こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.11/24〜11/30


こぐれ日録617 2008年 11/24〜11/30

11/24(月、休日)

10時から京都芸術センターで、キャリア開発講座の授業。
3名だけ出席。でも、とても熱心に展覧会を見ていて、なんか、文化政策学科の学生たちよりも、すれていない分、いい感じ。
雨が降り出すが、室町通りを北に進む。
誉田屋さんを覗く。
しまっているので、ずんずん進むと、大きな蔵。そこにあるSHINAというブティークの前をUターンしかかると、呼び止められる。大山さんという熱心な女性に案内してもらう。2階では、永澤陽一という服飾デザインでは有名だという人の展示があった。シマウマのズボンなど。

3名には、道々、近代化建築などに触れてボソボソ。京都国際マンガミュージアムではぜひ紙芝居の実演とか、古い漫画とかを見てねといって、送り込む。
こちらは、手ぬぐい屋さんを冷やかしたりしつつ、また、京都芸術センターへ戻る。
今度は、2回生ゼミ。同じように、スロープの窓のリズムや番組小学校のことや、あとインスタレーションのことなどを話す。午前中は、2階講堂に入れたのだが、午後はモーツァルトのピアノリハーサル中だったので、ときどきドアが開いてピアノの音が大きくなったりして、少し、小学校の音楽教室のそばにいるような感じだなと思う。

2時過ぎになって、あとは、感想を書いたり、自分でもう一度、旧小学校のまちつかいを観察するように言い残して、アトリエ劇研へ。
ほとんど満席。壁ノ花団第四回公演『アルカリ』作・演出:水沼健。
ストーリーというか、設定はチラシにもすでにあるようにできている。
あとは、独り言とか、ぶつ切りとか。トランクがいっぱいなのは、どこかで同じようなステージを見た気がする。AI・HALLだったか。
F.ジャパンの冒頭の小さすぎる服。金替康博がジャパンの服を着ていて取り返す。でも、女(内田淳子)は、どうもジャパンにはなびかない。トランクで階段を女に作ってやって、結局、金替に取られてしまうというシチュエーションにジャパンが悔しがるところが面白かった。60分ちょっとのステージ。悪夢までいかない、まだらうたたねで見る夢の破片。

帰り、いつもすぐにビールを飲んで松ヶ崎になるので、少し戻ってパン屋でパンを買う。今日もアルコールを抜く。2日目。


11/25(火)

昨夜、黒沢清『ドッペルゲンガー』(2002年、107分)を観て、今日のあさ、大学に行く前、インタビューやメイキングを観る。
篠崎誠さんが言ってたように、「すてばちコメディー」だな。「一瞬だけ成立する連帯」の不均衡な状態での握手というのも面白かった。

彼の映画をこれで21本見たことになる(大半はこの1ヶ月ぐらいの間)。
個人研究は確かに面白い(映画では、エリック・ロメールはほぼ全部〜オムニバスとかがまだ未見のものあり〜観たし、小津安二郎もだいたい観た)。一応授業のためであるが、もうそれはどうでもいいような・・・

演劇と比較するのは、一応慎重になるべきだ。
でも、一応書いておくと、

黒沢映画は、適当に現場で作られていくように見えるが、その前の彼の映画史的鑑賞蓄積が半端ではないこと、その前後の反芻と反省が開けてつつ熟成していくところが、すごいところ。
で、それと比較して言えば、お芝居をみたとき、この作者は、そういう「黒沢的蓄積」があるな、と思うときもあるし、底が浅くてその底とか魂胆が見えてしまい、もう面白さがはじめの数分でなくなってしまうことがあるのだなと思う(つまり、ぶっちゃけていうと、演劇史的鑑賞蓄積がいまの演劇者にどれだけあるのかどうか、についてふと思ったのだった)。

もちろん「黒沢的蓄積」は、演劇なら演劇でないといけないということではなく、多くの場合、映画とか文学とか哲学・思想とか、場合によったら、漫画やゲームとかの鑑賞や経験でもいいのかも知れない。でも、漫画やゲームの枠を超えるように見つくす、やりつくすとは何かというのは、自分には想像しにくいが。

ダンスにおいても、ダンス史的鑑賞経験蓄積というものがいるのではないか。美術や映画、音楽では、その創作において、美術史的鑑賞経験蓄積、映画史的鑑賞経験蓄積、音楽史的鑑賞経験蓄積は前提となるように思うのだが、どうして、演劇ダンスはそれがあんまり語られないのか、ということかな。

