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こぐれ日録 KOGURE Diary 2007.1 こぐれ日録518 2007 1/1〜1/7
上の娘が「大こくさま」を歌っている。 昨夜は、30日に放送された三谷幸喜の有頂天ホテルを見て(アヒルを見てむかしシアタートップスで見た東京サンシャインボーイズの亀づかいを思い出した)、そのあと、家族四人でエリック・ロメール映画鑑賞だった。アーツ鑑賞仕舞い。 『海辺のポーリーヌ』1983年、94分。もし、ブリジット・バルドーが15歳の女の子役だったら、ぜんぜん違うものになっただろうな。 妹一家3人は、上の娘受験のために、大阪市野田の実家に来ず。
昨夜、家族で『緑の光線』(エリック・ロメール、1986、98分)を鑑賞。私と芳江は2度目なので落ち着いて見られる。新しい発見多数。構図と色彩、小物。偶然に交通する人びと。 今朝は、4人で『パリのランデブー』(1995年、20年生まれのエリック・ロメールはもう70歳を超えて撮影している。100分)。第1話「7時のランデブー」、第2話「パリのベンチ」、第3話「母と子1907年」。 娘二人はバーゲン。ロメールの映画に出てきた主人公(満月の夜だっけ)の赤いマフラー(ロメールが押し付けたと書かれているが)を買うという。正月、ロメール映画を見たために、穏やかでよかったと娘たちに言われる。いつも、正月は荒れてしまうから、大晦日、何度も指きりさせられたなあ。 一人で、「シングシングシング」が最後の方で出てくる『ベニイ・グッドマン物語』(1955年、117分、ヴァエンタイン・デイヴィス)を通して見る。スイングするジャズ、スイングしないムードオーケストラ、クラシックを邸宅で演奏する家族など、音楽と社会の関係がよく出ていて、映画作品としてはまずまずというところかも知れないが(違う社会階層の男と女が結ばれるハリウッド的ハッピーエンド)、ジャズ(ダンス音楽)とクラシック(カーネギーホール)の社会的環境と文化的背景がよく見られて面白かった。 下の娘はまだいるので、今度は3人で『美しき結婚』(エリック・ロメール、1982年、100分)。ロメールになると、階層の違う女(庶民階層で田舎のバロン出身、美術史修士課程学生)と男(上流階層で独立した弁護士)を扱う手触りはぜんぜんロマンチックではない。でも、主人公を演じるベアトリス・ロマンの浅黒い顔にキリリとした眉が、玉の輿を狙う打算という配役を超えてどこか孤独でしなやかな戦士に見えて後味は悪くなく、そのあと彼女が出た『緑の光線』(の役どころ、一人はよくないと主人公に強く言って泣かせてしまう)などを想起したりして楽しむ。
松ヶ崎駅に早く着いてしまう。少し遠回り。京都工業繊維大学のとなりに20メートルのマンション、たぶん、憶測だけれど)ができるそうで、その反対の看板が控えめにいくつかある。大文字とかの絵が描かれていて、それができると見えなくなってしまうという落胆の看板もある。きっと、このマンションの売り言葉は眺望だろう。 アトリエ劇研。15時近くになると大入り満員。布団を追加するために制作の大嶋さんが忙しいのは、とてもいい忙しさである。 こちらも、岩村原太さんご一家とか鈴江俊郎さんとか東山青少年活動センターの西田さん表さんとか、あれこれいろいろご挨拶ができて、ことしは丁寧にお芝居やダンスなどステージアーツにまた向かい合おうと緩やかな(やっぱり、52回やってきたお正月を迎えるおっさん的な鑑賞体力の限度を考えつつ、ね)決意が―三日坊主かも知れないが―、わいてくる。 ○ 文化する小路をたどりて往き止まりふと見上ぐれば小鷺行き交う 5年たったという「劇研寄席」。いい企画である。大嶋さんは謙遜してベタな企画でしてと言っていたが、正月に6名ものいい役者が集って真剣に古典落語という他流試合をすることは、とても有意義である。そして、うろ覚えという部分があったとしても、面白い。 本格的な、二口大学(「宿屋の仇討」のお侍さんにぴったしの袴姿でした)と、エディ・B・アッチャマン(「時そば」。分かっていて面白いのだからさすが、でもミネラルウォータ―はなくてもできるかも?)のほか、元気のよい岡嶋秀明(動物園)、緊張感がかわいいごまのはえ(正月丁稚)、まじめな感じの藤原大介(始末の極意)、怒ると迫力の水沼健(かんしゃく)も、それぞれに役者の演劇以外の姿がふと覗かれるがごとき高座で、いささかうとっとなったときがなかったといえばうそになるが(前に鈴江さんにわたしが居眠り観劇をしていたことについてちょっと楽しそうに指摘されてそれもまた一興と思ったけれど)、はかま姿で緊張している姿がみんなかわいかった。 高座の舞台美術は川上明子。抽象的で花札的な鮮やかさ。金色づかいも渋い感じなり。 家では、二度目のロメールを二本見た。『木と市長と文化会館』、『レネットとミラベルの四つの冒険』。どちらも授業で十分に使えそうだ。前者は「まちつかい」にも絡めることができるし。
