こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.11/3〜11/9


こぐれ日録614 2008年 11/3〜11/9

11/3(月)

あさ、少し遅くなって、タクシーで1限目に会う約束をしていたので、六地蔵から大学へ。
でも、学生はもっと朝寝坊して、昼前にようやく来た。

4限目のゼミ。
社会についての復習と、一応の社会学による定義。
次は幸せについて。幸せについて連想する言葉をいっぱい書いて、その否定、つまり不幸せについて考えることで、不幸せの不在としての幸せという否定の否定を考える演習。では、来週は何にしようか・・・
候補:不幸せ 社会の幸せ 恐怖 恐れと畏れ

3限目はダンスのつづき。
他学科の学生でかなり執拗に拒否文言を書く学生がいて面白い。
先週はこんな感じだった・・・「NHKでゲストできた北村さんのDanceは、正直きもちわるい。としか思えません。あまり私には理解しにくいダンスでした。それならきっちりしたHip hopとかみたいナーと思いました。」

じつは、これだけでもかなり自分的にはショックで、まあ、仕方がないと思っていたので、今日つぎのようなことを書かれてもまあ、そんなにびっくりはしなかったけれど、こう多く拒否の言葉を書くというのは、この授業に出たいのに、どうしてそんなものを見せるのか・・・という感じで少し興味ぶかいのかも知れない。まあ、もう今日でコンテンポラリーダンスを一般の学生たちに広く見せるのは、こちらも疲れるし、土曜日の授業で十分なので、あとは、演劇で行こうと思いますが・・・

その「気持ち悪いダンス憎悪」学生さんのコメント(DVDとビデオを見た感想ということで、4人のダンスというのは「ローザス」の椅子のダンス、太い女の人は先週に続いて北村成美さん、巻上公一さんとのデュオです)は、Moreに載せておこう(まあ読む必要もないかも)。

ただ、よく、感想に出てくるのだが、「何を伝えたいのかわからない」というのがここにもあって、今日も2回生のゼミ生も、ダンスは何を伝えたいかわからない、とか、テーマが分からないとか、意味わからへんし、とか言っている。土曜日に見せた演劇だと、わたし頭悪いし・・・ということで自分の鑑賞力についての反省がいささか見られるのだが、ダンスとなると憎悪や反発などがそのままでるのかも知れない。

訳分からなくなるスリル、宙ぶらりんの余韻、じぶんで愉しむ推理、常識への一撃、ぽっかりとあいてしまううっとり感・・・・とか、コンテンポラリーダンス鑑賞においては、しばしば、ダンスと自分の間に何かが起こるのだが・・・・

まあ、生でないと映像ではいささか無理があるのかも知れないな(まえに、大量のビデオ審査をしたことがあり、やはり、一度生で見たダンス以外でいいかも?と思ったダンスはなかなか出会えなかった。でも、特によくないな、でも、こういうダンスに票を入れる人は多そうだというものはチェックできたし、生で見てみたいとオモッタものは少しあって、前者はライブでもやっぱりひどく、後者でいいものがあったな・・・)。

そこが、ダンス、それもバレエとかヒップホップとかのようなテクニックについての感動・驚嘆(依存と序列化ともとれるが)がなく、フォーム・スタイル・ルールも制度化されてない=自分たちで構成できる、生のダンス(フィジカルシアター)の面白さ、なのけれどね。
まあ、????という気持ちがでて、それを産み落とすということも、アーツ鑑賞の第一歩として、重要な作用があることが観察できるのだからいいのだが、どうも、受け付けない姿勢という頑なさが気になるかも・・・

「気持ち悪いダンス憎悪」学生さん(文学部日本語日本文学学科、2回生)のコメント

《正直、今日みたDVDは、すごく気持ち悪かったです。太い女の人がブラとパンツだけになっておどるし、それを芸術として受けとめるん?てかんじで。全然キレイとも思わないし、おもしろくもないし、外国人の女の人4人のダンスも、みていて気分が悪かった。こういうことを学ぶの?て思います。何を伝えたいのかわからない。他のダンスとちがうというのはすごくわかるけど、何が楽しいのかうつくしいのかさっぱり。こんなんならエリザベスをずっとみてたかった。
文句ばっかですが、本当に今日のDVDは、理性が受け付けないというか、こんなダンス、ダンスちゃうわ、て思いました。こんなんなら16日も行きなくないです。》

