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こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.12/22〜12/31 こぐれ日録621 2008年 12/22〜12/31 12/22(月) 大学の授業は今日で今年は終わり。 これで、今年の用事は終わったかな(あとは、卒業するための添削がちょいとあるか)。 アーツマネジメント論の授業は今日で終わり、1月はテストのみ。 よる、4回生ゼミのクリスマス会。一年生ももうすぐ卒業だなあ。 黒沢清監督のVシネマ、1994年の競輪ムービー(http://simplydead.blog66.fc2.com/blog-entry-63.html)、 ボクサーみたいな体格だとよく評されていた若き小津安二郎は、撮影助手だったころ、じっさい、蒲田の撮影所でリングを組んで、彼もボクシングを実際にしていたという。また、ボクシングを題材にしたようなエッセイを書いていたらしい(おっちゃんという愛称をもじった乙雀というペンネームにて)。映画とボクシングはその誕生が同時期であったこともあり、映画でボクシングが広まった部分もあったそうだ。よる、たまたまテレビでやっていた内藤大介の、勝利者の弁とは思えない防衛戦でのコメント、ほんとにいい味だ。 物語りと物語は、前者が機能(方法)概念であり、後者が実体(事実)概念である、と、野家啓一『物語の哲学』(増補新版、岩波現代文庫、2005)「第7章 物語り行為による世界制作」。 第6章「時は流れない、それは積み重なる」からが、第5章までの初版に対する批判とかへの応答のようだ(6章では「8分半前の太陽をいま見ている」をめぐる論説が面白かった)。 「現在の出来事には膨大な過去が前提されており、無数の因果的あるいは志向的な関係が負荷されている。あるいは、過去の出来事は知覚的現在の下層に活性化可能な形で『沈殿』しているのだ」(P275) 過去の出来事(イベント)は、それだけでは、すぐに消えていく。 ところで、物語りの「物」とはなんだろうか? もの 教務委員会、大学評議会、学部教授会、教職なんちゃら委員会。 よる、佐々部清監督、こうの史代原作まんが『夕凪の街 桜の国』(2007年、118分)を見る。 映画として、なにが最大の問題か、というと、状況を説明する台詞が満載のうえに、それに輪をかけて、原爆の悲惨な写真や絵までが挿入されていて、人びとの想起する力をまるで信じていない、ということだろう。 中川信夫『東海道四谷怪談』(1959年、新東宝、76分)。浄瑠璃から始まる、コンパクトで美しい作品。民谷伊右衛門は天知茂、お岩さんは若杉嘉津子。直助(下男でこの人が一番救われないタイプなのだが、いまの時代にはよくいそうな感じだ)に、江見俊太郎。お梅さんが池内淳子(もちろん、若い)。 江戸(時代)の美学が満喫できる分、歌舞伎で四谷怪談を見たりするときに感じるあの、居心地の悪さ(男ゆえに)を伴う、ぞっとするような恐ろしさはほとんど感じられない。映像は江戸情緒なのに、プロットは近代的合理的な解釈だからなのかも知れない(たとえば、幽霊は悔悟する者=伊右衛門を殺すことはできるが、悔悟しない者=直助を脅すことはできても殺せない、というシェーマ)。 午後から大津、『アウトサイダーライブ』編集会議。あともう少し原稿が届けば、1月からは、デザイナーの手に移ることになって・・・3月中旬には出来るはず。楽しみだな。 AI・HALLは、2時間半のお芝居。コートを脱がずにいて、これは失敗。 お芝居的には、美術のすばらしさ(加藤ちか)、土地の年代記を記録しつづけるという、物語る(ナラティブな)演劇という志向の意義などを再確認させてもらえる。 野家啓一(のえけいいち)『物語の哲学』、ようやく読了。あとがきもリマーク。 p365《・・・「物語りきれぬものは、物語り続けねばならない」とでもなるであろう。そもそも「物語り」は本来的に未完結であり、たえざる増殖と改訂のダイナミズムの中に身をさらしているものだからである。》 