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こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.2 こぐれ日録577 2008年 2/18〜2/24 2/18(月) 工事が佳境に入ったのか、通行止めで、清風館まで行くのに一苦労。 そのあと、生協のお食事会。薬大前の中華料理屋。小さいけれど、味がいいということで、有名だそう。牡蠣の料理が出て、あんまりみんな手をつけない。お持ち帰りもあんまり誰もしなかった。私も昔懲りたので、どうしようかと思ったが、少し食す。これは、大丈夫だった。 昨夜(2/17)は、のんびり、映画、テレビ(篤姫)。 「鬼才ストコフスキー指揮による“フィラデルフィア・サウンド”」とビデオの箱にあるが、まさしく、この人ストコフスキーは本当の指揮者なのか役者なのか、はじめは分からないぐらいにおかしい(エキセントリック半分、エンタテインメント半分)。 失業中の100名の楽士たちのオーケストラを、ある企業がお金を出して、有名な(人気ある)指揮者が、少女の一所懸命にほだされて指揮をして、それを、満場のお客がチャリティ的に感動する。そういう一つのサクセスストーリー。でも、これはイベントなので、一過性。なので、また、話題や有名性や新規性が必要となるわけで・・・ 家にいる。 加藤泰監督『緋牡丹博徒〜花札勝負』。1969年、東映京都作品、98分。加藤監督はずいぶん見た。 テオ・アンゲロプロス『旅芸人の記録』をこの前観たが、ギリシャは晴れの日が多くて困ったという。曇った空が欲しかったのだそうだ。おなじ、アンゲロプロス監督の『狩人(かりうど)』1977年、172分。『1936年の日々』も見ているので、ギリシャ現代史もだいたい頭に入ってきたし、時が行ったり来たりするのにも、カメラがぐ〜るぐ〜ると回る長廻しもだいぶんくらくらしなくなった。 雪。冬の湖。山。海のないギリシャの北のほう。ギリシャってどうして、こうも青いのだろう。闇すら青い。そして、音楽。音楽が映画にあるのではなく、その舞台にある。そう、この映画は舞台劇的な要素がずいぶん強い。音楽劇。劇の転換をするように、死体が幕の中にしまわれて晩餐が始まったりする。その様子をそのまま暗転のない芝居のように見せる。ワンシーン・ワンカットならではではあるが、こういう舞台転換まで見せると逆に新鮮で退屈どころではなく、あれこれ、映画技法の可能性について、思い描く。 もちろん、政治を真正面から映画として捉える眼ぢから。この映画の一番のすごさであることはいうまでもなく。その延長に行軍するための歌、党派を表わす音楽、踊りがある。十字軍の男たちが踊りながら、デモ隊と向かい会うなんて!政治舞踊。 川崎賢子『宝塚というユートピア』岩波新書、2005年。講談社メチエ『宝塚』の復習部分もあるが、現在時点が2004年頃であること、戦時中の記述が充実していることなど、いろいろ勉強。 《 たんなる追っかけではない。他の観客同様、観劇中は立ち上がりもせず掛け声を発することもなく・・、飲食もせず、私語もせず、決まったタイミングで拍手や手拍子をするにとどまっている。 最後の「注文、ダメ出しのメディア」というのは、特に面白い(あと、ガードのこととかも触れられていた)。 公務の水曜日である。 さて。 まあ、教員とすると、その学生が、親が来る、ちょっとめんどうだなあと思いつつ、京都のまち探索を事前にしたり、いろいろ先輩たちから話を聴くことを通じて、京都文化に少しでも詳しくなってくれればなあと思ったりする。 最近は、京都の有名寺院あたりは、一応行ったから、もっと、珍しいもの、個性的な計画を娘に要求する母親なども多そうで、まあ、最終手段は、京都の面白いシーンとか人に出会うということにつきるのかも知れない。 とすると、アーツだね。