手に持ちながら。 キッチュな観察をするには、もってこいの場所だろうが、ここを親戚の子どもたちに案内するのは、時間もないし、お参りよりも帰りの参道の世界しか記憶に残りそうにないし、しずかな、上之宮の方も行ってみる。こちらでも、お百度を2名ほどしていたし、近くには、狛犬がペガサス化しているものとかもあったが、爪切地蔵とかいう大きな石に地蔵を線刻した素朴な祠もあって、こちらに案内することにする。 朝食後、遠足。ここで気づいたのは、ピンクの亀の小さな人形は、願い事がかなったということで(お腹に紙で書いているのだそうだ)いっぱい置かれていたこと。滝もあったが、水は少ない。滝行をする人ももっと生駒の山中にはいるのだそうだが。 |