黒沢映画関係のことを続けると、彼の映画は決定的瞬間を回避する映画だといわれていて、黒沢清による映画批評においても、この説明的ショットがあるので、台無しだということがよく出てくる。
アーツは発信しない、というテーゼとともに、だから
アーツは説明しない、というのも系としてあるのかも知れない。
・・・・
否定形の定義は潔くないけど、とりあえず、
アーツは発信も説明もしないまま、誰かある人に見とどけられる「あるもの」である。
「あるもの」ではよくないので、「嘘」(嘘=超自然的存在表現/非在的表現という定義のもと)とすると、
アーツは、誰かに見とどけられる嘘である、となるか・・
・・・・
で(脱線したが)、アーツの説明責任という言葉は語義矛盾だということも分かる。
最近、アーツの説明責任(アカウンタビリティ)論がブームを終わっているようでほっとしている(プロとしてのアーツマネージャーにはアカウンタビリティが要請されるのは当然だろうと思うが、アーティスト自身がマネージャーでもあるときには、無理強いはできないし、ペラペラ説明するアーティストは「発信」媒体には便利だろうが碌なものではない)。

が、アーティストの責任とは、それへの社会的批評にじっと耳を傾けつづける姿勢であり、
逃げないということなのだろうと思う。弁明することもあるだろうが、説明ではなく、応答なのである。どういう形の応答責任(レスポンシビリティ)が出来るのか、いいのかは、そのアーティストのアーツの様態ではあるが、
基本は次の作品で応えるということだろう。

大学に、文化政策学科の一期生のKさんが来ていた。
2回生のゼミに混じってもらう。文化政策学科がなくなるということを知らなかったみたいで驚いていた。
発表のあと、「芸術の発信」って違うんだよという話しをしたが、時間がなかったので、みんなよく理解できていないようだった(このブログはまるで読んでいないようである)。
ちゃんと、90分、このこととか、イベントのこととか、話し合う必要があるのかも知れないな。


11/26(水)

今日が無事終わればいいなと思っていた。夜のレクチャーのこと。

9時から『アウトサイダーライブ』(いまだ仮称だろうが、ほぼこのタイトルになる確率高し)の編集会議。ずいぶんと原稿があつまる。なかなかみなさん、力作だし、ありがたい。あと、西川さん(さきら)、細馬さん、志賀さん・・・よろしく、です。

大津から大学へ。教務委員会は出ようと思ったが、学部教授会との関係もあり、S先生に代わってもらう。また、14時から、今度は『アートはボーダレス』(これは、このタイトルで出ると思われる)の編集会議へ。『アウトサイダーライブ』は、この『アートはボーダレス』の別冊的位置づけになるので、できれば、同じような体裁のなかの色違いみたいな感じがいいだろうという話などをする。

で、私学会館。まだ時間がかなりあったので、ぶらぶら。MASHというパン屋さんを探したり(仏光寺の南がわ)。
ぶじ、『我が国における芸術政策の現状と展望―橋下知事の「大阪維新プログラム」をどう読み解くのか―』を話す。90分ぐらい話して、あと1時間は雑談会。そのあと、3日ぶりでビール。控えめにしておく。
何を話したかは、文字起こしもあるので、それを見て思い出すことに。まあ、できるだけ、数字で予算を中心に話したが、直近の記事を一応の枕とした。三輪和夫副知事が、私の2年後輩(自治省)だということなどを付け加えて(対決した小河保之副知事という方は調べたところ、1969年に京大交通工学科を卒業して大阪府庁に入った人のようで、三輪君が1980年入省だから、いろいろ国からの副知事は年齢の差を気にせずやりあわなくちゃいけないので大変だな〜自分も少しやってきたのだけれど)。

http://www.asahi.com/politics/update/1126/OSK200811260001.html?ref=goo(2008年11月26日6時35分)より一部引用
《 橋下徹大阪府知事が来年度予算編成に向けて各部局の担当者からヒアリングを受ける会議で25日、三輪和夫副知事と小河保之副知事が激しく応酬する一幕が あった。都市整備部の予算要求で、橋下知事がまとめた財政再建プログラム案に沿った削減水準よりも一般事業費が約10億円オーバーしていたことを巡り、両 副知事がそれぞれの担当部署の考えをぶつけ合い、議論が沸騰した。
《 都市整備部は、道路や河川の整備費など約1935億円を予算要求している。同部長が鉄道を高架化する連続立体交差事業のコスト増などを説明し、 「ルール違反は承知」と述べると、財政課を担当する三輪副知事が「違反要求のままでは他部はたまらん」と一喝。これに対し、都市整備部担当の小河副知事が 「連続立体などを枠内でやろうとしたら『淡い光』なんてやめてもうたら、となる」と述べ、橋下知事が重点政策として進める「石畳と淡い街灯のまちづくり」 事業の撤回をちらつかせる場面もあった。 》



