こぐれ日録 KOGURE Diary 2007.7


こぐれ日録545 2007年 7/9〜7/15

7/9(月)

昨日のことで、気になっていることがあって、少し悶々としていたが、
ようやく、方針が決まる。
昨日満席に近くなったとき、自分は劇場から一度受付に戻り、結果、入れなかったことになった学生たちに何かをすべきではなかったか(入れなかった学生がいたことはその時は分からなかったが、どうもいる予感はしていた)、と反省し、ぐじぐじ悩んでいたが、今日キャンパスで入場制限された学生たちと話した結果、結論に至る。

まずうれしかったのは、会った2人とも、行ったが満席で入れなかったけれど、ウイングフィールドの周囲や受付の周りを観察しました、と言ってくれた事。そう、東心斎橋のこのようなビルの6階に小さな劇場があること、それを維持し、劇団がそこで公演をし、観劇にお客さんがやってくることを見たことだけで、十分にアーツマネジメント総論のフィールド学習にはなっている。わたしも金曜日に日曜日がやばいことを知って、このブログなどに書き込んだり、土曜日の授業で学生たちに伝えるように頼んだが、出席率が高すぎて無理だったのだ。

それでも、開演の1時間以上前から多くの学生がやってきていたし、それなりに対応してくれたと思っている。
そこで、(一応、集合時間が30分前だったのでそれには遅れているが)入れなかった学生のなかで、今回は観劇できなかったけれど、今週の週末などにどこかで観劇したり展覧会を見たりする学生には、大学からは助成金は出ないけれど、半券を私に出せば、同じようにキャッシュバックすることにした。これは、こちらの判断ミスの部分もあるし、せっかく劇場に行こうと思った学生に何とかしてあげよう、それで、これから演劇を見ようと思ってくれたらどんなにいいかと思うからである。

二つの専門ゼミ。
15回今日でクリア。

1回生ゼミの有志も取材や製本に参加した『ヒガシガシ』夏号をゼミ生が届けてくれる。
「織布(オリーフ)」の取材(3名)。東山青少年活動センターにはずっとお世話になっている。
2回生のNさんも引き続きインタビューしている。

4回生ゼミ生たちと懇親。Tさんのバイト先。


7/10(火)

大雨。
ぼんやりとした朝。
NHKで、「べてるの家」を紹介していた。
近大の最後。テスト。22名。
ウイングフィールドのことを書いた学生がなぜか多かった。
むすびさんたちのイギリス行きの壮行会があると聞いていたが、間に合わないこともあり、そのまま帰る。帰り、大粒の雨が来た、と思ったらどーっと降って来る。
梅雨の断末魔か。


7/11(水)

大阪の実家に行ったあと、シネ・ヌーヴォへ。補助席もいっぱい。シネ・ヌーヴォXというのも出来ていたそうだが、それはあとで分かったこと(どこにあったのだろう)。
待っている間、映画監督などのサインを見て楽しむ。関島岳郎さんのかわいいサインもあった。
河瀬直美さんは、ひらがなでハートマークつき。

河瀬直美監督作品『殯の森』2007年、97分。グループホーム「ほととぎす」の日常を描く前半(もちろん、死者の影はしばしば登場する)と森の中で彷徨う霊(たま)しいの交感の後半とがくっきりと分かれている。
わたしは、33年前の奈良における葬列の姿からして、もう圧倒的にどきどきしてしまった。映画自体とともに、葬送の勉強として。木を切る。枝に大根?の輪切りをさして、唐辛子を頭につけて、いっぱい指す葬式のための小道具はなんなのだろう。

殯(もがり)。あらき。遺体を棺におさめて、埋葬までのあいだ安置すること。
語源はモアガリ。アガリとは、カムアガリで、神さまとしてアガル(天空にいく=死ぬ)こと(岩波古語辞典)。確かに喪のあと死者が完全に死者となることだろう。
が、喪を行う(服喪する)主体と死者とは違う(少なくとも現代の私たちの感覚では)。ので、映画の最後の注のように、喪あがりは、喪中の者の「喪があける意か」も知れないという映画での解釈も、いま的には納得しやすいものかも知れない。

