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こぐれ日録 KOGURE Diary 2007.7 こぐれ日録545 2007年 7/9〜7/15 7/9(月) 昨日のことで、気になっていることがあって、少し悶々としていたが、 まずうれしかったのは、会った2人とも、行ったが満席で入れなかったけれど、ウイングフィールドの周囲や受付の周りを観察しました、と言ってくれた事。そう、東心斎橋のこのようなビルの6階に小さな劇場があること、それを維持し、劇団がそこで公演をし、観劇にお客さんがやってくることを見たことだけで、十分にアーツマネジメント総論のフィールド学習にはなっている。わたしも金曜日に日曜日がやばいことを知って、このブログなどに書き込んだり、土曜日の授業で学生たちに伝えるように頼んだが、出席率が高すぎて無理だったのだ。 それでも、開演の1時間以上前から多くの学生がやってきていたし、それなりに対応してくれたと思っている。 二つの専門ゼミ。 1回生ゼミの有志も取材や製本に参加した『ヒガシガシ』夏号をゼミ生が届けてくれる。 4回生ゼミ生たちと懇親。Tさんのバイト先。 大雨。 大阪の実家に行ったあと、シネ・ヌーヴォへ。補助席もいっぱい。シネ・ヌーヴォXというのも出来ていたそうだが、それはあとで分かったこと(どこにあったのだろう)。 河瀬直美監督作品『殯の森』2007年、97分。グループホーム「ほととぎす」の日常を描く前半(もちろん、死者の影はしばしば登場する)と森の中で彷徨う霊(たま)しいの交感の後半とがくっきりと分かれている。 殯(もがり)。あらき。遺体を棺におさめて、埋葬までのあいだ安置すること。 ただ、アガリに、天空への上りも映画では十分にこめられている。喪はかつて、アガル前の死者とその喪中にある者とが一緒に服していたのかと観ながら思う。 映画を見たあと、京都府でお仕事。4時間。 二つの授業のラスト講義。 雨ばかり。 《・・「まつる」の語根「まつ」は、期待の義に多く用いられるが、もっと強く期する心である。・・神慮の表現せられることが「守(マ)つ」であった。》p397 《だから、第一義の「まつり」は、呪詞、詔旨を唱踊する儀式であることになる》p398 祇園祭に代表される都会的な夏祭りが新しい(平安時代というような民俗学的には歴史的文書で確認できるという意味でずいぶんオリジナルからは遠い)ということはだいたい知っていたし、さらに、主体と観客に分かれてしまう観光型の大祭的なものには、すでに民俗学的だけではなく(柳田は小祭の復興を望んだ)、限界芸術研究にもあんまり役立つものはなくなってしまっているので興味はほとんどない。 だが、殖ゆ(ふゆ)を希求する、宣べるという意味の「まつ」り、つまり「ふゆまつり」が新春へのレセットのための春まつりであり、ふゆという語(根)は、そのあと、そのような期間として「冬」という季節になったのだ、という説明は、かなりの衝撃だった。 台風情報を聞きながら自宅をずっと動かず。 ケン・ローチ監督『やさしくキスをして』(104分、2004年)、原題のAe Fond Kiss...はスコットランドの代表的な詩人、ロバート・バーンズ(「蛍の光」の原詩の作者)のスコットランド語の詩(「ae」って?)。37歳で亡くなり、郷土、特に農村を愛していることなどから、宮沢賢治みたいだということも言われているようだが、こちらは、大酒のみで放蕩者だったそうだ。 つい、他者の眼、社会的状況へのアプローチの有無という面で対極にある『殯の森』と比較してしまう。 劇団態変のことが載っていたり(倉本智明「異形のパラドックス―青い芝・ドッグレッグス・劇団態変」)、金満里さんが、『イマージュ』で障害学について否定的な発言をされていたこともあり(上野千鶴子さんとの対談のなかで)、気になって買っていた本、石川准・長瀬修編著『障害学への招待―社会、文化、ディスアビリティ』(1999年、明石書店)を読了。8年前の本なので、学問へと向かう様々なデッサンのような感じ。 でも、精神障害のこととか、講談の前身かも知れない軍団語りはじめ、日本の神話、説話、口承文学における障害者の描写、盲人の役割ことなど、あれこれと新鮮。たとえば: ゴッフマンを大学で少し習っていたのに、ちゃんと読んだかどうか、近代において隔離・収容施設として生まれた精神病院がその典型となる「全制的施設(トータル・インスティテューション)」という言葉も知らなかった。 マンション管理組合理事会。 台風は大丈夫になったのだが、どうも、どこにも出かけるだけの気持ちがない。 読んでいる本。鷲田清一『京都の平熱―哲学者の都市案内』講談社、2007年。 《奇人は「普通」でない。いいかえると、奇人は安全な場所にこそ出現する。対抗する「普通」があるから奇人は奇人でありうるからだ。奇人が住む街もどこかに消えて、たがいがたがいにとって「奇人」のように見えてしまう、そんな光景に、いつのまにか年は覆いつくされているように見えてしかたがない。》p53 《うどんはおつゆになかに漂っているが、蕎麦のように密集しているわけではない。麺はたがいに折り重なりあっても密集してはいけないのであって、おつゆのなかをそれぞれがゆったりとたゆたうのが美しい》p90-91 《蝶は青虫から成虫へと劇的に変身する過程で、いちど蛹になる。蛹のあいだ、何重もの衣装をまとっているが、中はぐじゅぐじゅの液状になっているのだそうである。不安定な危うい状態にあるからこそ、覆いを固くするのだろう。》p146 《・・子どもにはおとながちゃんと壁になることが必要だ。そういうかたくなな定点からの偏差を意識することで、じぶんがどういう人間であるかをおぼろげながらもわきまえてゆく。そういう壁になるために、近所のおっちゃん・おばちゃんの一員としての「役」を引き受けること、つまり、隔たってはいるが見て見ぬふりをするたしかな「ワン・オブ・ゼム」になることが、いまのおとなには求められている。たがいにぜんぶを引き受けあうという煮つまった関係のなかでは、「期待」が過剰になって、子どもたちは窒息してしまうから。けれども、壁がなくては子どもたちはじぶんを築きようがないから。》p217-8 私の家族関係のメモ:dyson(イギリス)の掃除機。諏訪敦彦と保坂和志。鴨川とルイード。 |