11/
27(木)

長岡京で授業。5名なので、軽く。でも、まあ、それなりにちゃんと。
平岡伸太のニューススクランブルを2度も見せてしまう。
終わってから、spaceB、留学生2名(中国と韓国)のよる展覧会『林&丁展』。
また、フートンの北京やチョゴリの舞う韓国に行きたくなる。

専任の先生から、来年もよろしくといわれる。午後からの方が自分としては助かるのだが、
木曜日は午後から実習が入るのだそうだ。
夜の同大大学院の授業までの時間を有効利用できそうなので、2限目でもいいかな。

そうそう、建築探偵たぬきさんが授業の始まりと終わりの2回出席票を取っているという。いずれも大変なんだなあ(それでも、中抜けとかもあるしなあ)。こちらは、5名とかなので(最大は10名かな)、それは楽といえば楽(受講者は少なすぎてつらいかも)。それにしても、中抜けしたりする受講生は何のために授業に出たり大学に来たりしているのだろう・・・(そりゃあ、単位のため、といわれそうだが、じゃあ、何のために単位がいるかといえば、卒業するため、だろうから、どうして卒業するのか、といえば、卒業しないと就職に不利になるから、ということになるのか・・・)

ところで、「石畳と淡い街灯のまちづくり」 の「淡い街灯」とは何だろう。

昨日、話しながら、ふと疑問に思っていた。よさげなフレーズなのだろうが・・・
たぶん、淡い光の街灯、あるいは、淡い街灯の光の略だろう、で小河副知事が「淡い光」といったのかも。

「淡い」の反対は「鮮やか」だよね、イルミネーション(電飾)とかライトアップ(照飾)の一般イメージは「淡い」とは違うようにも感じるな。また、「発信する大阪」と淡いとはどうもミスマッチな感じがするし(もちろん知事さんは公約を府民は圧倒的に支持した!とおっしゃるのであろうが)、怒り出したり泣き出したり、演技力の旺盛な若い知事さんと「淡い」のイメージギャップをちょっと思った(まあ、昨日大阪府の予算を見たりしたので、そう思っただけで、無関係なのですぐに忘れるだろうが)。

昨日の原稿割り当て分を一応書く。
『アートはボーダレス』のコンセプト、1000〜2000字ということだったので、1543字ぐらいにした。タイトルは、《「アートはボーダレス」、その名の旅のはじめに》

17時から南森町208で、『アウトサイダーライブ』に収録するための座談会。気がつくと、20時をすぎていた。
編集のアサダさんが大変だろうが、沼田さん、林さん、マキさんに事業団の山之内さんが加わり、混沌とした感じで話が弾んでいた。たしかに、インターネットラジオという手段は、ピーという部分があるので難しいといえばそうだが、文字起こしがないぶん、らくちんかも知れない。

それにしても、NO-MAを運営する滋賀県社会福祉事業団(企画事業部)の先駆性は、この「アウトサイダーライブ」をまとめ、しかもそれで終わらせないという姿勢で、アウトサイダーライブの結節点をめざすことになれば、ますます、光ってくるなと思う。


11/28(金)

きょうは、しずかでのんびり。
午前中、来年度の予算要求表を作成して、K先生にメール。学科の集約を彼がやってくれるので助かる。
あとは、1回生の都市とアーツ、「怖いとは何か」をホラー映画で考える授業(このあと、怖いとヒトが感じるのはなぜか、怖くするのはどうしたらいいのかとすすむ予定。つまり、what? why? how?)。

そして、5限目、政治学概論。
麻生総理秘書官における、財務省と総務省の対立が、じつは族議員とかいろいろ関係しているのかも知れないということを少し思ったりした。いずれにせよ、官邸の官房長官、副長官の存在感のなさが一番の問題だろうが。

夜、すこしだけ、劇団四季の南十字星というミュージカルがNHKでやっていて、見ていて、かなりおかしかった。大昔、浅利さんに国土庁の研修で母音の発生のワークショップをしていただいたことがあったが、あれをいまも真顔で役者さんたちがしゃべっているのだ。母音が長くて、これはかなり笑える(ときどきミュージカルギャグをお芝居で見たりするが、いやあ、本物のほうがシュールだは)。・・・でも、ガムランとかインドネシアのダンスをこんなにテンポアップして適当に使うというのは、ちょいとまじめに批評する人がいてもいいのだろうけれど・・・(これも、創価学会とか北朝鮮とかと同じく、時がきてからなのかも)


