|
こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.12/1〜12/7 こぐれ日録618 2008年 12/1〜12/7 12/1(月) かるくかぜをひいた。 午前中は、青木保『儀式の象徴性』を読み終わって、いろいろ整理すべきポイントを考える。 終わったあとも個別指導を少し。 午前中、初年度教育の一環として、文化プロデュースコースの選定図書案を作成する。 3限目、二回生ゼミ。アンケートに15分間。そのあいだ、『河童のクゥの夏休み』のおまけの映像を見ている。東久留米も遠野のつぎに写っていた、監督のインタビューとともに。なつかしい。 4限目、看護学部の先生が来て、来年も看護の関係で連続講座をするのだそうだ。 そのなかで、まじめな話(まあ私としては、幽霊を看護するとは何か、というのもシュールのようだけれど、まじめな話なのだが)、お坊さんとともに、葬儀会社さんの話を聞くのがいいのではないかなと話す。私はどうしても民俗学とかヒューネラルビジネスと葬送文化の話になるので、より、実務的に、死体をご遺体にする部分の現場を看護の現場からどう引き継いでいるのか、それを看護側も知っておくのがいいのだろうと話す。 まだ、全然読めていないが、少し読んだだけで、ずいぶんココロ震える本、阿部正路『日本の幽霊たち』(日賀出版社、1972)。 5限目。裁判所と判例の関係を話す。棄却と却下、この違いが分かるだけでも少し法学のルールマインドが分かるのではないかと思いつつ。 むかしのこぐれ日記(http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/03_11/HOGE-16*T_IWASHITA.html)を見ると、岩下徹『放下』は、過去、2度観ていたことがわかる。新宿タワーホールでのものと、AI・HALLのもの。フジタヴァンテでの音楽家との即興デュオは連続してみたので、その思い出が一番強烈かな。いや、應典院でのお墓でのダンスはまた別のすごい思い出だが。 さて、京都では公演したことがないという岩下徹『放下』。21回目だそうだ。京都芸術センターの講堂。長方形なので、四方が同じ椅子数ではなく、3列の前後と2列の左右となっていて、どうしても、正面性があるように、始まる前は思う人が多かったかも知れない(私はそうは思わなかったし、だいたい、4辺への意識は等分にしていたと思う。ただし、あとから入った人のビニール袋の音に反応はしていたが)。 60分、無音。むかしの鑑賞経験との比較なので、怪しい感じもするが、まず思ったのは、落ち着いて踊っているなということだった。教え子とか同じ大学の同僚先生とかも多いので、そういう面では怖さが少ないからかも知れないし、講堂のやさしいウッドの感触が彼をずいぶん落ち着かせているのかも知れない。 踊りと書いたが、舞である。舞踊ではなく舞踏というのが、岩下徹のダンスを観ているとよく分かる。上下に揺れても、弾むのではなく、上下に舞うのである。手のひら、指の曲がり、ずいぶんとなじみのある風景。岩下の舞にそう変化があるのではないが、リズムはずいぶん観やすい速さを保っている。ゆっくりとレントするときも見所をちゃんと創っていて、うまいなあと感心。 でも、一瞬、あるとき、彼の身体が見えなくなって、白いシャツだけが塊に取り残されたように見えたときがあった。そこから、どんどんこちらの鑑賞がオンタイムになっていき、ラストのフェイドアウトに進んだ。アフタートークで、照明がカットオフにいつもはなっているのに・・・という意見が男性から漏らされたが、私は、その溶暗が、死にいく準備のひとときを感じさせてもらえて、けっこう、好きだったなあと逆に思った。 はじまる前の緊張。生の世界から、生とも死ともいえない、境界の場へ。しずかに、さりげなく、気づくと、舞踏手が立っている。客席の電気が落ちて、四方の照明の世界に人が入る。ダンサーは、生と死との境にいる人なのかも知れない。どちらにも行ける人であるともいえるが、そのどちらにも行かないで耐える人であるともいえる。 見るほうも徐々に死界を自然と感じながら、いつ果てるともない、動きを追う。 溶暗による静かな死へ、死の覚悟ではなく、死の受容を。 大学では、AO委員会、教務委員会、学部教授会。学部長選挙があって、来年度から新しい学部長になる。 でも、面倒を自分で対処できる学生がいる大学 良い天気だ。昨夜、いい即興ダンスをみたからか、ちょっと、風邪もだいぶんいいみたい。 政治学の主要なテーマが「パワー」だと話していて、でも、パワーポリティクスというのは、政治の一つの型にすぎないとすると、パワー(権力)を主要な目的としない政治はあるはずで、それはなんだろうと思っていると、また、分からなくなる。 