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こぐれ日録 KOGURE Diary 2007.6 こぐれ日録542 2007年 6/18〜6/24 6/18(月) ビールを飲む。また、少し控えなくちゃ。 お昼に文学部の1回生が相談に来る(つきそいの学生さんも高校時代の演劇部)。びっくり。ひょっとしたら、高校生時代の彼女を劇場でみたのかも知れない。 4回生ゼミ。Nさん、ひさしぶり。車の免許を取っているらしい。Yさんが、大人計画のタレントいっぱいのミュージカル「キレイ」DVDを持ってきてくれたので、観る。ミュージカルの音楽って、どうして、こうワンパタンなのだろうか?と思って、そうか、そうしなくちゃ、タレントが歌えないからかな、と思いつく。スズナリで観た大人計画が懐かしい。 藤さんや永田さん、加藤さんたちのほか、プラス・アーツの理事で、永田理事長の恩師にあたる鳴海先生の話が聞けていろいろ勉強になった(障害児の学校建築とは、とか、インドネシアの防災のことなどなど)が、おどろいたこともあって、それは、さかさジャンケンのこと。 自分もここで一ついいことを言おうとして、いまいちなことばかり言っていた:プラス・アーツというと、たとえば防災だけでいいのに、余分に芸術までしなくちゃいけないと思われる恐れがある。プラスするのがアーツという自由、それも隙間とか、ぎっしり詰め込まれた仕組みを緩めたりはずしたりすることなので、つまり、プラス・マイナスなのだ・・おっと、これだったら±でゼロになってしまう・・・みたいな。 あとで調べると、グー(ニッコ、おにぎり、農民)<チョキ(ヤリ、槍、武士)<パー(ヘラ、笏、公家)<グー(農民)・・・という三すくみなのだとあるサイトにあった。 本を電車でよく読んでいる。 おっと、傘をなくす話ではなかった。本を読んでいて、あとで調べる必要のあるカタカナ語が出てくることがよくある。映画史ではよく見る単語だなあと思い、昔調べたのに忘れている。鉛筆か黄色の蛍光ペンでチェックしたいのだが、あいにくなかった。まあ、家で調べりゃいいと思って印をつけない。で、さて、どこだったかと思ってみると見つからなかったりする。今日もそうだ。もう、眠い。 読み終わった本。四方田犬彦『日本映画史100年』集英社新書、2000年。 読み出している本。東谷護編著『ポピュラー音楽へのまなざし―売る・読む・楽しむ―』勁草書房、2003年。P12《広義に捉えるならば、「ポピュラー音楽」とは、録音や放送に代表される大量複製技術によって音楽が商品化されて以降に、もっぱら商品の成功をねらって開発され、成立した音楽ジャンルの総称》ということになるという。 あさ、1時限目のために、バスは無理なので、椥辻から大学までの上り坂。 ぜいぜい。 TAM研にひさびさ、新しいお客さん。1回生である。でも、ハラダリャンを知っている子。すごい。 あとは、校務。大学評議会に学部教授会、研究科会議。 2時限目のアーツマネジメント総論は、ゲストスピーカーの時間。 奥野さんの話は実に淡々とすすむのだが(広報課のカメラはすぐにいなくなってよかった)、水の会のお芝居のように、社会への声高でない批評性とかペーソスが混じりながら、でも、ベースはそこはかとなく面白げであり、しかも、学生に伝わるようにテレビや映画との関連も脱線話的なサービスとして話していただいて(土田英生さんのハッピーとか)、気がつくと、もう12時になっていた。以下、学生の出席票コメントを少し引用: ○講義中に先生の話によって知った劇団名や別の授業で劇場について調べるとき、チラッとHPで見たことのあるお名前が出たことで知っている固有名詞はありましたが、その量よりもずっとまだまだ聞いたことのない舞台芸術に関わる方々の名前を聞いて歴史は深いと感じました。 ○関西の演劇事情のなかで「指定管理者制度」という単語が出てきました。入学前はまるで知らない言葉でしたが、いまではゼミで討論に上るテーマになっています。これは関西に限らず日本全体の公共施設にいえると思うのですが、政府の考える文化のための政策ってどうなっているのか、お話になる方々はみんな指定管理者制度についての問題を言われるのに、どうしてそういうことになったのか、さっぱり分かりません。 4時限目、自分探しの旅。気になることが二つ出現。一つは、このまえの学外授業で出席票をもらわなかった学生たちの扱いについて。