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こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.1 こぐれ日録573 2008年 1/21〜1/27 1/21(月) 2008年度2回生ゼミのブログができたよ!と大学の掲示板(リアル)に出したら、うちの1回生ゼミで新年度わたしの2回生ゼミにもなるTaさんがさっそくメールしてくれる。彼女は美術について実にしっかりとした鑑賞をしようとしている学生なので楽しみ。でも、同志がいるかどうか、少なくとも理解しあいたいもの。 昨夜は、テオ・アンゲロプロス(間違ってアンゲロトプスと怪獣のようにして書いてしまうな)の『1936年の日々』(1972年、105分)を観た。 夢見が悪いかもと思ったが、そんなことはなかった。 3回生ゼミ、最後と思っていたら、もう一回あった。 大津市で会議。 そんなことをしていて、映画でも見ようかと思っていたが、音楽レクチャー(はじめ、さきらでのレクチャー用として考えていたがもちろん大学の授業にも使う予定。1/26に同時に使ってみるか)の編集をして終わる。これも、音源の編集はまだ半分というところだ。 以下、途中までのワーク: 先端芸術(前衛と昔は言ったりもした)もまた、じつは、ジャンルが特定できなくなっていく。専門家によるものではあるが、市場化はもちろんされていないし、伝統芸術のように、様式が高度でも確立もしていない。つまり、先端芸術がどんどん先鋭化したり、アウトリーチ的ワークショップ的に社会活動化したりすると、即興性、創発性、をもち、偶発性やプロセス・参加重視によって、未完結性、匿名性(無名性)、非作品性が生じ、限界芸術と極めて近いものとなる。 意図するかしないかは別として、先端芸術は自らのためと社会参画化のために、限界芸術の可能性を広げ、かつて自由にアーツに向かい合った芸術への接し方をいまの人たちに再度もたらすことになる。その点に着目して、限界芸術を刺激しコミュニケートしあう先端芸術の広場づくり(=アーツの公共性形成)として、アーツマネジメント・芸術政策的には、重要視することが出来る。その一端を「港大尋(みなとおおひろ)」の音源を中心に、私が遭遇してきたユニークな音楽に見てみよう。 限界芸術の一つ、あるいは擬似限界芸術(限界芸術´)として、無名の職人や音楽師による分野を想定することが出来る。音楽では、軍楽隊や市中音楽隊、その蔑称でもあった「ヂンタ」、その流れともつながるチンドン屋の音楽である。職業である点で、だれでもアーツというよりも、実用芸術という呼び方、チンドンの場合はとくに宣伝音楽と呼ぶようが正確ではあるが、ここでも、実用音楽と先端音楽の出会いが見られる。先端音楽といっても実験音楽というよりも、広い意味での政治性・社会批評性をもった反商業的音楽と考えたほうがいいかも知れない。 2. 楽しい(すごい)と私は思うけれど、世間的には評価が定まらない音楽の自在性 A JON『SMOKE』1995-6 B 上田假奈代『詠唱 日本国憲法』2004 C 『イカタコキスキスタイカイ』2006 & シモダノブヒサ『ソングブック』2005 4-2 植物図鑑 01 12 3. 港大尋の世界 A 『ちゃのは』1997 & そしえて・こんとる・えた『ありったけのダイナシ』2001 B がやがや+港大尋『がやがやのうた』2007 今日は、夜に組合の大会があるだけなのだが、副査になった卒業研究14部を読むために、出かける。雨。昨日よりは少し寒さはましか。 小松和彦『異人−民俗社会の心性』(ちくま学芸文庫、1995)を読んでいる。中沢新一と親しかったりして、中沢新一の本は昔からなじみなので分かりやすい。ただ「六部(ろくぶ)」って恥ずかしながらどんな巡礼かしらなかったので、検索しておく。研究がいまさかんなのかも知れない。 1回のゼミ生が「ヒガシガシ−東山発!活動まるごと 情報誌」(vol.16、2008冬号)を研究室の前に置いていた。東山青少年活動センターのかわいい広報誌。うちの一回生と二回生が担当している。来年は1回生を発掘するのがむずかしいかも。 そのヒガシガシに、上品芸術演劇団第3回公演『さなぎ』の記事が・・・おっと、3/29の19時と3/30の15時。めくるめく紙芝居と重なっている。まあ、3/29はリハーサルが終わって駆けつけることができるかも知れないが・・・ 『だれも死なない』のトーン・テレヘン、彼の最近の絵本が研究室にある。 こちらもなかなかにいい。