11/29(土)

大学に行く前に、黒沢清『奴らは今夜もやってきた』(1989年、38分)を観る。「危ない話」第2話、石橋蓮司。
そのまえにあった、井筒和幸『ツタンカーメン王の呪い』も見たが、かなりきたない感じのもの。
それに対して、『地獄の警備員』的なのだが、もっとほのぼのして、初々しいファンタジー的要素もあるように見て思う。でも、古いトラックとか、洞口依子とか、味わい深い(http://www.yorikofan.com/abunaihanashi.html)。

野村誠+野村幸弘「取手の音楽」。こちらは、授業に使えるかなという感じでごはんを食べながら見出したのに、食い入るように観てしまった。映像と演奏がこれほど巧みに、しかも、技巧を感じさせず、すべて偶然の出来事のようにあるというのは他になかなか見当たらないかも知れない。

とりわけ、駅の自動改札での演奏はスリルがあったし、キリンビールのベルトコンベヤーとのセッションなど、思いがけない場面がまんさい。最後の商店街(白山だったか)はここでかえっこバザールもしたんだなとか、その暖かい交流の空気を一緒に感じられる。

鑑賞演習は、たまたま、劇団四季の演技があまりにも大時代的没個性紋切り的なものだったので、少しそれも流して(南十字星)、演説型の演劇と会話型の演劇という単純な比較をしておく。ただし、少しその間もいるので、アングラ演劇的な新宿梁山泊も少し見せる。

そのあと、青年団『北限の猿』の一部を配役を振り分けて読ませた後、一緒に観る。83分と短く、16時10分までまだ時間があったので、ちょっとだけ、『暗愚小伝』も流す。

今日に、飛ぶ劇場@精華小劇場を動かそうと思いつつ、明日のメックバッティングの処置をしなかったのは失敗。
夜は、家人がいないので、もういちど、黒沢清『カリスマ』(2000年公開、104分)を見る。
樹木がホラー的な要素を持つものだが、ホラーとかミステリーとかの範疇ではなく、一応、植物の妖怪性をベースにした、「共生不可能性」をめぐるドラマと適当にくくっておくか。


11/30(日)

黒沢清『大いなる幻影』(1999年製作、公開は99〜00年にかけて。95分)。
1937年のルノワール監督の同名映画とどう関係するのかな、と思いつつ、観たが、それより、テオ・アンゲロプロス『旅芸人の記録』とかアートシアター系の映像を連想させるもの(ユーロスペース、映画美学校が製作なので当たり前か)。深夜の若者の襲撃などから『アカルイミライ』の記憶が薄れているな、もう一度みなくちゃ、と思わされる。

武田真治はあんまり興味がないが、唯野未歩子というマルチなタレントには少し関心が出る。外国便の郵便局の半透明のカーテンがなかなかのもの。これじゃあ、フランスには届かないなと納得させて。ホラーではないが、骸骨になった戦士が海に流れ着く。消えていく日本とその住人たち。半透明になったりするのは、いまの日本の心境の先取りかも。世界地図に日本がないのはすごく面白かった。花粉症、無国籍、奇妙な窓の緑。Jリーグの観客席がらがらとかユニホーム広告がとれないというニュースを見ながら、この映画のパレードを見るのが不思議にマッチする。

13時から16時、めくるめく紙芝居ワークショップ。再演の予定。でも、ハニャマノハミューダ島の物語は半分消えつつある。拡大模写は面白い。3人チームの音楽即興が楽しい。4回生はみんな就職が決まったのでパチパチ。メックをすると就職活動が成功するというジンクスができるといいな。

かえって、UrBANGuildでのtake-bowのアコースティックギター即興演奏のDVD(送っていただいたもの)を聴く。はじめの17分ぐらい、ギター弦からの音が出ないでその緊張感がすごかった。そのあと、1時間以上、これもくぎづけ。篤姫がはじまるので、ようやく、意識が戻るが、この感覚、音だけに身体が集中する快感が、アーツ鑑賞の究極のエクスタシーなのだろう。

それにしても、篤姫だけではなく、NHK演出の特色だが、相槌(によるテーマの明確化)という不自然な演出はどうにかならないかな。
徳川の心を持ち続けてほしい、とか幽霊の13代将軍家定が篤姫にいうと、お決まりに、彼女が「徳川の心?!!!・・・」とつぶやく。これって他の演出にできないのかしら。


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