もう一つは最終テストのこと。確かに、私が中間テストの解答と突き合せなければ、同じネタを書いてもばれないということになるわけか(それでは、なんのために自分の世界を広げようという授業を受講しているのか、ということになるのだが、単位をできるだけ省力化してとろうということから、考える者がいるのがわかったので、ここは性善説ではだめだなあと自戒と自嘲・・・)。最終テストの問題を修正しつつ(これは次週は時間がないのでその次の回に示そう)、突き合わせて、もし、バレたらお終いよ!と警告する必要が出てきてしまった(まあ囚人のジレンマみたいなものか)。やだなあ・・・ そのあと、熱心な滋賀県の高校の美術の先生たち3名が来られて、11月の全国大会のすり合わせ、というか、顔見世、というか、雑談。あっという間に、19時20分に。なんのために、高校の芸術という科目があり、そのなかの特に美術という教科の特質、芸術、美術を普通高校で授業することの意味や価値とは何か、何を望むのかというご質問だったが、なかなか、うまく話せなかった。 うまくいかない日だったなあ。そうそう、滋賀県の文化についての中間まとめ案というのが、ごたいそうに速達で来ていて(ここの書類はいつも速達で来るのだが、速達で来ると総務課あずかりになって、普通郵便よりも届くのがずっと遅れるのであり、それを会議にもってこいというのだが、不必要なものが多く持ち歩くのもめんどうなので研究室のなかに貯蔵されるばかりである)、今日見たが、この前、長い間研究室にて、どうして「発信」という言葉はよくないか、私が委員である会議では、ずっとご遠慮していただいている、ということを、参考資料を見せてまで諄々と話していたのだが、ぜんぜん修正されていないので、がっくり。 雨が強い。京都橘高校へ。昨日はどうもうまくいかない日(そうはいっても、奥野さんのお話など収穫は多かったのだが)だったが、今日は、すっきり、なんとか乗り切った感じ。波がやっぱり隔日に来る。ただ、ブリッジのライブ、ポジティブシンキング、19時と手帳に前から書いていて、どうしてそこに行こうと思ったかわからないまま、映画を2本見て終わったが、セレノグラフィカさんのブログを見ると、すごいラストだったとあって、なんだろうかと、neco眠る(http://neconemuru.com/)という謎のユニット名?とともに気になってしまう。 高校3年生の「文化政策」1学期も終わり近く。やっぱり、高校生も大学生も同じだが、自分たちで作業をしてもらうと生き生きする。高校生が大学生と違うのは、思い切りかな。模造紙に来週の発表内容を描かせ続けたのだが、一つのグループが大胆になっていくと、それに続いていい反応が連続する。 たまたまだったが、今日はじめて去年の発表模造紙を見せたのもいいタイミングだったかも知れない。先週は自分たちで内容を考えさせていたので、あとは表現の型をまねるのはまあ、いいかと思ったのだし、やはり、自分たちでも出来ると思わせるからだ。それにしても、先輩たちは何のモデルもなくよく作ったものだ。図書館の司書さん(いつもお世話になっている)にそう話すと、やっぱり、10名ほどクラスが多くなると、もうそのクラス運営は格段にむずかしくなるものですよ、とのこと。確かにサイズというのは大切で、これもワークショップ形式に近いのだから、42名だったら、もう一人ファシリテーターが必要なのだろうと思う。 見た映画は、エリック・ロメール『冬物語』(1991年、114分)と、クレール・ドゥニ『ガーゴイル』(2001年、100分)。冬物語はロメールがシェークスピアの冬物語を舞台で見て、それで四季の物語を思いついたというもので、『緑の光線』のような展開(これって、これだけでネタバレになるかも知れない、『緑の光線』を見た人にとっては)。女主人公に3人の男。最初に出る男はロメール監督の映画にはないタイプ。ヒロインもやっぱりそうで、つまり、本棚に本が並ばない人たちが中心というのは、ほとんどないからかも知れない。 『ガーゴイル』は、小津安二郎を語る外国人たちのなかに、クレール・ドゥニ監督がいて、そうそう、『パリ、18区、夜』という映画を見損なってしまったと思っていたことを想いだしたのだが、買えたのがこれだけだったというもの。まあ、そういう次第なので、感想もまあまあという感じで、ただ、ヴィンセント・ギャロも小津好きだということが分かったりはした。