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こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.11/24〜11/30 こぐれ日録617 2008年 11/24〜11/30 11/24(月、休日) 10時から京都芸術センターで、キャリア開発講座の授業。 3名には、道々、近代化建築などに触れてボソボソ。京都国際マンガミュージアムではぜひ紙芝居の実演とか、古い漫画とかを見てねといって、送り込む。 2時過ぎになって、あとは、感想を書いたり、自分でもう一度、旧小学校のまちつかいを観察するように言い残して、アトリエ劇研へ。 帰り、いつもすぐにビールを飲んで松ヶ崎になるので、少し戻ってパン屋でパンを買う。今日もアルコールを抜く。2日目。 昨夜、黒沢清『ドッペルゲンガー』(2002年、107分)を観て、今日のあさ、大学に行く前、インタビューやメイキングを観る。 彼の映画をこれで21本見たことになる(大半はこの1ヶ月ぐらいの間)。 演劇と比較するのは、一応慎重になるべきだ。 黒沢映画は、適当に現場で作られていくように見えるが、その前の彼の映画史的鑑賞蓄積が半端ではないこと、その前後の反芻と反省が開けてつつ熟成していくところが、すごいところ。 もちろん「黒沢的蓄積」は、演劇なら演劇でないといけないということではなく、多くの場合、映画とか文学とか哲学・思想とか、場合によったら、漫画やゲームとかの鑑賞や経験でもいいのかも知れない。でも、漫画やゲームの枠を超えるように見つくす、やりつくすとは何かというのは、自分には想像しにくいが。 ダンスにおいても、ダンス史的鑑賞経験蓄積というものがいるのではないか。美術や映画、音楽では、その創作において、美術史的鑑賞経験蓄積、映画史的鑑賞経験蓄積、音楽史的鑑賞経験蓄積は前提となるように思うのだが、どうして、演劇ダンスはそれがあんまり語られないのか、ということかな。 黒沢映画関係のことを続けると、彼の映画は決定的瞬間を回避する映画だといわれていて、黒沢清による映画批評においても、この説明的ショットがあるので、台無しだということがよく出てくる。 が、アーティストの責任とは、それへの社会的批評にじっと耳を傾けつづける姿勢であり、 大学に、文化政策学科の一期生のKさんが来ていた。 今日が無事終わればいいなと思っていた。夜のレクチャーのこと。 9時から『アウトサイダーライブ』(いまだ仮称だろうが、ほぼこのタイトルになる確率高し)の編集会議。ずいぶんと原稿があつまる。なかなかみなさん、力作だし、ありがたい。あと、西川さん(さきら)、細馬さん、志賀さん・・・よろしく、です。 大津から大学へ。教務委員会は出ようと思ったが、学部教授会との関係もあり、S先生に代わってもらう。また、14時から、今度は『アートはボーダレス』(これは、このタイトルで出ると思われる)の編集会議へ。『アウトサイダーライブ』は、この『アートはボーダレス』の別冊的位置づけになるので、できれば、同じような体裁のなかの色違いみたいな感じがいいだろうという話などをする。 で、私学会館。まだ時間がかなりあったので、ぶらぶら。MASHというパン屋さんを探したり(仏光寺の南がわ)。 http://www.asahi.com/politics/update/1126/OSK200811260001.html?ref=goo(2008年11月26日6時35分)より一部引用 長岡京で授業。5名なので、軽く。でも、まあ、それなりにちゃんと。 専任の先生から、来年もよろしくといわれる。午後からの方が自分としては助かるのだが、 そうそう、建築探偵たぬきさんが授業の始まりと終わりの2回出席票を取っているという。いずれも大変なんだなあ(それでも、中抜けとかもあるしなあ)。こちらは、5名とかなので(最大は10名かな)、それは楽といえば楽(受講者は少なすぎてつらいかも)。それにしても、中抜けしたりする受講生は何のために授業に出たり大学に来たりしているのだろう・・・(そりゃあ、単位のため、といわれそうだが、じゃあ、何のために単位がいるかといえば、卒業するため、だろうから、どうして卒業するのか、といえば、卒業しないと就職に不利になるから、ということになるのか・・・) ところで、「石畳と淡い街灯のまちづくり」 の「淡い街灯」とは何だろう。 昨日、話しながら、ふと疑問に思っていた。よさげなフレーズなのだろうが・・・ 「淡い」の反対は「鮮やか」だよね、イルミネーション(電飾)とかライトアップ(照飾)の一般イメージは「淡い」とは違うようにも感じるな。