ただ、アガリに、天空への上りも映画では十分にこめられている。喪はかつて、アガル前の死者とその喪中にある者とが一緒に服していたのかと観ながら思う。
水の濁流と焚き火と風。天狗がおりてくてくるような草の靡き。
連弾ピアノと森でのダンス。オルゴールと鳥、ほととぎす。
7歳までは神のうち。そして、とくに小鳥は神様のつかい。

映画を見たあと、京都府でお仕事。4時間。


7/12(木)

二つの授業のラスト講義。
授業アンケートも。
案件が重なって、17時になってしまう。
もう、大阪に芝居を見に行くことができない。
そうだ、お昼を食べていない。
ある劇団さんからいただいた「毒饅頭」をいただく。
美味しい。ダンボールは入っていなかった。


7/13(金)

雨ばかり。
脱線ばかりだったが、ようやく教務課へ提出する資料が出来た。
さあ、帰ろう。
ようやく読めた。でも、なぞが多い本、折口信夫『古代研究氈\祭りの発生』(中公クラシックス:中央公論新社、2002年)。ぼつぼつ、柳田国男と対比して解きほぐそう。

《・・「まつる」の語根「まつ」は、期待の義に多く用いられるが、もっと強く期する心である。・・神慮の表現せられることが「守(マ)つ」であった。》p397
《「まつ」を原義のままで、語根として変化させると、「まつる」「またす」という二つの語ができた。「まつる」は真意を宣(の)ることである。そして、神自身宣すのではなく、伝宣する意義であったらしい。》p397

《だから、第一義の「まつり」は、呪詞、詔旨を唱踊する儀式であることになる》p398
《・・・こうして、春まつりから冬まつりが岐れ、冬まつりの前提が秋まつりを分岐した。さらに陰陽道が神道を習合しきって後は、冬祓へより夏祓へが盛んになり、それから夏まつりが発生した。そうして、近代もっとも盛んな夏祭りは、実は、すべての祭りの前提として行われた祓えの、変形に過ぎなかったのである。》p398

祇園祭に代表される都会的な夏祭りが新しい(平安時代というような民俗学的には歴史的文書で確認できるという意味でずいぶんオリジナルからは遠い)ということはだいたい知っていたし、さらに、主体と観客に分かれてしまう観光型の大祭的なものには、すでに民俗学的だけではなく(柳田は小祭の復興を望んだ)、限界芸術研究にもあんまり役立つものはなくなってしまっているので興味はほとんどない。

だが、殖ゆ(ふゆ)を希求する、宣べるという意味の「まつ」り、つまり「ふゆまつり」が新春へのレセットのための春まつりであり、ふゆという語(根)は、そのあと、そのような期間として「冬」という季節になったのだ、という説明は、かなりの衝撃だった。


7/14(土)

台風情報を聞きながら自宅をずっと動かず。
NHK教育で『当麻(たえま)』。前半、おお長い。宝生流、近藤乾之助(79歳)。15時から17時。
野村萬(間狂言)の解説、でも、ここにも字幕が欲しいなあ。

ケン・ローチ監督『やさしくキスをして』(104分、2004年)、原題のAe Fond Kiss...はスコットランドの代表的な詩人、ロバート・バーンズ(「蛍の光」の原詩の作者)のスコットランド語の詩(「ae」って?)。37歳で亡くなり、郷土、特に農村を愛していることなどから、宮沢賢治みたいだということも言われているようだが、こちらは、大酒のみで放蕩者だったそうだ。

つい、他者の眼、社会的状況へのアプローチの有無という面で対極にある『殯の森』と比較してしまう。
スコットランド、グラスゴーにいる移民二世のパキスタン人とアイルランド人、イスラム教が支配する家族社会とカトリック教の元での学校社会、どちらもUK全体のなかではマイノリティなのだ。だが、家族の紐帯と自立、自尊、アジアとヨーロッパ、黒人と白人、クラシックとDJ・・・この2極にあって、惹かれあう二人、異文化間恋愛がもたらす衝撃、分かりやすく言えば、ロメオとジュリエットかな。

