こぐれ日録 KOGURE Diary 2007.7


こぐれ日録547 2007年 7/23〜7/29

7/23(月)

大学の研究室で学生たちのレポートを受け取る。
みんな、次はテストとか言って早々に立ち去る。
専門ゼミ生たちのなかで個別に話を聞いていない学生も多いので、テストが一段落したら、一度研究室に来て欲しいな。
獲物が落ちてくるのをただぼーっと待っている「蟻地獄」みたいな感じ。蟻地獄がウスバカゲロウになるというのも実に愉快で、あのウスイ羽の養分は蟻の体液を滋養として作られているのだね。

一人、メールで4回生の卒論の目次がやってきた。アートの発信、音楽の発信のオンパレードである。どうしよう。辞書を見ても、発信とは、「信号を発すること」と「郵便・電信などを出すこと」、「電話をかけること」としか書いていないのになあ・・・

ええい、アーツ自身の発信という使い方はやはり、違うとは思うが、音楽ソースやディジタルな映像の配信とか、情報発信、メディア発信(発信メディア)という用語だったら、まあ新しい「信号」を発するということで、使っても問題なしとしようかなあ。

ブログで私がこうしてぶつぶつ書いているのも「発信」じゃないか、といわれたら、まあ、そう表現してもいいのかも知れないけれど、なにかが違うようにも思う。とりあえず、自分自身の防備録が主だとしても、アーツマネジメント研究などの自分の活動・考えの情報公開ではあるかも(一応、プライバシーなどには公開故に気をつけている―問題があれば、すぐに対応します―)。

そして、公開することでは、アーツを鑑賞させていただいたお礼をする目的がまあ一番の目的だとしても、こと挙げすることで、何らかの動きをつくろうとか、漠然としているが、あるつながり(ねっとわーく)とか、感想の共有とか、同感とか、逆に、違和感とか、反論とか、いろいろな反応を少しは期待したり求めているのかな。それがブログにおける「発信」機能だとすれば、つねに、情報を出す、あるいはオープンにするためには、他からの反応を受けとめる用意が必要ということになる。

4回生たちがメシ食べながら、自分で作った歌を歌っている。なかなかメロディアス。
思わず、いい研究室だなあと思いつつ、でも、単位を取るために、勉強しろよといわなくちゃいけない。
大学生協の理事長会があるので、いまから出かけるけど、いつ研究室をでるの?と聞くと、気が向いたら、という。気が向いたり、向かなかったり。それが学生気分っていうもの、いまのうちね。

理事長会では現代思想史の勉強を久しぶりにしたようでなかなかに面白かった。「新帝国的身体形成と大学生協的身体形成」(全国大学生協組合連合会会長理事の庄司浩興吉氏のタイトル、すごく漢字一杯)、1942年生まれの方なのでレジメもお話も漢語が多いが、わたしにはよく分かる流れ。こういう話を学生に届けるのは、ずいぶんといろいろクッションがいるのだろうな。以下、レジュメにもとづく私のメモ帳:

「人間は世界観内存在」でありつづける・・・世界観(物語)を持つのは虚しいと思わせる世界観が新自由主義
「グローバル化とは電子情報市場化」→消費文化の再編=文化の脱コード化
「生政治的生産」・・・バイオ・ポリティカル・プロダクションだっけ
「最新版国内植民地主義」・・・中高年世代の窓際族→リストラ、若者フリーター
「食・衣・住・性・動・信」を通じた〈軽い〉身体の形成」=新帝国的身体
「本音は〈ある〉ものではなく、〈つくる〉もの」・・・実践・構築主義へ
「ブリコラージュができない、知らない?」・・ワークショップとはまさしくブリコラージュ
「(大学)教育のカウンセリング化」・・生協は教育している?カウンセリングすべき?

生協が担うこと・・・学生の本音づくり、「軽く操作されない」芯のある身体づくりのサポート


7/24(火)

近大に成績を届ける。
夏の日差し。みんな試験の話し。
朝、男山の横から夏の青空。

国立国際美術館で耳を大きくする。
藤本由紀夫展『+/−』。
メロディーが聴こえるような、聴こえないような。
単なる騒音とも言い切れず、ちょっと、宮島達夫の世界を思い出し。でも、ミラクルは起きるのか起きないのか、それはどうでもいいようにも思え。

なんだろう、音の塊というのではつかめなくて、音の雲。
近づくと雲の中に入ってしまって輪郭が消えて耳が方向を失い。
遠ざかるとまた風の彫刻みたいに浮かび上がってきて、耳が機能しだす。
あきない。気がつくと、足がずいぶん草臥れていた。
音の影に回り込んだり、近づいたり。一個一個聞いていったり。
向きを見たり、数えたり。

明日は、午後からぎっしり会議なので、午前中、成績づけと、評価点記入をする予定。
成績のことで相談したい学生さんは、午前中がひとまずタイムリミットかも。


7/25(水)

