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こぐれ日録 KOGURE Diary 2007.1 こぐれ日録523 2007 2/5〜2/11
2/10(土)12時半から30分。たぶん、このぴぴっと大阪とかいう番組だろうと思う。NPOを取り上げる番組ということだから。一人の参加者としてわたしもインタビューされたので、ひょっとしたら出るかも? 13時から17時まで卒業研究の発表会(口頭試問)。
夕方、エリック・ロメール監督の初期の作品を観る。白黒、16mm。「六つの教訓物語」第一話と第二話、それらとおまけの短編2本。おまけも貴重なもの。 読み終えていた本。
それでもどうして分かるかというと、芸術監督の林加奈さんと経営監督(アーツマネジメントディレクター)の井手上春香さんがすばやく日記をアップしてくれているからだ。 展覧会でのワークショップなど、まるで予想できなかったもので(妄想会は去年経験していたのでそうなるかと思っていたが)、太陽クラブさんとの付き合いがより深まった証拠でうれしい。 ということで、こちらは、お昼に組合の直前会議。
大学に着いたのはお昼。いま小林先生の「芸術と癒し」の集中講義が行われているとのこと。だから、わたしの知っている顔が多いのだ。学生がハンコくださいと来たり、謝恩会のお金を徴収に来たり(去年まで払ったかなあ?)、単位があぶない、どうしようとゼミ生が来たり(これは、O先生にとてもお世話になり、危機一髪が解除された。O先生、そしてその師匠のK先生に大感謝)。S先生と卒業式のことで打ち合わせをしたり、A先生が大学院生のことを聞きに来たり。 そのあと、林さんと井手上さんと3人でスカイプ(Skype)鼎談。安物を買ったからだろうか、マイクの反応がいまいちだったらしいが、これは確かに重宝だ。「町」という漢字は、もともと田んぼにくいを打って区切ったという起源を調べたりする。「街」よりも牧歌的なイメージがするのはそのせいだろう。 さて、東淀川、劇団態変の拠点、メタモルホールへ。19時と思って、早く着きすぎたので、東三国駅までつづく商店街をぶらぶら。さびしそうでそうでもない通り。 劇団態変『記憶の森―塵魔王と精霊たち』作・演出:金満里。19時半すぎから20:47(そのあとにいつものように挨拶、役者紹介のあと踊りながら、はけていくアンコールがある)。 目の前の態変の役者4名の生の姿を拝見して大満足。すがすがしいまでにシンプル。諦観ではなく、笑い飛ばすこの世の悪、偽善、迷走。迫力と愛情があふれた舞台だった。コミカルでシュール、アルカイック。狂言などの起源である中世喜劇(愚者の祭りとしてのカーニバル、宮中の道化劇、コメディア・デラルテなど、不条理を不条理のまま提示するコメディの流れは欧州はじめ世界中にある)はこんな感じだったかも知れない。 たった20名の定員だが、12日までの公演、まだ余裕があるとのこと。チケットは、06-6320-0344まで。 極小のスペースで、極大の世界が展開する。世界はジャングルである。極度の温暖化?草木の伸びるスピードは速まり、植物が魔物のようにうごめく。金満里の塵魔王の表情と動きは、色悪の歌舞伎役者のように強く凝視・デフォルメされて、指の先端で見得を切る。滑らかな身体の袋を回転させるのは、彼女の身体だからこそのものだが、そこには強い意志と暗い情念があるからでもある。黒い暗部から沸き立つ頭髪。 善の精霊たちははじめ白く弱弱しい。雲母(福森慶之介)とサンゴ(小泉ゆうすけ)とバナナ(山崎ゆき)。だが、精霊たちは化けることが出来るのだ。おお。おいらん、白雪姫、毒リンゴ魔女、死体嗜好王子。福森の肢体は森深から来たたましいのようであり、小泉は足を交差し不安定であることのバランスに賭けている(客席への侵略と交通・交歓はいつものように即興的である)。これから成長が期待されているのだろう山崎が、「化ける」ときに本当に大化けで、びっくりし、大いに笑った。でも、この樵はシンプルなようで、環境破壊ということでは、一筋縄ではいられないところが、味噌。