魔女の宅急便のようには、魔女が成長したりするのではなく、何だろう、魔女は魔女なんだから、小さくても魔力があって人間とは違うぜ、という感じ。それと、人間も犬もクマも、魔女からみたら同じ平凡な存在だという扱いもおもしろい。 建築インテリアを中心とするゼミの卒業研究の副査なので、扱っているものが具体的だったりして楽しい。年老いてゆく犬と暮らす住居だったり、お風呂屋さんだったり。広告デザイン、チラシのレイアウト研究というのもあって、その広告の定義を読んで、おお、と思った。 『新しい広告』(電通)からの定義だそうだが、広告とは「明示された広告主が、目的を持って、想定したターゲットにある情報を伝えるために、人間以外の媒体を、料金を払って利用して行う情報提供活動」だという。 だったら、チンドン屋さんとか、むかしの飴売り飴勝とかは、人間が媒体だから、広告じゃないということになるのだろうか。あるいは、音楽つきとか、節回し口上とかになれば、それは通常の人間ではない媒体ということで、広告になるのだろうか。どうして「人間以外の媒体」とするのか、文献を見る必要があるけど、妖怪だったらまさしく広告かもなあ。 午前中、3/26締め切りの文章を作って、企画広報課へメール。自己点検評価について。 また、はじめて、山科でかえっこバザールをすることになっていて、6/8だけだと子どもたちが学習できないので、主役にはなれないから、事前に行うことになった。いまのところ、5/11に山科青少年活動センターをお願いできないかと思っていて、もし、都合がつけば、藤浩志さんに来てもらえればなあとつぶやく。正式にセットしたら、私かメンバーが藤さんにお願いしようかと思っている。そのまえに、いろいろノウハウを問い合わしたり、かえっこグッズの購入などを検討する必要あり。 他方、わたしは、08年度2回ゼミ生の顔を出来るだけ早く知って、うまく自発的にこの試みに参加していくようにする必要がある。前期のゼミは、かえっこと子どもの文化フォーラム中心にするのだが、その空気をどうつくるかだ。あと、4/29(火曜日=休日)が、うちは授業日になっていて、NPO法人山科醍醐こどものひろばさんが毎年行っているこどもフェスタとぶつかるのが残念ではあるが、ちょうど3時限目がゼミなので、4限目以降授業を入れていない学生がいれば、一緒に出かけようと思う(じつは、わたしは1限目と5限目に授業が入る予定なのだが・・・)。 早く帰って、のんびり。この前の音楽教材の続きを作る。 A COMPOSTELA『歩く人』1995 B 林栄一・中尾勘二・関島岳郎『PHOTON』1999 C 大熊亘ユニット『シカラムータ』1998 D こまっちゃクレズマ『こまっちゃくれ』梅津和時率いるクレツマー(クレズマ) E フレイレフジャンボリー『クレイズマの花は甘く咲く』2003 瀬戸信行他 F 映画『UNDERGROUND』(エミール・クストリッツァ監督、1995)のサントラより G 三田村管打団?『!』 森本アリ代表 今年は、意識的にことばのアーツの記録もちゃんとしておこうと思っている。一つには、外に出ることが40歳代より億劫になってきているために、家でアーツ鑑賞することが多くなっているからだが、それとともに、映画はじめ多くのアーツにおいて、文学や漫画が原作となることが多いからでもある。その場合、双方の読み比べ、見比べがアーツ鑑賞の愉しみを増やす。 という前振りで、夢枕獏『陰陽師〜付喪神ノ巻』(文春文庫、2000)。陰陽師シリーズ3作目(わたしは、順番は違うが4作目の読書)。最後に中沢新一の明解な解説がある。まあ、だいだいみんなうすうすそう思っていることだが、「安倍清明と源博雅がペアとなることで、霊力であるモノを取り扱う技術と、現実の世界を構成するモノを取り扱う技術とが、ひとつに結合できる」ために、緊張ばかりではなく、剽軽さもあわせもつ「新しいタイプのハイブリッドなシャーマンが誕生」したというのである。 付喪神というのは、年を経た道具や器物(まれに動物など)に精霊が生じ妖怪化したものだが、実は、この巻で、直接そういう付喪神が主役にはなっていない。ただ冒頭の「瓜仙人」には、お化け屋敷が出ていて、それはまあ、屋敷が妖怪化しているのは、皿屋敷が更地と関係しているという分析もあり、そうだなとは思う。 この巻も、鬼となったり、生霊、死霊、成仏できない幽霊が中心である。そうそう、付喪神の付喪は、「九十九」の当て字だそうで、神は髪とも置き換えられるから、この巻で、髪が重要な役割を果たすとすれば、付喪神ノ巻というのも、九十九髪ノ巻と見れば、当たっているのかも知れない。髪が古来からその人の霊魂が宿るとされているのは、日本人特有の葬送文化における人骨フェチとともに、かなり独特なようにも思えるけれど(ex.