日本の社会史第二巻境界領域と交通(とくに地域の芸能興行の実態のところ)。 あと、新刊本まで買うときりがないので、新宮晋のいちごやクモなど絵本もずいぶん眺めたおして、ひとつだけ。京都お守り手帖2。「それらのお守りはまるで一つのアート」。もちろん限界芸術論に花添えてくれそうだ。 つばめというレストランを聞くと、残念ながらこの近辺のお店はどこもやっていないようで、でも、きっと多くのお客さんが同じように食べ物屋さんを聞くのだろう、かわいい周辺地図を見せてもらう。 正月が終わっていて、でもまだその余韻もあって、正月という波が引いていく岩清水かいわい。いっちゃんの清潔なたこ焼きが格別ありがたく美味しかった。 二回目のロメール映画『友だちの恋人』。「喜劇と格言劇集」の第6弾(最後)ということで、5つの作品との関連を考えながら観る。
近くの銀行に行ったり、すこし整理をしたり。 この「こぐれ日乗」のアクセス数も元(一日が70〜90ぐらい)に戻りだす。ということは、お仕事場で見ていただくことが多いということかしら。学生さんなどは、下宿に戻ってからみるのかな。 網野善彦『日本社会の歴史』岩波新書をぼちぼち。いまは、中。古代律令制が崩れていく10世紀後半頃(第6章古代日本国の変質と地域勢力の胎動:道長から清盛へ)の以下のような記述をマークしたりして読んでいる。P33〜34[各種の「芸能」と職能民]より 《 こうした動きは、すべてこれまでの宮司組織の解体と変質のなかからおこってきたのであり、下級の官人のなかには、さきのような受領の下で弁済使となり、受領の貢納物を立て替え、原初的な手形の機能をもった切符、切下文、替米(かえまい。米の為替)等を運用し、富を集める人もあらわれた。さらにまた、本来、宮司のもとに組織されていた多様な手工業者や運送業者、山民・海民などの職能民も、このころには独自な職能集団となり、宮司の寄人(よりゅうど)という立場を保ちつつ、広く社会のなかで自らの職能活動を展開しはじめた。 天皇家はもとより、摂関家をはじめとする高位の貴族もまた、武者を侍(さむらい)として警固にあたらせるとともに、以上のような「芸能」も含めた各種職能民の奉仕を求めて競合したということ。音楽(器楽)、文学(詩歌)、法律学(明法)、算数(算術)、武術(武道)、手工芸:鍛冶(「金打」の圧縮形カヌチの変化)、大工、鋳物、木工加工:、そして、好色(舞なども含まれるのだろう)と賭け事、これがこの時代の芸能だったのだなあと面白く読んだ。「明法」博士というのは算術にも長けていたりしたそうだ。確かに「法」を明らかにする法学士さんって、算術(数学というよりももっと実務的な)も得意なほうがいいに決まっているな。
葛葉モールに買い物。 スリッパ買ったり、ライ麦パンを買ったり。いまどきのスーツケースは軽くてびっくりしたり。江戸の紙切り(というのだったのだろうか、いい加減)を実演していた。先月はゴスペルだったなあ。いつも人が多く集まっている。 マルクスブラザーズ(3人)の映画を観る。『オペラは踊る A Night at the Opera』91分、1935年、製作:M-G-Mスタジオ、アーヴィング・G・タルバーグ(サルバーグ)、監督:サム・ウッド。途中からじわじわ面白くなり、イタリアオペラをアメリカへ興行すること、そして、ショーマストゴーオンよろしく、どんなことがあってもオペラしていくその根性などを見ている。ヴェルディの“イル・トロヴァトーレ”の映像を探してみようかな? 有名でなくても、その歌とか見目とかがよければ、お客はきちんと評価してくれてその評価を即座に喝采という形で表してくれて、その喝采があれば、解雇されたり逮捕されたりする理由がわんさかあっても帳消しとなり、成功がやってくるのよ、というアメリンカンドリームなので、『我輩はカモである』に比べてずいぶん穏当なもの。シーンによれば、ずいぶんナンセンスなものとかもあるけれど。 オペラ劇場の裏方が分かるので、映画の内容とは別に私には面白い。 オペラがニューヨークにてようやく開演する夜、その冒頭、なぜかドリフトウッド(このときは首になっていた)が挨拶するのだが、その内容たるや実にクール。つまり、未亡人から小切手をもらってこの興行はできたけれど、大成功なので未亡人は投資を回収できるというような実も蓋もないことをいうのだ。さらに、オペラのなかで野球につれてってという楽譜を追加してキャッチボールをしたり、綱元でサーカスの空中ブランコをしたり、いろんなつりものを降ろしたりする。垂直に背景画をのぼったりもしてびっくり。 どうしてマルクス兄弟の映画を買ったのか、もう忘れてしまった。さいきん、インターネットをやっていて、ふと、何かに出会ってこれは手に入れて観てそのことを検証しなくちゃ、おお、と思い、購入したのだけれど、さて観ようとする段になって、どうしてそれを購入したのか、その「おお」を忘れていることがときどきある。まあいいけれど。
先月買った雑誌のなかに、『広告批評1月号』があった。なつかしい。 バーコード革命(デザインバーコード)や「オシウリ」がとくに新鮮だった。インタビューにその人の年賀状を入れるのもいいな。 橋本治「ああでもなくこうでもなく」No111の最後のところを引用しておきたい。8p 《 「自分の価値観」を、自分でも意識しないままに持っていると、いじめの対象になる―私は現在のいじめの構造をこういうものだと思っているのだが、なぜこういうことが起こるのか? |