1994年の『打鐘』(黒沢清監督)もVシネマだったが、同じく、Vシネマの『打鐘』が1993年にあって、同じく立花ワタル役が西村和彦だというのがおかしい(大杉漣も同じく新聞記者、ただし、ワタルを変えていく役をこの映画でするのは、スポーツ医学の女先生〜賀来千香子が演じる〜だ)。監督、小松隆志、100分。裸が出てきたり、父子や兄妹関係が核になったり、バーがいつもの場所になったり。テレビのトレンディドラマの延長線上にあるもの。原作に忠実なのはどちらだろう。 京町家手ぬぐいの永楽屋さん(細辻伊兵衛商店)の本店へ。贈り物などのために買い物。2階にあがってバックの奥にある展示を見る。学芸員みたいに解説してもらって楽しくお勉強。 東山青少年活動センター。20日の京都市ユースサービス協会財団設立20周年記念式典にいけなかったので、その資料をいただいたりする。 岡野真大(ケービーズ)さんは、よくラジオのDJをフィーチャーしたり、青春ほろりもののお芝居をよくやっていたな、と懐かしい。自衛隊と戦車が出てきて、戦闘シーンもけっこう劇画タッチで、高校生(無料というのもいいな!)にもけっこう受けるように思う。 きのう、ざっと読んだ『日本人の身体観』(養老孟司、日経ビジネス文庫、2004)。初出は、1996年(法蔵館)。エッセイ風。死体はモノだと解剖学者は思っている、という誤解を延々と語るはじまりは、ちと、くどいが、以下の養老流心身一元論(唯脳論)は、単純でとりあえずは分かりやすい。 p88 《 視覚で把握されるものは、形を持つ。・・・・他方、音は形を持たない。・・形を持つ視覚と、形を持たない聴覚が、一致して言語を作る。だから、概念の中には、形を持つ概念と、形を持たない概念が発生する。・・さて、そのような視聴覚でヒトという存在を考える。すると、ヒトが形を持つ「モノ」すなわち身体と、形を持たない心に分離する。これは、ヒトが脳を使うかぎり、当然のことではないのか。だから、いかなる文化でも、心身の分離が生じるのである。》 いいダンスとすごいピアノ。 28日にも一つか二つ、お芝居を見る予定にしていたが、ちょうど、演劇ダンスのこの1年間の回数が100回だったこともあり、またの機会ということに。2007年、81本しか演劇ダンス公演を鑑賞しなかったことに比べれば、少しは回復したかも知れない。ただ、眼鏡のレンズの擦り傷が広がっていて(どうもサウナに入ったときなどに出来た模様)、何を見てもぼんやりとしてしまう・・・ 毎日新聞京都支局の7階にはじめてのぼった。同じくホールだが、アートコンプレックス1928(元毎日新聞ホール9に比べるとずいぶん小さい。ただし、アールデコ調の半円はかわらない。大文字がよく見える。照明が間接照明で夜はどんな具合なんだろうと思う。正直、ダンスとかするのは、デコラティブすぎる感じはするが(ブロックガラスがどうしても町医者を連想させる)、面白い空間ではある。ダンスなど舞台物をするには、50席ぐらいでいっぱいだろう。 『気色あり』。14時から1時間。とても力のある3名のダンサーが等距離に踊った。野田まどか、キム・ウォン、黒子沙菜恵。音楽はバイオリンの宮嶋哉行。4人とも衣装が共通していて、3名のかたっぽうの靴下すべりからの開始。 ゆっくりとじかんを使う。寺町の下御霊神社とその隣の天台宗のお寺。 井之口章次『日本の葬式』(ちくま学芸文庫、2002)を読んで時間をつぶしたあと(いい本なので読み終わってからちゃんと報告すべきだが)、大井浩明Beethovenfries第十回《きみしあひみはゆかましものを》、18時半から20時半ぐらいまで。 前半は、リスト編曲のベートーヴェン作曲交響曲第7番イ長調全曲。ふー。すごい。赤鉛筆でのチェックのさまはリハーサルで見ていたが、一番前で聴いていたので、ここにチェックしていたのかと耳と目と両方を楽しみつつ、視聴した。それにしても弾くほうがすごいのだろうが、聴くほうも体力がいるし、オーケストラではここはこうだったなあとか瞬時に連想できたり出来なかったり。リストって手はもっと大きかったのだろうなあとかどうでもいいことまで想起されてきて楽しむ部分が忙しすぎる。ペタルのこととか響きのこととか・・・ ああ。後半はもっとリラックスして、第8番を楽しめた。いやあ、ピアノでは8番ぐらいの長さがちょうどいいや。最後に歌曲の編曲。