劇団態変のことが載っていたり(倉本智明「異形のパラドックス―青い芝・ドッグレッグス・劇団態変」)、金満里さんが、『イマージュ』で障害学について否定的な発言をされていたこともあり(上野千鶴子さんとの対談のなかで)、気になって買っていた本、石川准・長瀬修編著『障害学への招待―社会、文化、ディスアビリティ』(1999年、明石書店)を読了。8年前の本なので、学問へと向かう様々なデッサンのような感じ。

でも、精神障害のこととか、講談の前身かも知れない軍団語りはじめ、日本の神話、説話、口承文学における障害者の描写、盲人の役割ことなど、あれこれと新鮮。たとえば:
《・・琵琶法師を抜きにして『平家物語』の存在は考えられず、その『平家物語』が現在の言葉なり文章を形成していったのだとすれば、現在日本語を語り、日本の文章に触れている限り、すべての人々は、知る、知らないに関わらず、好むと好まざるとに関わらず、盲目の琵琶法師たちの恩恵、といって悪ければ影響を受けている事になるのである。》p279-280、花田春兆「歴史は創られる」より

ゴッフマンを大学で少し習っていたのに、ちゃんと読んだかどうか、近代において隔離・収容施設として生まれた精神病院がその典型となる「全制的施設(トータル・インスティテューション)」という言葉も知らなかった。


7/15(日)

マンション管理組合理事会。
防犯カメラを増設するかどうか。消火訓練に参加してもらうには。
未収金のこと。大型修繕のための積立金の状況。
ミクロな場所にも、共同性の喪失や、国の財政と同じような問題がある。

台風は大丈夫になったのだが、どうも、どこにも出かけるだけの気持ちがない。
ダンスが2本、演劇が2本、この週末には行きますと連絡していたのに・・・どこへも行けない。
気力がなくなったのか、体力の減退か。

読んでいる本。鷲田清一『京都の平熱―哲学者の都市案内』講談社、2007年。
鷲田さんにこの本のことを話したとき、自分の家族のことなどを書いたので恥ずかしいという反応をされたので早く読まなくちゃと思いながら、今日になった。

《奇人は「普通」でない。いいかえると、奇人は安全な場所にこそ出現する。対抗する「普通」があるから奇人は奇人でありうるからだ。奇人が住む街もどこかに消えて、たがいがたがいにとって「奇人」のように見えてしまう、そんな光景に、いつのまにか年は覆いつくされているように見えてしかたがない。》p53

《うどんはおつゆになかに漂っているが、蕎麦のように密集しているわけではない。麺はたがいに折り重なりあっても密集してはいけないのであって、おつゆのなかをそれぞれがゆったりとたゆたうのが美しい》p90-91

《蝶は青虫から成虫へと劇的に変身する過程で、いちど蛹になる。蛹のあいだ、何重もの衣装をまとっているが、中はぐじゅぐじゅの液状になっているのだそうである。不安定な危うい状態にあるからこそ、覆いを固くするのだろう。》p146

《・・子どもにはおとながちゃんと壁になることが必要だ。そういうかたくなな定点からの偏差を意識することで、じぶんがどういう人間であるかをおぼろげながらもわきまえてゆく。そういう壁になるために、近所のおっちゃん・おばちゃんの一員としての「役」を引き受けること、つまり、隔たってはいるが見て見ぬふりをするたしかな「ワン・オブ・ゼム」になることが、いまのおとなには求められている。たがいにぜんぶを引き受けあうという煮つまった関係のなかでは、「期待」が過剰になって、子どもたちは窒息してしまうから。けれども、壁がなくては子どもたちはじぶんを築きようがないから。》p217-8

私の家族関係のメモ:dyson(イギリス)の掃除機。諏訪敦彦と保坂和志。鴨川とルイード。


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