16日というのは、糸賀一雄記念音楽祭のこと。『エリザベス』をちらりと見せたのは、宮廷でのダンス(ヴォルタ)の様子などを少し見せたのでした。

この学生の「芸術」って、なんでしょうね・・
「他のダンス」というのが、意外にこの学生には身近にあって(自分もひょっとしたら踊っていて)、それと違うものは受け付けない、自分たちのジャンルのダンスがいいのに、どうして、自分たちより「キレイでない」「芸術していない」私を不快にするようなものを見せるのか!という抗議なのかしら・・・

ダンスを見る、鑑賞する能力も必要だということを、どうやって伝えられるのか。悩んでも仕方がないんですけどね・・・

そうそう、ダンスを見せる授業ではなく(鑑賞演習ですればいいのでした・・)、ダンスなどをマネジメントする授業なのですが、ダンスをマネジメントしようにもいまのダンスを知ってもらわなくちゃと思ってしているのでした。遠い道のり・・・・無理がたしかにあります「アーツ」を経験していない学生たちがそれをマネジメントしようとするのは・・・

もちろん、こういうコメントもあります(男性 4回生、現代マネジメント学科)。大野一雄さんを「おばあさん」と書くところもいいな・・・
《見たビデオは演舞と演奏、そしてお笑い?を混ぜたようなダンスがとても印象に残った。これは本当に何を表現しているのだろうか。正直、今の自分にはよく理解出来なかった。最後のほうに観たおばあさんがピアノの音に合わせ何かを表現しているダンスにとても興味を持った。悲しみなのか、喜びなのか、濃い名句を施していたので表情からは読み取れなかったが、とても美しいと思いました。》


11/4(火)

昨日、同僚の先生から、疲れていませんか?と聞かれた。
きっと、疲れているように歩いていたのだろう。
なんか、あれこれ、処理することが、雑多にあって、まとまらない。

午前中、京都府庁の会議。文化ベンチャーコンペティション実行委員会。ほぼ昨年並みの応募件数で、一次審査がなされてたので、それの承認、そして、これからのこと。3月1日に最終の公開審査になりそうだ。

それにしても、11月は会議とか出席することがむやみと多い月なので、今日はノーアルコールにしなくちゃなあ・・・

そのあと、大学へ行き、2回生ゼミ。来年度のゼミ選びの票を渡す。
今日も、3名が発表。いい感じで質問と応答が繰り返す。自分のシラバス案に、かえっこバザールを2回生たちと一緒にする、というのを書いておけばよかった(今日、言おうかと思ったが、なんか媚を売るようでやめておいたけど)。

5限目、キャリア講座。いまは、法律の読み方基礎の基礎をやっているのだが、区切りがいいところに来たので、法律の前提となる社会って何?という4回生ゼミでやったのと同じ感じの授業をやってみた(いささか、修正あり)。
これは、富永健一『社会学講義』(中公新書、1995年)にお世話になりつつ、分類もしてから、特に市場(準社会)と企業(機能社会集団)の力が大きくなって、家族という社会(基礎社会集団)、コミュニティ(共同体)という地域社会が危機になっているよね、という話。

で、そのあと、この前、祭り研究で使おうと思っていた西陣の地蔵盆を撮った35年前の新日本紀行を流してみた。ただ、132教室のビデオとの相性が悪くて、カラーなのに(昭和48年)、モノクロになってしまって、地蔵さんの彩色や西陣織の帯の色が見せられなかったのが残念だった(でも、どうしてだろう?)。


11/5(水)

大学へ行こうと思って仕度していたのだが、どうも、からだが重い。
すこし、仮眠。授業は後期水曜日はないし、きょうは、めずらしく校務もないみたい。
演劇部の公演を見るね、と言っていたが、これは、わるいがパスで。

