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こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.2 こぐれ日録575 2008年 2/4〜2/10 2/4(月) ゼミ生の就活エントリシートの添削を、頼まれたのでしてみる。「学生時代に熱中したことで、今まで自ら考え起こした行動についておしえてください」というような設問があるために、だいたいみんな3回生の終わりになると、いままで、どうして、もっと活発に活動しなかったのだろうかと悔やむようで(高校生時代はだめですかと私に聞くが、やっぱり大学時代でしょというしかない)、この学生も悩みながら何かを探して書いていて、微笑ましい。 あと、ミクシーなどで、4月以降の2回生ゼミ生たちをどうまとめようかと模索していて、かえっこバザールを、昨日、林さんたちに言うととても興味を示してもらうのだけれど、まったく藤浩志さんとかを知らない学生さんたちなどへは、やっぱり、その実際を見学してもらうしかないなと思っている。で、3/23の伏見区でのかえっこ現場へどう誘導するかがいまのところの懸案である。まあ、動画がどこかにあれば、すこしはいいかも知れないが。 午後からは、ちょっと家族的活動をする。 昨日、今日で読んだ本。 橋本治『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』(集英社新書、2005年)。 とくに、欲望と必要の関係をめぐって。「いるのかいらないのか分からないが、自分はそれを“ほしい”と思う」と思わされるのは、実は誘惑であって、ほんとうの「欲望」でもないのだが、まあ、市場は飽和していて、どこにも投資のフロンティアなんてなくなっているのに、まあ、作り出されているわけだ、と。世界経済が欲望をつくり動かす(ここは私も同じようなことをイベントとか発信をめぐって言ってきたわけなのだが)。 あさ、ずっとしようしようと思っていたレジュメを完成させる。 (6.7)聖者の行進(01)、星条旗よ永遠なれ(04) キング・オブ・ディキシーランド『ディキシーランドジャズ』1993 (9)敵は幾万 明治24年発表(新体詩選に発表された「戦景大和魂」より)『軍歌大全集 上』2006 05 (13)『北村大沢楽団 疾風怒涛!!!』off note 2005 宮城県旧河南町(現在は石巻市に合併)にあるオールド・ブラスバンド。高齢、ふだんは農作業。小学校や町内の運動会になると伴奏をずっとしてきた。ヂンタ(楽隊屋へ8歳で養子に出され映画館、町廻り)出身の人も。
地方出張での入試の監督、1日目。岡山の駅前のホテル。 夕食とって、ホテルに戻る(18時すぎ)。歩いても、そんなに時間がかからず、ルネスホールも自由に見学した。併設されている公文庫カフェも写真展をしているので、どうぞといわれ、見ている。と、ルネスホールのマーク入りクッキーが売ってあり、桑野ワークプラザ・ワクプラザ福富分場というところでつくられているということなので、お土産が出来る。 犬島での維新派を見たというカフェの女性(もちろん大森さんや元県庁の長崎さんなどもよく知っているとのこと)と話しているうちに、バーカウンターのお客になって、にごり梅酒を飲む。夕暮れにのむアルコールはなんともうまい(でもこの梅酒は奈良県産だったが)。 ルネスホールでは月2回のペースで結婚式(披露宴ということだろう)が開かれているとのこと。なかなかの盛況ぶりのようだ。 入試監督2日目。無事終わる。 一昨年までは、入試サポートアルバイトは、京都橘女子大の卒業生にやってもらっていたが、去年あたりから、人材派遣業の方に来てもらっている。いろいろ、他の大学の入試も関わっているそうで、どちらにしても、地元の人との交流とか、岡山なら岡山の学校事情、文化事情などが聴けるので楽しい。こちらも、少し妖怪のはなしをしたり、雑談をしたりするわけで、こういう何気ない交流も小さいながら地域間交流なのだろうと思う(だから、できればセンター入試よりも地方入試の担当を希望しようと思うのね)。 カバンに入っていたのは、夢枕獏『陰陽師〜龍笛ノ巻』(文春文庫、2005。単行本は2002刊行)。「首」は白石加代子「百物語」として、聴いたことがあるし、「むしめづる姫」の話は元々好きな話だったので、こういうふうになるというのは逆に新鮮。 夜、地域文化政策、アーツマネジメント関連だろうと思って購入していたビデオを観る。