今年は蝉の声がウエット。
夏休みになりそうな、でも、まだならないような。
ファスゲのラストを覗こうと思いつつ行けていなくて、
プラスアーツな藤浩志さんのブログを見ている。
生協理事会の帰り、月にしばし見惚れる。

中世の商人が神人(じにん)として神社に仕えることで政府(朝廷)からの税を免除されていたこと。
宗教的なものだが、中世における政府の文化支援かも。


7/26(木)

4回生が来て、卒論の相談。
就職活動が一段落して(あるいは、別のことに夢中になった後)、
さあ、卒業研究と思うとき、どうも、前から言っていたものが色あせて見える。

昨日、卒論に迷う学生たちとあれこれ話したのだった。
今日もまた。
自分がいま関わっていること、前に一度やってやめてしまったことの再開。
身近なところに研究の種がある。卒論の当事者性とでもいうのだろうか・・
それって、いいんですか?いいんですね。
だって、ほら、
周りの人が聞きたいって言っているじゃない?
それにまず、あなた自身が語りたいでしょ?
「当事者研究」について、べてるの家からずいぶん私も教えられたのかも知れない。

京阪電車大津線に乗る。ちっちゃいので、おもちゃのように界隈を行く。
膳所本町。浄土宗のお寺。膳所神社。膳所城の門が移築されて入り口。
膳所高校がぴかぴか白いのにびっくり。イメージは威風堂々だったから。
11/8のパネルディスカッションの打ち合わせ。
第44回全国高等学校美術・工芸研究大会(2007滋賀大会)。
高校の美術の授業ってどんなのかが分かるので、こういう会議はとても楽しい。鑑賞授業をどうするかが課題のようで、これは他人事ではなく、それに、教員としてはぜんぜん下手な自分は学ぶこと多し。粟津中学校の美術の先生もいて、これは、昔石山にいたためとてもご近所なので、違うところで反応してしまう。


7/27(金)

昨日の浄土宗のお寺の参堂壁に、「五重相伝」についての問答があって、つい読んでしまった。宗派ごとの戒名研究にもなるけれど、戒名のためにしちゃいけないともある(何事も、手段と目的の転倒ね)。信者さんが、5日間も仕事を休むと死んでしまいます、というと、和尚さんはそうです、一度そこで死んでもらいます、そのためにするのです、と言う。これは、なかなか面白かった。

何だか、今日、大学に行かないと一日がとても有意義に使えそうな気がした。
あさ、行くのをやめた。行って読もうと思っていた宝塚歌劇の歴史分析の本が研究室の机に乗っている様を思い浮かべながら。
でも結局、だらだらしているだけだったかも知れない。
まあ、よかった点は、冷房装置フリーですごせた点ぐらい。これで、ビールを飲まなかったらいうことがないのに、つい、なぜか呑んでしまう。ストレスがまるでない一日なのに。

少しだけ読書。『中世京都と祇園祭』(脇田晴子、中公新書)を読んでから、買っていた『京都の仏教史』(平河出版社)の拾い読み。通勤時に読んでいる柳田國男の「先祖の話」もいくらか読んで、都市の信仰と祭、村の信仰と祀りを対比しながらぼんやりベランダで佇む。月が出てくる。

映画はいろいろ購入しているので、今日は、1952年の溝口健二『西鶴一代女』(137分、田中絹代主演)と、1969年のエリック・ロメール『モード家の一夜 Ma Nuit chez Maud』(110分、ジャン=ルイ・トランティニャン主演)を見る。

『西鶴一代女』の暗がりが、枚方の菊人形をする施設(京阪電車が近くて中断しがち)で撮影をしたために夜間になってしまったためだとか、『モード家の一夜』もカラーではなくくっきりとした白黒で、このあたりでは、カラー映画が過半数になっていた頃なので、その理由とか演出美術(実際の色彩もモノクロームにしたとのこと)、あとでちょっと調べたりする。でも、比較したりするものでもなく(どちらも、恋愛劇ではあるが)、たまたま、二つを見たということ。

もちろん、どちらも、内容といい技法といい言うことなし。前者は、2時間を越えるのに長さをほとんど感じさせず、回想だと意外性がないのになあ、とはじめは思ったがそれも気にならず。宮中、公家世界、豪商、野外宴会、武家、蟄居わびずまい、島原遊女、扇売り、尼寺、茶屋、街娼、乞食芸、門付(托鉢)・・と田中絹代が江戸時代の様々な階層を総絵巻にして案内する。役者は、いつもこういう商人役だなあと感心するけど、ちょっとおかしくもなる進藤英太郎や加藤大介のほか、三船敏郎は思いのほかちょっとだけで、指摘されないと気づかなかったのが宇野重吉。

後者は、パスカルの思想とカトリック信仰のことが、そのまま生活のなかで人生の選択と逡巡に連結していく。映画内の時間は短く、クリスマスにいたる数日がメイン、しかも、階層は中流で知識人層に限られている。