昨日の5限目、地蔵盆の映像を見た学生の一人が、地蔵盆を、
ずっと、児童のお盆、じどうぼん、って思っていましたといわれたことを突然寝ていて思い出した。
なるほどな。児童盆。大人のお盆のあとに、幼くしてなくなったりした児童の霊魂を慰める盆があると勘違いしていたのか・・・

アウトサイダーライブについて書こうとしたのに、マケイン候補の敗北スピーチが予想外にいいので、つい、オバマスピーチまで見てしまった。ノーサイドの笛とともに、互いの健闘を称える。それが、フェアプレイであり、アメリカ人の良識だという物語を踏まえたものではあるが、ちゃんと自分の言葉で話している感じがして、一瞬、USAだって地に堕ちてはいないかも・・・と思わせるイベントであることは間違いない(そのあと1日して株価が落ちたのもまた厳しい金融危機なのだが)。

でも、夕方からはじめて、7700字まで原稿が進む。まずまずの一日。
いま現在の目次案は、
【アウトサイダーライブは、境界をまたいで揺れて】
1. アウトサイダーライブは、気持ちがいい。
2. アウトサイダーライブは、不思議な経験。
3. アウトサイダーライブって、なんだろう。
4. アウトサイダーライブは、記憶を呼び起こす。
5. アウトサイダーライブは、社会を動かすマネジメント。
6. 観たいもの、見たことのないもの、視たくないもの。
以下は原稿なし
7. アウトサイダーライブは、境界をまたいで揺れる。
8. 語り始めたアウトサイダーライブは、・・・。


11/6(木)

10時半、京都芸術センターに着く。11時にここで授業なので、その前に、展覧会を見る。
椎原保展『時の風景』。
まず、ギャラリー南。ちょうど目の高さ(大人の目線かな)に、こどもの落書きやクレヨン、お人形などが空中につるされている。まんなかに鏡もつるされていて、光源が真横からあたることによって、それぞれにくっきりとした影をつけている。それも、鏡が揺れることによって、影の濃い対象物は偶然のもと、うつっていく。
ゆっくりした時間。しいはら、とかかれた緑色の手毬にぴったりのボールによって、これが作者の子供さん(たぶん、今はずいぶん大きくなっているのだろう・・・)のものと想像できるようになっている。赤いソノシートも気になる。下にある鏡に映るポイントを探したり、かなり時間が経つ。

あわてて、ワークショップルームへ。これは、建築の断片。シャープな鉄の線が、ひび割れた教室の床と呼応している。きれいなシャープさ。寄せ付けないほどではないが、単なる親しみやすさだけではない表現の多様性を楽しむ。

そして、ギャラリー北へ。映像がカメラで取り込まれている。中空の中ずりは南とつながっている。大きな時計。椅子。より、小学校の思い出に忠実になる。一行で思い出が書き込まれている。これは、あとで分かったのだが、入り口に、思い出を書き込んで入れるポストがあって、それをタイプされていくものなので、これからもっともっと多くなると思われる。
ちなみに、私は、「身体検査では、いつも記録係にさせられ、あるとき女子からとても厳しい目線を感じた」とかいうものを書いて入れた。

授業としては、5名の参加。事務室に行き、一階のスペースと二階の講堂を見せてもらう(学生にアポナシですか〜といわれる。丸井さん、山本さん、ありがとうございました)。

そのあと、大津市で糸賀一雄音楽祭実行委員会。すこし時間があったので、滋賀県や大阪府の文化行政を調べる。滋賀県の予算を見ると、だいたい、びわ湖ホール(これで減額されても持ち出しが10億円ある)中心に25億円ぐらいが文化行政費。一般会計が5000億円なので、0.5%ぐらいだ。大阪府の予算はなかなか見えないが、滋賀県より多くないことは明白。どなたか、都道府県の文化予算額を調べている方はいらっしゃらないかなあ・・・

夜は、同志社大学の院で授業。こちらも5名だった。日本文化行政史(戦前までは文化と行政の関係史というほうが正確か)の試み。能楽師が公務員であった江戸時代まで。


11/7(金)