太平洋戦争で恋人の髪をお守りにする特攻隊)また調べてみる必要があるな。 夜、加藤泰監督ファンのなかで「最も愛すべき作品」として挙げられるという映画、『喧嘩辰〜車夫遊侠伝』(1964年、東映/京都撮影所作品、99分)を観る。人力車が大阪駅に待機する明治時代後半。時代劇でもなく、任侠物そのものでもなく。ヤクザの世界が車夫の世界でも仕切っていたのだなあとは思うし、柔術師(嘉納治五郎に敗れて大阪に来る)がヤクザの組長になって、女子大生の妹が東京から来たりして、抗争ものではあるのだが、全体的にコミカルで一応恋愛物とも言えて、しかも映像が美しい。 それにしても、大阪から有馬温泉まで人力車で行けたのだろうか。主人公辰五郎に内田良平。主人公と何度も結婚式をしようとする芸者、喜美奴に、加藤監督好みの桜町弘子。新人歌手だった北島三郎が弁当売りだったり、やはり新人だった藤純子がばってきされて、ういういしいキスシーンをしたり、見所いっぱい。もちろん、ローアングル満載、人物の上下が切り取られる画面、そして、縦の構図で長廻し。 個人的には、ヤクザの親分(曾我廼家明蝶)が、扇町の監獄に入所するときに、「美しき天然」をブラスバンドが演奏するにぎにぎしいシーンに痛く感銘を受ける。市中音楽隊がヤクザの入所式(盛大なもので、これはきっと葬儀のときと近いのではないかと想像)に活躍するなんて(うるうる)。あと、覗き小屋の囃しも面白かった。 今日は、名古屋でお芝居を見に行こうと思っていて、そう連絡していたのだが、ぐずぐずしているうちに出られなくなった(七ツ寺スタジオのみなさま、すみません)。 水曜日のTAM研のときに、たまたま、ロリータファッションの本が机にあって、学生がそれを話題にしていた。戸川純が元祖ロリータ少女だという部分、4人とも戸川純を知らなかったので、少し映像を見せたりする。じつは、わたしもあんまり知らないが、少し前、フジハラビルで彼女が出るお芝居をみたなとあとで思い出す(2006.3.25 http://kogure.exblog.jp/3397708/)。 嶽本野ばらというロリータ系では有名な人の話になって、そういえば、『花形文化通信』(そのときは、このフリーペーパーの名前は出なかった)でよく彼が書いていたなあと話すが、もちろん、この通信のことも彼女たちは若いので知らない。藤本由紀夫さんの展覧会などを企画している編集長というか、この通信の主宰者の名前もまた出てこない。調べて、そうそう、繁盛花形本舗の塚本真美さんだったと思い出す(モダンde平野のときだったが、一緒になったこともあったのにね)。 大学で、アーツ鑑賞演習の最終授業。 あわてて、栗東市さきらへ。 そして、今日のメイン、さきら運営協議会企画事業 さきら公開セミナー2「公共文化施設と文化ボランティア〜非営利アーツマネジメントの愉しみ〜」を19時から21時まで(感想や質問をお一人ずつ言ってもらう時間がとれなかったので、それは、第3回目にすることに)。 前半は、大学の授業のような話。でも、じつは、文化ボランティアについては、いままで大学でも話したことがなく、新鮮だったが、なかなか考えがまとまっていないし、いろいろな考えがあるということに留めた。 後半は、音楽を例示として、限界芸術と先端芸術の関係を話し聴いてもらう。これは、やってみたかったものだし、これから色々もっと工夫すればと思う。もちろん、大学でもやっていく予定。3/1には、ブラス、路上音楽、チンドン音楽という後半部分を行ったあと、ちょっとしたまとめをして、そのあとは自由に話し合いたい。 夜にかけて、二度見て、二度とも泣き笑いしてしまった。 江戸の下町風の人情が公務員にも移るところが、落語の伝統ともいえるし、公務員とかおっさん的無責任説教だって、嫌味にならず、愛嬌となる。枕は、富山空港のうどん屋のカバン取り間違えと、一番悪いはずの人がまるで謝らないディスコミュニケーションで、一番辛口。その枕から、間髪入れず、「わんたんめん」の注文に入るところが絶妙である。ママさんコーラスとパルコ劇場の取り合わせも意外感100%。 教材として使えるかどうか。アーツマネジメントとか文化行政として(もちろん、落語自体の可能性を考える絶好の教材であるのはもちろんだが)。使えるとして、考えてもらうポイント。 検討事項としては、お役所における文書主義がまずあるな。 きょうは、元立誠小学校における企画(Rissei Show)にも行こうと思っていたし、久しぶりにカフェでのコンサートもいいなあと思っていた(ダイニングカフェ+雑貨マーサ「合奏の会」)。 |