まあ、力というのは、影響とか可能性とかの意味もあって、権力を少しはみだすのだろう。でも、やっぱり、「力」は政治的であることに違いはない。日本の経済力とは、他国への影響力、発言力である。発信とは、この影響力、発言力を増すための手段である。つまり、広い意味での政治学の対象となる。 政治学に少しからみだして、忌みの対象でしかなかった「発信(力)」を、文化政策領域に隣接する文化政治学領域として、文化力、芸術力などの「力」研究と関連付けて考察できるのかも知れないと思いつく。 図書館で、浮世絵の基本的な歴史とか、主要作家の年代をチェックする。2回生ゼミで話しつつ、少し不安だったので。 ひとまず、即興が、既存のダンス振り付け、過去の自分のダンス態様から自由になる、逃避することだとしたら、鑑賞の自由もまさしく、鑑賞した過去、マスコミによる刷り込み、世間の固定観念などから自由になることだろう。 ステレオタイプ化した鑑賞の枠組みからどれだけ自由になれるのか、だな。 大阪成蹊大学芸術学部の図書館2階が、夜までの私の書斎。 JRで京都駅。あるいて、20分弱。おお、久保田というラーメン屋は家族で食べたな。 浪曲を朝から聴き、観ている。 そうそう、家人が、年金事務所であれこれ。最初に1年間働いていた会社の名前を忘れていて、まあ、いいや、と思っていたら、家に年金事務所の方から電話をいただいたそうだ。 京都市中京青少年活動センターにて、(財)京都市ユースサービス協会の20周年記念事業関連のお仕事。 あわてて、大学へ。2回生にゼミ選び関係で話を聞き、4回生の卒研に対応していると、ワンダリングパーティのあごうさんと高杉さんが来られる。おっと、高杉さん、着替え。それも死に装束?いえ、平安貴族みたいな格好・・・ 5限目、政治学概論.最終のレポート課題を学生たちと一緒に考える。 トビー・フーバー監督『スペースバンパイア LIFEFORCE』(1985年、116分)。昔は、女バンパイア(マチルダ・メイ)のヘア(全裸のお化けは珍しい)にモザイクがかかっていたそうだ。黒沢清『映画はおそろしい』(青土社、2001)「ホラー映画ベスト50」の第6位。ロンドン市が中世的地獄絵図になるのがいい、ロンドン交響楽団の音楽がクラシックしていてちょっとミスマッチなのがおかしい。精神病院が古くていかにも、な舞台となっている。最後の教会も素敵。 どうして、この人が死ぬのかな?と意外さが楽しく、しかも、ちゃんと吸血鬼ものがたりの解釈にも一応はなっている。SF物でかつモンスター活劇みたいで、ぎりぎりホラーでもある映画という解説に納得。青い光とか活劇の派手さとかは苦手だが、これなら私でも楽しめる感じがする。だから、興行的にダメだったのも分かるな(私がいいものは興行的にはダメだろうから)。 精華小劇場。仙台からよく来られるベテランの三角フラスコ(昔は京都にも同じ劇団名のそれがあった)第30回公演、『NO fear』。地方都市の郊外はこんな感じだろうと見ている。ただ、聞き返し(A:私の夢でした、B:夢?、A:そう夢、みたいな会話)の多用は、やめたほうがいいように思える(クリシェをカリカチュアするのではない限り)。 チラシの束に「お詫び」状が入っていて、 「なにわ橋駅!ダンスサーカス」へ。すごい客数で椅子を追加したりして大変。無料なのはもったいない限り。いつものように五組。 ウミ下着「咲かせてみて」。構成演出・出演:中西ちさと。他に、重松理恵子、福井葉月。 f/pの二人女性は淡々としていて、吾妻淋「頭痛フライ」と対極で、でも通じている。 仙台とか福岡とか、大阪だって、各地から色々来てほしいもの、と今日は思わせていただく。 のんびり、いい日、まだ、寒いけど。 いやいや、今度の宮北裕美ダンス「mankind」は、潔くて、こういう周囲の雑音などが多い場所にぴったり。一見武術ぽいしコンテンポラリーダンス風のクリシェをはずして、心地よい。でも、よく見ると動きの範囲を狭めたり「現代アート」的な部分だってあるけれど、まるで大道芸的なたたずまいが、通気性のよいダンスになって現れている。また、詩(しまなかこう)がいい意味で無技巧な一本気な感じであるからか、水前寺清子的な色気のない男節演歌のような、たたずまいで、ORGANさんという音楽家ははじめて姿を見たけれど、音もぜんぜんアーティスティックでなく、詩を不器用に言うところも合わせて好きだ。 半熟目玉盲点観光ガイド(川崎歩)は、マントあそびでふわふわ。数分はとても面白かった。 観ながら、いま生まれる場所、建物に対する地鎮祭としてのダンス、演劇の可能性を思った。 おっと、最後の南弓子「dying scape」を忘れていた。今貂子らで床が粉だらけになってしまうのに、どうして、今貂子を最後にもってこなかったのかと思いながら見ていた。いつもながら、いい動き。浮き輪の模様がきれい。
|