なにか、まだ心身とも(心が頭脳以外にあるとは思わないのに、心って書いてしまうな)、調子がでない。2回生がゼミについて聞きにきた。こちらが教えてほしいのだが・・・どうしたら、ゼミってうまくいくものか、を。

都市とアーツ。どこで切るかがむずかしい。あと、上映中、コメントを少しは入れたいのだが、そのタイミング。映画館で映画を見るのではなく、授業として映画を素材にしている、と割り切るといいのだけれど。

5限目、政治学概論。
富永健一先生の講義を少しだけ聞いた(法学部だったが、文学部社会学科の授業はけっこう取ることができた)ので、かれの社会学を後半説明した。政治学は、社会学の一部ではないにしても、領域はずいぶん重なっている。とりわけ、ちょうど教科書が、国家(state)と国民(nation)社会との関係を論じていたので、社会集団(特に組織、機関)と地域社会(コミュニティ)の分類表が役立つかと思い、ボードに書く。

ボードに書きながら、32年前ぐらいに、こんな表を先生が黒板に書いていて、自分もせっせと写したことを無意識に思い出して自分自身がびっくりした。
まあ、講義に出るのは、本を読むのとは違って、体がどこか覚えているのかも知れない。ただし、みんな、英語とドイツ語ではなかったか(いや、配られたのはそうだが、日本語だったか)、こういう漠然とした身体記憶ではある。

法学部の京極純一先生の「政治過程論」のように内容をかなり克明に覚えているのは、おりおり、勝気と勝てば官軍、lost cause(敗北した正義)は日本にはない、密教と顕教とか、彼のフレーズが何かを説明するときに役立つからで、そこは、富永先生はじめ社会学科の先生の講義については他学部の者としていい加減だったなあと悔やまれる(ただし、都立大学からこられた先生〜マートン派〜に教えていただいた法社会学は、かなり覚えているし、昔は、パーソンズの社会システム論より、バーガーやシュッツだったからなあとも思い直す)。


11/8(土)

下鴨車窓(演劇ユニット名)の前回(第4回)公演『農夫』では、最後に文字を布に書き付けていくというきわめて印象的なシーンがあった。で、今回の『書庫』(アトリエ劇、作・演出:田辺剛、14時からの公演では、14:05〜16:56)では、その文字が書物になって詰まっている場所と続くのだなと、その続編ではないにしても、題名だけで関連づけたいように教唆している。

また、チラシには「作品について」という物語(寓話)の概要がすれに書かれており、地下6階が舞台になるとある。つまり、『農夫』において、都会から流れてきた兄弟ほかがかってに住み着いた地下室的場所がステージである。司書とその妻が主要な人物であることもすでにそこに書かれており、時を知らせる鐘のこと、本が運び出されてしまって、いっそう暇になっていることも、書かれてしまっている(どうして、本が運び去られているのかということは、芝居がはじまるとすでに述べられるが、そんなに説得的な理由でもない。一応、理由は、青年団『東京ノート』と同じような理由といっておくか)。

10日にまた見るし、詳しくはそのあとのアフタートークで述べることにするが、客席に入るとすでに霧がかかったような薄暗く、褪せたような黄緑色で背後から浮かび上がらせられたような書棚が、遠近法をトリック的に強調する(二人の門衛だったか、昔の田辺作品をすぐに想起させるもの)形で下手に並び、この演劇への期待感の強さをひしひしと感じさせている。

照明がとても印象的であるのは、言うまでもない(魚森理恵)。舞台美術(川上明子)、音響(小早川保隆)も、必要最小限の効果を最大に生かそうとしていて、こちらの感覚がそれとどれだけきちんと応答できるか、これは、炭鉱のカナリアではないが、観者が、リトマス試験紙になっているのかも知れない。