今井正監督『ここに泉あり』1955年、150分、中央映画作品。提供:独立プロ名画保存会、発売:大映映画株式会社。予想以上に面白かった。チンドン屋さんが最初オーケストラとの対比で出てきて、そのあと、また、オーケストラの人たちが食べられなくなってヤケでチンドン屋をするところで出てくるなんて、びっくり。実に当時の考え方が出ていて興味深い。軍楽隊出身者と髪結いの亭主的なアマチュア、そして、音学校出のプロ志向の違いがよく出ている。 学校周りが、もともと資金稼ぎ以外の何物でもなかったこと。ところが、群馬県のとても田舎に行くと・・・・分校からやってきた子どもたちの行く末についてのコメントが、ぜんぜんその後の高度成長を予測していなかったことも面白いし、当時、あんなに子どもたちがバイオリンを練習しようと高崎市に集まってきたのだろうかとその姿に少しびっくりしたりもしたが、とりあえず「アウトリーチ」前史のお話として、また、音楽教育のこととしても、フィクションながら、じつに大切な素材だ。 採点が終わって(マークシートではなく、わいわいいいながら、採点基準を議論するので、ちょっと意外と楽しい)、メールボックスの書類を持って研究室へ。 ボーダレスミュージアムNO-MAの企画がこうして、色んな人を刺激して、新しい反応が生まれるってなんてすてきなんだろう。しん平さんは、まいあさ、出勤するまえにコーヒーを入れて(5時半に起きるなんて、わたしとだいたい同じだなあ)、ブログを読むという。そこでコメントしてもらっていたわけだわ(過去形になったのは、変なコメントが多くつくようになったので、制限してしまっていて、それはちょっと残念〜エキサイトブログユーザーはコメント出来るのですが)。 研究室でぼんやりしていて、冊子に手を伸ばす。そのあいだの来客は、A先生、演劇部、あと、オープンキャンパスで文化プロデュースコースについて、話す人選び(じつは、3/23、6/8は、もう予定が入っていたので、わたしは、8/1になる予定)。 水木しげる『墓場鬼太郎@〜貸本まんが復刻版』(角川文庫、2006)。いま始まっているアニメの第一話と対応しているけれど、出版社が替わったりしたので、それまでのダイジェストがあったり、貸本全体(兎月出版版「怪奇伝」)のもくじがあったりして、当時の貸本の感じをしのぶ(個人的には貸本屋は知っていたが実際に体験はしなかった)ことができる。 ハリエット・ヴァン・レーク作、野坂悦子訳『ボッケ』(朔北社、2006年)。オランダの絵本。絵本なのに、左半分は漫画の感じもある。話は一つずつ。ボッケがどこからともなくやってきた(生まれた)のだが、どうしてか、もうひとりリーがなにも説明されずにノッケといて、不思議に誰も思わないうちに一緒にあれこれするのが、おかしい。 夜、DVDで、滝田洋一郎監督『陰陽師』(2001年、116分)を観る。これが好評だったらどうしようかと思って検索したらそうでもなくて、ほっとする。テレビ(NHK)のほうが先でこちらのほうが、CGとかあまり使っていなくて、少しはましなのかも知れないな。 映画というもの、じつにピンキリな代物で、たとえば、同じくCGだって、エリック・ロメール『グレースと公爵』とは正反対の騒がしさ。演技が出来ない人を使うのでも、この映画における伊藤英明や今井絵里子などの下手さ(下手という以前の軽薄さかも知れないが)と、清水宏『ありがたうさん』における上原謙の棒読み(あるいは、桑野通子にいままでの役柄とは正反対の役をさせることで、演技を際立たせなくする仕方)とは、雲泥の差が監督力によって生じるので、そういうことを考えるには、参考になる資料ではあった。私には、陰陽師は夢枕獏の小説がいちばん安心できる(が、テレビ版もまた研究のため観てみるか)。 昼前からぼた雪。でも、意外と積もる。 キツネ憑きに類した悪霊憑き(狼に噛まれて狂う)に通じる話になるわけだが、狼と結婚する女から生まれた異類婚姻譚にもなっている。狼は貴神に通じ、風となったりするが、疫病神として人間に嫌われているので、広い意味の妖怪でもある。戦いばかり目立ってしまっているのが惜しいね。 アルティで舞踊フェスティバルが18時からあるのだが、間に合わないようだし、雪で滑ってころぶのが私は得意なので、そのまま帰る。 加藤泰監督『明治侠客伝 三代目襲名』1965年、90分。もう鶴田浩二の魅力満載で、藤純子の初々しさ(すかしていなくて、恋情あふれる行為にちょっとびっくり)や、藤山寛美の意外なかっこよさ(客人なのに一肌も二肌も脱いで命をかける)もあって、あっという間なのに、ずっしりとした東映京都作品。