とは言え、京おどりなどはいいとして、すぐに、アトリエ劇研やスペースイサン、アートコンプレックス1928(ここは場所だけなら便利なので地下のカフェとか同時代ギャラリーなどはポイントかな)に行くというのは、ちょっとハードルが高いかも。 あと、音楽好きならライブハウスも町家系の磔磔や拾得あたりでいいのがあればいいね(個人的には、ネガポジの雰囲気も好き)。 まちつかい系はよりポピュラーかな。 もちろん、京のお祭り、行事は、毎月いろいろある。 観劇。それも、かなりヘビー。でも、うれしい重さ、濃さ。 久しぶりの大阪市立の芸術創造館。いろいろいまもやっているのだろうが、行かなくなったのは、指定管理者がらみで、内容ががらっと替わってから案内がほとんどこちらにないからだろう。森小路駅からの道は嫌いではない(銭湯を観察するついでに「京かいどう」の表示を発見したり、公民館みたいなところでの公益社のお通夜準備ぐあいを眺めたり)。 清流劇場の公演、なんと、2本立て(学生料金は2500円なので、これはお徳だ、体力気力はいるが)。 『Kibou_concert@signal.jp』は、一人芝居。船戸香里に台詞はない。一人暮らしの女性の帰宅から就寝(!)まで、アパートでの日常(だと見ていた)。生音(ギターとフルート。22,23日はフルートの変わりにバスクラリネット)の二人がまず入る。演奏しないときは、ピアノ(ソナチネなどか)のテープをギターの渡邊崇が入れたりする。けっこう、バチっと切れたりするので、気持いいものなのだが、どこか神経の毛羽立ちを感じさせる効果あり。 この女性は、潔癖症なのかなあとはじめ見ている。臭いをとくに気にしている。スリッパはいたり脱いだり、こまめ、きちんと揃えて。いちいち手を洗いクリームをつけて。鏡台の椅子のかわりに便器。ストッキングを下ろして、ロールを取り出し鋏で切って、三角折りしてしまって。 表題は、「希望、コンサート、あっとマーク、記号、日本」。ずばり、日本における希望のシグナル(信号)、その信号の行方についてである。当日パンフに、自殺統計、偽装請負、「物言わぬボクたち」などのことが書かれているので、台詞はないが痛いほどこの日本の一人暮らしの丁寧な生活のささやかな前向き改善努力の結末(たぶん)が後を引く。 Wiiとかいうものをはじめて見る。ステップのドリルドリル。 『ビーダーマンと放火犯人』は、田中さんがベルリンに滞在していたとき250本も観劇したのだそうだが、そのなかで心に残った作品の一つで、半世紀前のスイスの作家、フリッシュによる政治寓話劇である。まず、こういう、政治寓話劇(ここでの放火犯がナチズムであり、ヘアトニック会社オーナー社長がドイツの普通の市民たちの善良さと小心さを象徴している)というのを知ったことだけでも有り難い。そして、ドイツの演劇事情も垣間見られる。 ただ、観劇して、後者も清流劇場のいままでの社会演劇の流れとそんなに違うものではなく、清流劇場的な世界がもっともっと日本にあるべきで、それが、日本の希望ということなのではないかな。 昼間観た映画。 中村錦之助、入江若葉(入江たか子の娘)、三国連太郎(沢庵さんって、こんなにかっこよかったのかな)、木暮実千代、浪花千栄子(いやあ、すごい悪ばあさん役だ)、木村功・・・ 小松和彦『妖怪文化入門』せりか書房、2006。水木しげるや京極夏彦にも言及。「。 妖怪文化研究の足跡」で、河童や鬼、天狗と山姥、幽霊、異人・生贄、そして境界として整理してあるので、勉強には便利。最後の「境界」のところを読みながら、葬送との関係はもとより、正月のこと、辻のこと、泣き声、そして、これは、書かれてはいないがアウトサイダーアートのことを思いうかべる。 そうそう、ペットや家畜、人間社会に出没する頻度が高い野生動物も「境界」にある存在(妖怪など神秘的な存在になりうるもの)だという指摘は面白かった(p303)。