終わった後、杉山準プロデューサーに、傘を忘れないようにやさしく言っていただきながら、2時間の観劇体験が引き起こした視覚・聴覚の変容を緩めるように、ゆっくりと川沿いを横切ったり、たたずんたりして、帰った。役者的には、河合良平と一緒にニャンニャンしていた学生と背の高い受付嬢が、初見ということもあり、新鮮な驚き。宮部純子が、受付嬢で、高澤理恵が、学生かな。

一つでじつに満腹だったのだが(帰りに脚本を読んで、ハラダリャン、大熊ねこの語り術の巧みさを逆に感じたりした)、少し映画を見ようと、黒沢清監督『DOOR。』(1996年、88分)。知らなかったが、脚本の小中千昭(ちあき)という人はホラー映画では有名な脚本家であるらしい。『CURE』で、妻が「青髭」についてその結末を知っているという精神医との会話があるが、この作品は、前編が「青髭」物語をかなり意図的に参照していて、そういうつながりも面白く、時代の経緯による古めかしさ、とか、中途半端なエロスとかも散見される。

が、予想以上に黒沢映画らしい特色が出ているし(カーテンとかが、ドア以外にも境界的恐怖ツールとして出てくる)、楽しめる映画だった。田中美奈子、中沢昭泰、真弓倫子。
結末は、まあ、すこし、とってつけた感じもある。


11/9(日)

家人が、伊庭靖子個展「SENSE OF TOUGH」があると、小吹さんの京都新聞の記事を見せる。
円山公園内、ギャラリー、eN arts・・・知らないなあ・・・あったっけということで一緒に出かける(そのあと、彼女は『書庫』)。八坂神社の北側を行き、観光客相手の食事場のなかに、ひっそりと、そのeN artsがあった。東京のオーナーさんの都合で、ときどき、画廊をしているのだという。去年から。

茶室があったり、地下があったり。地下が照明を落として、彼女のコップ、グラスの絵だけをライトアップしていたのが珍しい感じがする。いいおうちに入ったような感覚を与える画廊で、これは、お金持ちの邸宅のモデルルームというか、モデル絵展示となっているのが、面白い。本の出版の原画など。細かいところを拡大する彼女の作風は一定でぶれていないのだろうが、インテリアとしても最上であるというところが広く愛させる所以だろう。

そのあと、滋賀県立近代美術館に行き、細馬宏通さんの講演、「身体は繰り返す」を聞き、そのあとも、去りがたく彼の話を応接室までついていって、ずっと聞いていた。
すごく刺激になる。

以下、細馬さんのお話の備忘メモ(メモをしだしたのは、彼のパワーポントが最後になってからなので、ずいぶんといい加減の記憶によっている・・)

「見せることへの希薄さ(本人はがつがつしていない)。繰り返して逸脱する(鉛筆の向こうへいく)。時間の積み重ねのすごさ。作品への執着ではなく、もっと違う執着(快楽・・・)のことについて」
「見とどける人について。身近な人が気づく。そういう人はアートビジネス的ではない。
アートの成立要件(それは、作る人と受容する人の間にある)・・・人が見とどけること。誰かがもっと見たい、とっておきたいと思う。もっと見たいと思うこと。
現代芸術とは・・・他の人がその人のつくるものをもっとみたいと思うこと。」
「アール・ブリュットとは、人の行動の痕跡。気の済むまでやりつくす行動の蓄積。その行動には終わりがある。それを表現というべきかどうか。痕跡?
アール・ブリュットとかアウトサイダー・アートとかいう言葉による定義は、操作的定義にすぎない。
言葉で名づける・・・上から目線となるのは不可避。」
・・・・
ということで、『アール・ブリュット―パリ,abcdコレクションより―』は、ほんの20分ぐらいしか眺めることがなかったので、もう一度こんどはちゃんと見に行こうと思う。ざっと見た中で、どうしても立ち去りがたく自分を呼び止めたのは、カレル・ハヴリーチェックの黒い影の馬。

アール・ブリュットという言葉を英語にしてアウトサイダーアートとなったとよく自分も説明するが、パリ,abcdコレクションの人のように、アール・ブリュットをアウトサイダーアートと言い換えてほしくないと思っている人たちも多いそうで、注意が必要なようだ。


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