それに、斧は悪の武器にもなったわけだし、じっさい。 両側面のジャングルの映像が、奥の正面にはなかったのは、意図されているものなのだろうし、もし三面映像だったら、テーマパーク館のようになってしまうからだろうが、少し見づらいかなとも思った。たとえば、態変のステージではもっとも重要な床と身体との接点(そこのアフォーダンスという可能性が潜んでいるのだが)を、いかに見せるのか。今回のように少ない観客の場合は、とても身近で大迫力となるのだが、大きなホールになるとそこが一番の美術的工夫のしどころで、ふと、水族館のように、床を透明にして、水面と水中と両方から見るような視点。つまり、観客の目線の正面が床であったらどうだろうか、などとそんなこともちょっと頭に掠めたりした(水泳の映像のような感じ)。
卒業生が本を返しに来る。 少し、原稿が進みだした。第1章から第2章へ。注書きを入れるとすでに1万字を軽くオーバーしている。ということは、副題の「冠婚葬祭」はまた別の機会にきちんと書くことになるかも知れない。だいたい10年前あたりの記録が中心となりそうで、このときはまだ役人だったので、この当時はこんなまどろっこしい文章を10年後に書くなんて想像もしなかっただろうと思う。 目次は以下のようにはじまっている、一応: 「限界芸術」領域におけるアーツマネジメント理論の構築とその実践 三回生のようちゃんが来て、自分が写っているまちかど紙芝居の写真はありませんか?とやってくる。就職活動をするときに使おうと思ったがないということ。ブログ以外になかなか見当たらない。 コートを手に持ちながら伊丹AI・HALLに着く。 6つの小品。なぜか「アスワン」(作:ロディ・ヴェラ)のみを2回、それも、「離れない」(作:レネ・ヴィラヌエヴァ:ここでの中山マリのベッドでの演技はすごく心動かされた)をはさんで2度、同じ吉田の演出で行われたのがどうしてなのかも、少し分かりづらかった。最後の内田春菊作「フィリピンパブで幸せを」は、ブラックなコメディで、フィリピンの俳優さんたちのダイナミックな(少し大げさにも感じるばかりの)演技にぴったんこでおかしく笑いこけた。
そうそう、昨夜、アイホールのロビーに、伊丹市の中学生・高校生に無料で公演を見てもらうというプログラムが貼ってあった。応募をしたり、定員があったりするので、ちょっとめんどくさいかも知れないが、いい企画なので、ぜひ、地元の子どもたちがダンスや演劇を見に来てくれるきっかけになってほしいと思う。 少し事務処理をしたあと、神戸の元町駅へ。昼間休日割引が使えるので、チケット屋に寄り、神戸駅までの3枚のチケットで計850円なり(そのままだと、山科−神戸で1450円、山科−元町で1280円)。 夕暮れのCAP HOUSE。一階に入るとガムランセットが置いてある。 展示が見られたのは、2003年に京都芸術センターで見たtelepathy(12分。赤いカーテン/緞帳が印象的)と、Violet(2006年、18分。いくらかビターな紫、万華鏡の残像がシャープで大人の味)の一部。パフォーマンスが終わってから復旧して上映されていたから。 それだけでも今回のかなもりゆうこ展『Violet』は3つの部屋でこの数年間の作品が観られ(初出のときのものに一部手が加えられているようでもあり)、かなもりさんの出身地である神戸へのお里帰りでもあるそうだ。できれば、ゆっくり、元町かいわいを歩くなかでもう一度遭遇したい映像展示であった。 「きらきらの霜ふりかけて家光る ヴィオレ、ヴィオレ、冬の熟睡(うまい)の只中で」。 (「うまい」は安眠という雅語の「やすい」と仲間で、ずっと昔は一人でなく熟睡する意味だったそうで、家族(小さな村、集落)が冬に一緒になってぐっすり休む感じもする言葉だなあと調べて思ったりもする) もちろん、パフォーマンスは大満足。 美術とダンスとの境界がどうしたこうしたとかいうまえに、美術作品とともに、それのなかからすっと出てきてまた入り込む小さな妖精たち精霊たちとの交流を、作者と一緒に、出演者や制作の人たちとともにすごすぜいたくなひとときなのである。 