もう、ちょっと夢見ごごちになってしまった。アンコールに8番の第3楽章を。美しい。美しすぎる。もし、8番しかベートーヴェンが作らなかったとしたら、これが白鳥の歌だったといわれたかも知れない。 終わったのに、撮影のため、大井さんがピアノの前に座って戯れに弾く。思いがけない余興(こちらがかってに観ていただけだけれど)。 ちかくの眼鏡屋さんで眼鏡を注文した。 古いものしかないのだが、ベートーヴェンの交響曲第8番を聞いてみる(フルトヴェングラーのライブ1954年)。続いて、マリア・グリンベルクのハンマークラヴィーア(ピアノソナタ29番)。これは3月の予習(早すぎ)。 夜、周防正行監督(脚本も)『それでもボクはやってない』(143分、でも長く感じさせない手際よい演出、編集)。2006年に製作され、2007年1月に公開。 裁判官の好対照は映画によるメリハリでいささか戯画的。それは検事側も同じで、弁護士も同様だがよりきめ細かく描かれている。当番でいやいや呼ばれた当番弁護士の描写はなかなかリアル。おかあさんや友達が主人公の無罪を疑う瞬間とかがあるとより映画に陰影がグラディエーション化するのだろうが、これがエンタメ映画のギリギリなのかも知れない。 加瀬亮は黒沢映画『叫』で冥土の渡しのような役をやっていた。目撃者のOLを演じていた唯野未歩子は『大いなる幻影』の主人公の一人だ。黒沢映画のお蔭で俳優も少し知るようになったな。 演劇出身では、大谷亮介(余貴美子と劇団東京壱組をしていてよく見かけていた)が冒頭痴漢役で出てきてびっくりしたな。小日向文世は、いやな裁判官役を公演。うまいバイブレーヤーだ。 テレビで市川崑『犬神家の一族』(2006年のリメイク版)をやっていて、後半を見てみた。 家。 ジャック・ベッケル監督の遺作『穴 LE TROU』1960年、120分。これは音楽がないのに、実際の音が強烈にサスペンスする。怖いのはつかまる怖さではなく、仲間同士の関係の亀裂だ。サンテ刑務所の脱獄に挑む4人組に階層の違う若い男が加わることで物語りが転がる。 去年は第1回目でずいぶん緊張したのかも知れない。 メッセージもあんまりなく地味にしていた。警察の方々はけっこういらっしゃって、さいご、スーパー玉出までご一緒だった。8名が一緒に歩き、4名が私たちを探して彗星のように御堂筋と堺筋を往復したという。 私は、一応、ダンボールで箱男になるものを用意したが、来年年男になる二人にやってもらうことにした。そのダンボールを入れる紙袋(COMME
CA ISM)に、以下のような地味なメッセージを書いただけで歩く。 外面如菩薩 エイラクヤの骸骨の手ぬぐいを持ってきたが、うまく活用できなかった。 三角公園で一緒にパレードしたたまちゃんが音響をしているので、 大晦日。しずか。家の中。外はずいぶん冷え込んでいるようだ。 周防正行『それでもボクはやってない〜日本の刑事裁判、まだまだ疑問あり!』(幻冬舎、2007)がとどく。カットされたシーンが載っていて、あれこれ思う。なるほど、もっと、エキセントリックな描写もしたいと思ったけれど、極端だと観客に思われるからやめたということ。 三隅研次監督『四谷怪談』1959年、84分。カラーに品がある。長谷川和夫の民谷伊右衛門の立ち回りがかっこよくって、同じ年にとられた『東海道四谷怪談』とはずいぶん趣向が違っている。怖いところはかなり少ない。でも、たらいの着物から・・・は、ぞくっ、とするけれど。 ロバート・アルドリッチ監督『ワイルド・アパッチ』1973年、103分。ULZANA’RAIDが原題。ウルザナ(ホワキン・マルティス)というアパッチ族の脱出者を中心とした一団が追ってきた騎兵隊と対決するシンプルな物語り。終わり方が確かに黒沢清映画へと続くものだと確認。さっぱりしているが、めまぐるしい展開、西部の店や街角の描写などがある、『アパッチ』の方が、ラスト以外は好みかも知れない。 でも、一元的にインディアンとはこういうものだ、とか、白人はこうだ、とか決め付けない価値からの自由さ、そして、宙ぶらりんのままにしつつ、アクションの瞬間は大胆なところなど、見るべき箇所多し。 締めくくりは、黒沢清『アカルイミライ』(2002年製作、03年公開、115分)。 |