そのなかで、さまざまな繰り返しと対比が鮮やかに行われていく。タイヤ会社のエンジニアと哲学の教授。パスカルの賭への共感と信仰についての違和感。カトリック信仰と無神論(共産主義)。雪降る道での運転、その危険性。止まっていけばと言う女二人、隣に部屋があるのかどうか。女の子を持つ黒髪女性と、男の子がそのあと生まれる金髪女性。小児科医と医者はいやという生物学専攻学生。(なお主人公の心の中のつぶやき、内面の語りは、このあとのロメール映画にはあんまりないはずで、これなしで、どう演出したらよかったのだろう?とそれは思った次第。)


7/28(土)

途中まで快調。
11時からの京都芸術センター、講堂での明倫茶会「樹下の双魚」。セレノグラフィカ(はじめは阿比留さんのソロ、そして、隅地さんの挨拶のあと二人でデュオ)が席主。岩村原太の明かりとセッティング。ハーブティーと不ぞろいのガラスグラス、洋菓子。
お茶のお手前を見ることで、お茶をやっている人はコンテンポラリーダンスを見ることの準備を知らず知らずにしているなあと、しつらえの影に伸びる指先にうっとり。デュオになると、二人の距離、同期、ずれ、強弱、アンバランス、アンチ、接近、疎遠、傍観・・・などなど、ソロより見る場所が10倍ほどになると思う。逆にソロってどう見るのか、説明しようとすると意外とむずかしいな。

その前に片岡健二と渡辺豪の顔美術を回る。片岡、瞬間に近い小さなときのうごめき。他方、渡辺には時のゆらぎはなく、ただ、移植した皮膚の軽易な違い。何も語り出さないのがすごい。

西本願寺にはじめて行く。その手前にあった吟醸ラーメン久保田。今年できたという吟醸白醤油の和風スープがうまい。島原に行きたかったのだ。その前の島原商店街もなかなかの味。
二条駅から昔は大きかった神泉苑をイメージしながら(かつてそこで祇園御霊会があった)、京都国際ホテルに行って、そこで紙芝居セミナーがあるのだが、申し込みをしていなかったので、入れず。
がっかり。
夜、びわ湖ホールでダンスを見ようと思っていたが、リタイア。
ビールのみつつ、家に帰って、また映画。溝口健二『赤線地帯』(85分)。いやあ、思いがけず、前向きな映画。女たち、悲惨なのに勇気がある。もちろん若尾文子はがっつり蒲団屋になって成功者だが、他だって、悲惨とはいえ、何とか生きていく明るさはなくなってはいない。気がふれててしまう女が一番悲惨ではあるが、それでも彼女の歌は明るく病院車に響いている。

溝口監督の最後が吉原というのが面白い。成瀬巳喜男の最後「乱れ雲」を見ていなかったと思って見出すと、途中から見たことを思い出す。でも、結末を覚えていなくて、最後まで見る。うーん。溝口の最後が格段にかっこいいなあ。

NSPのCD『八月の空へ翔べ』が来ていた。もっと、フォークギターの世界かと思っていたが、エレキとか編曲になじめない。


7/29(日)

昨日のサッカー観戦の疲れ。

盆踊りのサイトを少し見て、参議院の投票をすませ、山科青少年活動センターへ。

大分県は盆踊りの宝庫のようだ。

なかでも、初盆のお家の庭に入って踊る「庭入り」という盆踊り(供養踊り)は、まさしく、親密圏ダンスでかつデリバリー、まちかどよりもにわさきまで行くところがすごい。以下HP<http://moon.ap.teacup.com/bonodori/>「大分県の盆踊り」からの引用:

《 まず、その集落の初盆の家に着いたら、一通りの挨拶をすまし、笛や太鼓の囃子で庭を数周します。その後お経をあげ、和讃を唱え、シカシカを唱えます。それが終わったら、まず最初にばんば踊りを男性だけで踊ります。その後は女性や子供も加わって、レソ、三つ拍子、大津絵などを次から次に踊ります。踊りの種類の多いところでは、10種類以上踊る場合もあったようです。途中に休憩時間を設けて、そのときに初盆の家からお礼としてタオルなどが配られます。最後に、また男性だけで蹴出しを踊ってから、次の家へと急いで移動します。一軒あたり2時間くらいかかりますので、初盆の家の多い年は夜が明けてもまだ踊りが続けられることもあったそうです。http://moon.ap.teacup.com/bonodori/381.htmlより》

10時から13時まで、山科青少年活動センターで、めくるめく紙芝居(MEK=メック)プロジェクト再開。
20数名の集まり。山科の東御坊ですばらしい語りをしてくれた新しい参加者もあって、また楽しい。絵巻物のことも少し調べておこう。
なお、マネジメントのチーフ、井手上さんのブログ<http://ideh.exblog.jp/6597361/>にメックの詳しく内容が書かれています。


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