ベアトリス・ダルとの競演。すごい〔自分はあんまりそうは思わないが〕人たちを合わせるので、なんとか映画作ってね、という感じで作ったような感じがするばかりで、突き抜けない。映像はきれいだが、無駄な技巧があり、肝心な部分が抜けている。 この前、学生さんの持ち込み授業で、大人計画がアイドルなどを使った長く退屈なミュージカルを見た(途中で研究室に戻った)ときも思ったことだが、商業化すると、こうも残酷に薄くなる(見てくれはごてごてと派手で広告材料もいっぱいあるのに)ものだと思ったけれど、おなじことを、この映画を見ても(そこまでひどくはないが)思った。これは、ナマの小劇場演劇のなかでも、ドラマチックな仕立てがあったり、異化作用ぽいこともしたり、映像を使ったり現代に飛んだりしたりと、ケレンが多いものに同じような感想を持つのと同じ。 気持ちのいい「五月晴れ」である。今日は旧暦では、5月9日。 アーツ鑑賞演習は、次の『東京ノート』鑑賞の準備もかねて、『東京物語』。今日は16名と少ない出席だったが(24名中)、みんな『東京物語』をはじめて見たということ(小津の名前を知っている人がちらほらという感じかな)。 その前に『顔を見ないと忘れる』のラストシーンをリーディングしてもらった。 午前中、昨日の自分探しの出席簿記入をしていた。この前の学外授業(ワンダリングパーティ『オルターナティブ・グリフ』)の感想も興味深い。幾人かのものを書いておく。 ○久しぶりに生で演劇を見た。手作り感あふれた感じだった。「牛」がせまってくるのは面白かった。暗転の後人物が現れるのはインパクトがあった。内容は教会に通っている私にはとても興味の沸くものだった。しかし、はじめは謎解きのような感じであった。いったいこの村人たちは何者だろう、この顔が変な人は何をしているのか・・・先が読めない時間が続いた。しかし、モーゼが作った十戒や主の祈りを唱え始めたころから分かり始めた。少ない道具で情景をうまく表現してさすがプロと思った。しかし、一つ不満を言うと笑い(ウケねらい)?の場面が多く少しくどくて、もったいなかった。 ○普段見る映画やドラマなどとは違って、すごく独特だった。映画やドラマは「自然な演技」をするけど、劇はそうではなくて、すごく印象に残る演技だった。話の展開など少しついていけないかなと思った部分もあったが、慣れるとおもしろかった。また見たい。一人芝居も印象的だった。 五月雨である。一日中家の中。電信柱もポストも雨の中・・・なのである。 細川周平氏の「歌う民主主義―『のど自慢』と陳腐さの効用」という部分を読んでいたら(『ポピュラー音楽へのまなざし』勁草書房、03)、ちょうど12時20分ぐらいになっていて、あわてて、NHKの『のど自慢』をつける。ラジオも同時にやっているのか。これもつけてみる。音がちょっとラジオよりテレビが遅れて聴こえるのがおかしい。丸亀市の公共ホールから。以下の引用の通り今日もまた、もうすぐ出産とか、もうすぐ結婚とか、「個人的な物語が突然全国に知れわた」っていた。 p199《番組で最も感動的な場面は、合格歌手が自分の名前を告げる時である。それまで番号で呼ばれていた匿名の個人が、この時名前と物語を持った人に変わる。そして歌はいつでも誰か大事な人に捧げられている。家族、婚約者、亡父、同級生、これから生まれる孫・・・・・。『のど自慢』は個々のパフォーマンスを歌による家族や友情の物語に変える。それほど劇的な物語はないが、それぞれが本人にとっては特別の意味を持っている。30秒たらずの司会とのやりとりからわかることはわずかだが、個人的な物語が突然全国に知れわたる。そしてすぐに忘れられる。》 p202《どこから放送してもほとんど曲目に変わりのない『のど自慢』は、地方色の表現よりも、ふるさとという場所がすでにないこと、中央で作動している強力な文化産業において地方が均質化していることを示している。日本の番組のめまぶるしい交代からすれば、この番組の長寿さはまったく驚くよりほかない。その独創性は、無視された町から、名もない個人が、国民的に知られた歌を歌うところにある。この場所とレパートリーとパフォーマンスの特殊な組み合わせのおかげで、『のど自慢』は公共性と健全娯楽の上に築かれたNHKの草の根ナショナリズムにぴたりとはまる。》 昨日から美空ひばりをBS2でずっとやっている。生誕70周年で18年前に逝去。亡くなったのは私と同じぐらいの歳なのね。 |