また、「発信する大阪」と淡いとはどうもミスマッチな感じがするし(もちろん知事さんは公約を府民は圧倒的に支持した!とおっしゃるのであろうが)、怒り出したり泣き出したり、演技力の旺盛な若い知事さんと「淡い」のイメージギャップをちょっと思った(まあ、昨日大阪府の予算を見たりしたので、そう思っただけで、無関係なのですぐに忘れるだろうが)。 昨日の原稿割り当て分を一応書く。 17時から南森町208で、『アウトサイダーライブ』に収録するための座談会。気がつくと、20時をすぎていた。 それにしても、NO-MAを運営する滋賀県社会福祉事業団(企画事業部)の先駆性は、この「アウトサイダーライブ」をまとめ、しかもそれで終わらせないという姿勢で、アウトサイダーライブの結節点をめざすことになれば、ますます、光ってくるなと思う。 きょうは、しずかでのんびり。 そして、5限目、政治学概論。 夜、すこしだけ、劇団四季の南十字星というミュージカルがNHKでやっていて、見ていて、かなりおかしかった。大昔、浅利さんに国土庁の研修で母音の発生のワークショップをしていただいたことがあったが、あれをいまも真顔で役者さんたちがしゃべっているのだ。母音が長くて、これはかなり笑える(ときどきミュージカルギャグをお芝居で見たりするが、いやあ、本物のほうがシュールだは)。・・・でも、ガムランとかインドネシアのダンスをこんなにテンポアップして適当に使うというのは、ちょいとまじめに批評する人がいてもいいのだろうけれど・・・(これも、創価学会とか北朝鮮とかと同じく、時がきてからなのかも) 大学に行く前に、黒沢清『奴らは今夜もやってきた』(1989年、38分)を観る。「危ない話」第2話、石橋蓮司。 野村誠+野村幸弘「取手の音楽」。こちらは、授業に使えるかなという感じでごはんを食べながら見出したのに、食い入るように観てしまった。映像と演奏がこれほど巧みに、しかも、技巧を感じさせず、すべて偶然の出来事のようにあるというのは他になかなか見当たらないかも知れない。 とりわけ、駅の自動改札での演奏はスリルがあったし、キリンビールのベルトコンベヤーとのセッションなど、思いがけない場面がまんさい。最後の商店街(白山だったか)はここでかえっこバザールもしたんだなとか、その暖かい交流の空気を一緒に感じられる。 鑑賞演習は、たまたま、劇団四季の演技があまりにも大時代的没個性紋切り的なものだったので、少しそれも流して(南十字星)、演説型の演劇と会話型の演劇という単純な比較をしておく。ただし、少しその間もいるので、アングラ演劇的な新宿梁山泊も少し見せる。 そのあと、青年団『北限の猿』の一部を配役を振り分けて読ませた後、一緒に観る。83分と短く、16時10分までまだ時間があったので、ちょっとだけ、『暗愚小伝』も流す。 今日に、飛ぶ劇場@精華小劇場を動かそうと思いつつ、明日のメックバッティングの処置をしなかったのは失敗。 黒沢清『大いなる幻影』(1999年製作、公開は99〜00年にかけて。95分)。 武田真治はあんまり興味がないが、唯野未歩子というマルチなタレントには少し関心が出る。外国便の郵便局の半透明のカーテンがなかなかのもの。これじゃあ、フランスには届かないなと納得させて。ホラーではないが、骸骨になった戦士が海に流れ着く。消えていく日本とその住人たち。半透明になったりするのは、いまの日本の心境の先取りかも。世界地図に日本がないのはすごく面白かった。花粉症、無国籍、奇妙な窓の緑。Jリーグの観客席がらがらとかユニホーム広告がとれないというニュースを見ながら、この映画のパレードを見るのが不思議にマッチする。 13時から16時、めくるめく紙芝居ワークショップ。再演の予定。でも、ハニャマノハミューダ島の物語は半分消えつつある。拡大模写は面白い。3人チームの音楽即興が楽しい。4回生はみんな就職が決まったのでパチパチ。メックをすると就職活動が成功するというジンクスができるといいな。 かえって、UrBANGuildでのtake-bowのアコースティックギター即興演奏のDVD(送っていただいたもの)を聴く。はじめの17分ぐらい、ギター弦からの音が出ないでその緊張感がすごかった。そのあと、1時間以上、これもくぎづけ。篤姫がはじまるので、ようやく、意識が戻るが、この感覚、音だけに身体が集中する快感が、アーツ鑑賞の究極のエクスタシーなのだろう。 それにしても、篤姫だけではなく、NHK演出の特色だが、相槌(によるテーマの明確化)という不自然な演出はどうにかならないかな。 |