はじめは、みんな入れて、ヴィオレ。立ち見も入りぎっしり。納谷衣美と宮北裕美のデュオはしずかにゆっくり、ダンス的なテクニークを見せず、空気を少しずつ揺らしてゆく。 鏡が重要な役目を果たしていて、それは美術作品としてもそうだったわけだが、ここでは、鏡が客席へと引き渡され、バレエのかわいい小さな半分人形が鏡によってはじめて全部の姿になることで、それがゆっくり壁を回ってゆく。 黒い箱。むらさきのリボンを結び、はずし、目を隠す。見せないようにするのではなく、あえて目を閉じて心だけになるという暗がり、そのための「闇」。心が向かう闇、に吹く風。それでも/それだからこそ、風がそこにある/と気づく。 そのあいだに大野さんにシェリーなどから作ったというカクテルを手渡される(200円)。はじまる前に飲んだ缶ビールもここで飲むと格別のあじ。太陽族のお二人もがまんができずビールしていた。 手品、ちいさなマジック。じっさいにマジックショーの帽子も布も黒い箱も鏡も登場したのだが、もっと違う意味での美術としての手品、いえ、手品としてのアーツ。 かなもり自身が明確にみずからの作品を語っていて、とても心にしみる。 終わってから山下残さんや宮北さんと話す。かなもりさんの作品には、観ながら、こちらがいろいろ付け加えていける「すきま」が多様にあって、それがとても終わった後の気持ちのあり方に違いを感じるのだというようなことを話した。たしかに、そこがダンスそれ自体と美術のなかのパフォーマンスとの違いにはあるのではあるが、でも、ダンスがすべてを語りつくそうとする必要もないし、もっと、見ている方を信じて放り投げ、すきまを残すということもいいのではないかなあと坂を下りながら、生協で濁り酒を買いながら思った。
昨日の京都新聞に太陽クラブさんの展覧会記事が載っていた< http://kogurearts.exblog.jp/5504293/>。 夜、神戸アートビレッジセンターでアンサンブルゾネのダンス公演を行く予定にいていたのだが、出遅れる。仕方がないので、エリック・ロメールの1966年の作品、たぶん、はじめてのカラー作品、『コレクションする女』。90分、連作「六つの教訓物語」第四話。この連作は6つとも、中産階級の男性がはじめつきあっていた(あるいは、本命の)女性とは別に、もう一人の女性に惹かれていくが、結局、元の鞘に収まるというパタンを同じくして、つづられるもののようで、この作品もそうだ。 でも、ロンドンに行った本命の女というのは、冒頭に出てくるだけで、ずっと、このコレクションする女(アイデ)と主人公アドリアン、そして現代美術家ダニエルとの三角関係(といっても、劇的でもなんでもない)が、夏の別荘(バカンス)、「rien」(無)の時間・空間のなかで、つづられるというもの。 ナレーションがアドリアンの心理描写で、私小説ぽい感じがする。ヒッピーな女をはじめて描いたということで話題になったそうだが、エロチックにまるでならない(もちろんポルノチックのかけらもない)ところが、ロメール的。でも、どこかぎこちなく、哲学的な語りにも、滑らかさが不足している。 ただ、役者が役者である前に美術家だったり、若い女性だったりすることを前提に、その話しぶりはその当時の彼ら彼女らの言葉遣いであるために、まず、監督は話しぶりを録音し、そこから台詞を作り出しており、1990年代における日本の演劇において、関係性とか、リアルな地域言語だとかいう方向が強く出たおりに、弘前劇場の長谷川孝治がエリック・ロメールの「緑の光線」をオマージュしていたけれど、その原点の作品として、この『コレクションする女』があるのだなあ、と見ながら思った。 さらに、俳優が別荘(骨董、古美術を商う画商の駆け出しという主人公にふさわしい建物)内を動くとき、画面からいなくなったあとの椅子とか空間をしばし映すシーンがいくつかあって、その不在の空間を意図的に撮っているところも、90年代の日本演劇の演出的な特徴(静かな演劇とも呼ばれた特徴の一つに、誰もいない舞台、人が立ち去ったあとを感じさせる演出のあり方)ともつながりがあるのかも知れないと感じた。 |