18日で撮り終えたということや、加藤監督と鶴田浩二とがはじめ口論したというエピソードなども面白い。 藤山寛美は、借金で破産。松竹新喜劇にも出られなくなって、東映仁侠映画などに出ていたということ。なるほどなあ。藤純子扮する初栄が、浅次郎にお礼として渡す桃二つ。岡山の実家に3日間だけ浅次郎の機転で戻れた御礼なのだ。桃を水蜜桃と呼んでみる。すると意味がより甘く、切なくなる(かも)。 すこし、はなみず。ちと、ようじん。 めくるめく紙芝居ワークショップ(メック)。きょうは、アーティストが林加奈とハナジョスのお二人。しずかだなあと思っていると、Y兄弟たち。仕切りたいのね。時間をとても気にしていて、でも、なんかそうでもなくなっているあたりなど、アウトサイダーアーツマネジメントという新分野の予感駸々。さいご「ふゆのおまつり」(彼ら二人の言葉の90%は私に理解できない呪文のようなものなのだが、状況を読めるようになると、だいたいの趣旨は分かってくる)シーンをかってに二人が作り出し、振り付けもする。 ハナジョスのAちゃんが、ずいぶん、太陽クラブの面々と仲良くなりだして、大収穫。彼女も一緒に踊るかも知れない、この調子で電車ごっこしていれば。T君は最初ぽかーんとしていたが、山下残体操モドキ(かなり怪しい断片を順番にやっていく)の輪の中にはいって、じつに嬉しそうな顔、からだ。未開発要素まんまん。 つぎのメックは、2/23、土曜日、18時から、おなじく山科青少年活動センター。わたしは、午後、草津でアウトリーチについてしゃべることになっているが、まあ、近いので遅れないで行けるだろう。よる、早く寝ようと映画は見ずに、NHKの時代劇「篤姫」を始めて観る。宮崎あおい役のお姫様。大竹しのぶがNHKではじめて登場したときと同じ雰囲気を感じたが、やっぱり、彼女のも同じ匂いあり。童女形。 午前中、泉鏡花の戯曲「山吹」を読む(『泉鏡花集成7』ちくま文庫、2006)。めずらしく妖怪(悪霊)は出てこない。しかし、妖(あやかし)の気が蔓延している。門付けの人形使・藤次の傀儡(にんぎょう)は中世の白拍子。弘法様のお祭り、南無大師金剛遍照、稚児。小流(溝川)に間違ってはまって死んだ大きな鯉。対して、俗世の洋画家。2006年の歌舞伎座での「山吹」公演で、この洋画家島津は洋装だったという(歌舞伎としてはずいぶんレアなこと)。 ここへ、家出してきた縫子(子爵夫人、姑などからの虐め)。一方的初恋の島津がダメなら、藤次とともに。過去を背負う藤次の願い「この身体を折檻されて、拷問呵責の苦を受け」ておけば、後の世の地獄は恐れないでいい。縫子「魔に魅入られたるもののごとく」。傘を破って鞭として。 少しストーリーを書いてみたが、場所、時ともに、異界の入り口が開く予感みなぎり、その直前までが描かれている。中世の浄瑠璃的世界への遡行。取り残される洋画家。この画家が語れることは、その概要だけだ。中世的な物語は人形使によってのみ語られうるとすれば、舞台から静御前の人形と縫子を伴って藤次が去ってしまったあと、山吹と散る桜だけが、そのモノを語っているのだろう。 この「山吹」をこうして読みメモしたのは、「夜叉ヶ池」をこの前公演した遊劇体が、6月末に大阪の精華小劇場で演じるのが、この「山吹」だからで、すこしずつ、新学期のアーツ鑑賞演習(演劇・ダンス)などの候補を探す必要があるからでもある。でも、学生にはこの「山吹」、「天守物語」や「夜叉ヶ池」と比べて、ずいぶんと難しいかも知れない。歌舞伎のDVDなどがあれば、戯曲もあるし、多角的な講義をすることが出来るのだが。 小松和彦『悪霊論―異界からのメッセージ』(ちくま学芸文庫、1997。青土社で1989年に刊行)を読み終える。「異人論」から「悪霊論」へ。小松氏があとがきで、「《カミ》の三角形」、つまり、「神」と「妖怪」(悪霊)と「異人」が、日本人の精神史・精神構造を説き明かしていくためのキー・コンセプトだと述べている(p290)ように、悪霊や妖怪文化を考えることは、異界のこと、異人のことを考えることでもある。 物語とは、モノ語りでもあった。モノとは、悪霊や神霊のこと。モノ(霊)が語ることから、モノを語る物語へ。そしてまた、モノが語る物語が儀礼(悪霊祓い)の場で再創出される(p281「悪霊祓いの儀礼、悪霊の物語」)。ふと、モノが語る物語と、モノへ語りゆく物語があるのかも知れないと思ったりもした。いや、モノへと訴え、モノが語るのを聴く物語。モノとの交通の物語か。 |