『猫、犬、猿、蛇、狐などの神秘化されることが多い動物は、別の言葉でいえば「境界の動物」なのである。その例として鶏と境界の時の関係、そしてそれを怪異との関係で論じた高橋昌明「鶏と雷公(頼光)」を挙げておく。』 昨日と同じ種類のラインアップ。映画、演劇、妖怪(小松和彦)本。 『非現実の王国で−ヘンリー・ダーガーの謎−』(監督:ジェシカ・ユー、2004年/アメリカ/82分)。堂島アバンザ(ピカピカな堂島薬師堂を久しぶりに眺め)ジュンク堂書店の北側のビル8階(GAGA試写室)にて。 アウトサイダーアーティストの一人。ヨーロッパではアウトサイダーアーティストといえば、精神障碍の人が多く(市井の郵便屋さんとか障碍とは無関係で、ただ、芸術領域の外にいるアーティストも多いが)、日本での知的障碍者中心のアウトサイダーアートの世界とは、また大きく違う雰囲気があって、その関係を考えなくちゃ、と思いながら、試写室に入る。 ヘンリー・ダーガー(ダージャーと呼ばれていたという証言も一方ではあって、そこから「謎」がはじまる)は、もともと知的障碍があったようではない感じがするが、孤児同然になってから、徐々に知的障碍施設に収容されることで、そういうレッテルを貼られていく。でも、自力で脱出。知的障碍と精神障碍という福祉的な目線では必要なボーダー(境界)も、アーツ的には、ボーダレスになる、そんなこともちょっと見ながら感じた。 彼には、コミュニケーション障碍があったのだろうが、閉じこもって作品を40年も人知れず作り、この自分だけの世界があることで、外の世界における悲惨な待遇を何とか凌いできた。熱心なカトリック信者であると同時にアーティスト。彼にとっては、シカゴの街全体、外の社会(アウトサイド)から離れて、自分のインサイドだけにアーツを構築し平安を確保しているのだ。 夜は、東心斎橋のウイングフィールド。A級MissingLink第14回公演『ショーン・レイン対地底人』作・演出:土橋淳志、19:33〜21:34。たまたまだが、昨日に続いて、自殺ネタ。自殺サイトと集団自殺、底辺生活、マルチ商法、ひきこもりスパルタ合宿、ロリコン教師・・・内容は小劇場演劇ではしばしば見受けられるものである。じっさい、いまの演劇人(+メジャーでない人たち)には自分やその周りによく見受けられる状況・光景だからだろう。 ただ、このお芝居では「メタミステリー」ということで、もう一つ二つ仕掛けがある。それが成功しているのかそうでないのか。ちょっと、帰り、考えていた・・・社会に向い会う姿勢が真面目なのはいいことなのだろう、が、それとこういうタイプの崩し方とがマッチしているのかどうか、とか。 小松和彦『京都魔界案内−出かけよう、「発見の旅」へ−』光文社智恵の森文庫、2002年。出かけるしかない案内本なのだが、「八坂神社は、明治の神仏分離までは天台宗に属する感神院(かんじんいん)と称する寺院であった」(p147-8)というような文章(つまり、感神院の末社が祇園社で、厄病神「牛頭(ごず)天王」を御霊として祀り上げるのが、祇園祭である)を読みながら、あれこれ考えた。 たとえば: 草津駅東口。草津アミカホールへ。 お仕事(「草津オペラプロジェクト2007報告会&シンポジウム」で、アウトリーチについて話すこと)は無事終了(まえにレジュメをアップしたのでそれを参照してください)。 雪なり。 かえって早く寝ようと思ったのだが、びわ湖ホールに命名権販売検討というニューズに出会って、妄想が膨らんでしまう。文化政策とネーミングライツ(命名権)販売というテーマは、テスト問題などにいいかも知れないな。公の設置条例とか指定管理者とかの関係を論じれば文化行政論でも使えるし・・・ ネーミングライツ(命名権)って、名づけ行為が限界芸術の一つだったりすることもあって、あれこれ考えさせてくれる(昨夜からひきづったまま)。まず、名づけることがどこから権利主張するような事態になるか、ということ。わたしが、もし、自分で犬を飼うとして、その犬を「ドアラ」と名づけても、中日ドラゴンズから、なにも言われない。でも、ドアラというペットロボットを発売しようとしたら、これは商標権の侵害となるだろう。まあ、ドアラロボットを中日と一緒に開発する(アニメ権、ゲーム権なども持って)のが一番だろうけれど(あさ、ずっとドアラの動画を眺めていたわたし!)。 80年代の冠イベントを行う企業の文化を使った広告宣伝事業から、90年代は社会文化貢献としての企業メセナへと進化したと教えてきたが、21世紀にはいってまもなくメセナ時代も終わったということになるのかどうか。冠イベントはイベントネームだけを買うのだけれど、その施設全部、あるいは、チームとか団体全部のネームを買うという時代になりつつ、80年代に戻ったということになるかどうか、ちょっと、思案ね。 他方、行政がほんとうにネーミング権を全部持っているのかどうか。たとえば、町名をそっけなくしたとき、ほんとうにそんなことを住人の声を無視してできたのかどうか。合併市の名前は住民投票とかすることもあるけれど、かってに、個人のアイデンティティ、地域の固有の名前をなくしてしまっていいのかどうか。考え出すと、企業って何でも宣伝に使うよね、とか、広告代理店ってやばいなあ、ではすまないのかも知れない。プライバシー権との関係として、名づけ、名前喪失について、考えるべきかも。 芳江と一緒に、京阪の野江駅へ。中華料理の庶民的で美味しい店「善」があって本当によかった。 劇団ジャブジャブサーキット・リーズナブルシアターACT1『裸の劇場』作・演出:はせひろいち。14:03〜15:59。2003年(9/26)にウイングフィールドで観劇しているので(http://www.arts-calendar.co.jp/KOGURE/03_09/ITO_CHUTA%26HADAKA-NO-GEKIJO.html#Anchor267668)、再演ではある。が、このS-pace向けに台本はずいぶん書き直されている。倉庫だったこととか、蝉のおもちゃを松屋町(台本では日本橋となっているので、その後大阪の人がアドバイスしたのかも)で買ってきたとかもあるけれど、一番は、近くを通る京阪電車の音である。これをどれほどうまく使うのか。それが問題だったと当日パンフにあったが、それを読むことで、偶然に京阪電車が通ったのか、音響を使ったのか、ずいぶん意識的に思わせられたりもした。 いつもの役者さん、それに、新しい女優さんなのだろうか、はじめて(たぶん)拝見した役者さんたち(島岡寿江、鈴木愛子、くまのてつこ)。劇中劇あり、劇中劇の中に「お芝居」でオーディションをすることあり、劇中劇でないお話のなかにも、おとり捜査ではないけれど、犯人を確定する(いや、そうではなく、もっと違う鎮魂の意味があるかも知れないが)ための「お芝居」もあって、演劇と劇場の醍醐味を堪能し、もちろん、サスペンス君も空間君(青森の空間君をどうしても思い出す)にまけじと、私の中に甦った。 この新書は読みがいがあった。島田裕巳『日本の10大新宗教』幻冬舎新書、2007。 島田さんの新宗教についての解説は、宗教学からのもので、じつに具体的な歴史を踏まえていて、分かりやすい。人間が信じることについての暖かい思いをもちつつ、淡々と静かに書かれていて、これだったら、学生(広く文化現象の研究として大切な知識であるだけではなく、企業研究においても芸術研究においてもどちらにおいても十分に必要な知識)に勧めても大丈夫だろう(解説は丁寧にすべきだろうが)。 いろいろ自分も知識を得た。たとえば、「世界救世教、神慈秀明会と真光教団」のところで知った、MOA美術館とミホ・ミュージアムの関係。あるいは、「PL教団」の処世訓の第一条が「人生は芸術である」だそうで、そこから、あの花火も出てくるとか・・・ |