|
こぐれ日録 KOGURE Diary 2008.9/1〜7 こぐれ日録605 2008年 9/1〜9/7 9/1(月) 手帳に、後期の時間割を具体的に書いていく。 11/18、火曜日は、午前中、音羽中の生徒たちが来て、そのあと、大津でシンポがあるので、どこかに振替しなくちゃ。京都芸術センターや中京青少年活動センターなどを見学することにしようか(11/24あたり・・・)。 1日中、家。たいしたことはしなかった。 神代辰巳監督の映画は、シネ・ヌーヴォーが梅田にもあったとき、1本だけ見たような気がする。それが何だったか思い出せないが、この夏、たまたまストリップ劇場研究関連で買って、今日、最後の映画、『真極道 棒の哀しみ』(1994年、121分、原作:北方健三)を見つつ、少しだけ、この監督を味わったような気になった。 ヤクザ映画なのだが、この主人公田中(奥田瑛二)のアパートの明るさと、きれい好きがとても意外で新鮮。冒頭、友情出演の桃井かおりと竹中直人と奥田瑛二とがバーで出会うシーンがあるが、これは、まあ、おまけ。 暴力シーンも、からみもそんなにない(後半、シャブづけにするところは、アウトローそのものだが)。永島暎子、高島礼子はきれいに撮られている。 夜、桑野通子をテーマにしつつ、戦前映画を語れないかとぼんやり思って(授業づくりになるかどうかは別として)、清水宏『有りがたうさん』(76分、1936年)を見直す。音楽指揮:堀内敬三、編曲:篠田謹治、伴奏:松竹管弦楽団。 いやあ、桑野もいいが、上原謙もいいなあ(加山雄三などお呼びじゃない)。主役は伊豆の風景、風物、村とその人びとの民俗だとしても、登場人物は役者のはず。ところが、役者とは思えないぐらいに素人ぽいのだ。たとえば、売られていく娘(築地まゆみ)と、その老母(二葉かほる)。老母の方が特に台詞棒読みなのだ。 その台詞棒読みが、違うのだが、素人の村人参加劇のような味わいがあり、オールロケというロードムービーだけに、よりいっそうこの映画のとてつもない先駆性にしびれてしまう。家にある桑野通子が出る映画は、小津安二郎の『淑女は何を忘れたか』と『戸田家の兄弟』だが、後者は少しだけだし、顔がずいぶん変っている。 午前中だけ仕事。さきらの運営協議会だった。今年度の第2回目。前年度の外部評価のことと、「栗東市財政再構築プログラムへの対応について」。去年の「地方公共団体の財政健全化に関する法律」によって、将来負担比率を公開しなくちゃいけなくなって、それが、このような騒ぎになったと直接的には言える。http://blog.goo.ne.jp/iniciative/e/c6ece30b0a9cbb5fd42568bdc144a545より「栗東市の標準財政規模は121億1200万円。これに対して、将来負担額363億3000万円のうち約114億円が新幹線新駅関連で、将来負担比率を約94ポイント引き上げている。」 まあ、大阪府とか周りの影響もあるだろうが、さきらも含めてその「運営方法・転用・休館を検討」しなくちゃいけなくなったのが、そもそも新幹線新駅関連が引き金なのだ。ただ、新駅をそのまま作るとするともっと、将来負担比率はアップしたのではないだろうかとも思ったりする(少なくとも、見返りが来る年度が来るまでは)。 あとは、声を上げることができるかどうかだろう。ウイングフィールドの話をしておく。それと、アーツプレース指定管理者のネットワークの可能性について。これは、当面のライバルということになる可能性もあるのだろうが、地方自治法の不備をなんとかするには、共同声明などを挙げるべきじゃないかと思ったりもする。 協議会のメンバーからは、寄付税制のこととか、市長などとの対話の話が出た。 京阪三条駅を降りて、安売りチケット屋で、堤幸彦監督『20世紀少年 第1部』(142分、2008)を1290円で買って、新京極シネラリーベへ。14:50からなので、受付をしてから、ぶらぶら、お寺の屋根に乗っている亀や桃や虎?などを眺めて時間をつぶす。蛸薬師の奥のほのぼのとした佇まい(アヒルがいたり、お墓が広がったり)が特にいい。 日本テレビが中心だし、監督もよく知らないテレビ的な人のようなので、作品としてはあんまり期待しなかったが、終わって商店街を歩くと、もろに影響されていて、自分ながらにびっくり。大きな画面だったし、漫画の原作を読んでからずいぶんたったこともあって、懐かしさが二重になったからかも知れない。子どもたちの様子が特によかった。駄菓子屋の研ナオコも。 ちょろちょろ登場するいろんな役者たちは、単なるタレントのオンパレードだったりもして、ちゃんとした映画鑑賞というよりも、将来のテレビ番組としての利用を考えての作りかも、と思ったりもするが、浦沢直樹ワールドの多面性(今回は娯楽面)の仕業だろうし、もちろん、第2部も観るだろう。洞口依子がドンキーの妻、木戸美津子役でちょっと出ていたが、あんまりイメージが違っていたのでびっくり。 アラン・ブライマン『ディズニー化する社会―文化・消費・グローバリゼーション』(明石書店、2008年、監訳者:能登路雅子、訳者:森岡洋二)が今日の読書。途中の例示はアメリカが多く、飛ばし気味だったけれど、感情労働(「笑顔は、視線などの肯定的感情表現とともに、雰囲気を良くするような概して快活な印象をサービス業務に添える」p193)・パフォーマティブ労働(「従業員は舞台の役者になる」p190)、経験経済(「消費者にとって愉快で心に残る経験を作り出すサービス」経済p42)、サービススケープ(servicescape)など、気になる用語をチェックできる。 ディズニーゼーションがここでいうディズニー化で、ディズニフィケーションという従来から否定的に使われてきた用語とは区別されている。より、中立的な用語としようとしている。マクドナルド化によって平準化・画一化された世界を前提として、そこに、テーマ化(「対象となる物体に見せかけの意味と象徴性を与える」ものp40)、ハイブリッド消費、マーチャンダイジング、パフォーマティブ労働、管理と監視などによって、文化と経済の邂逅が促進されるのが、このディズニー化社会ということ。 座敷童子じゃなくて、座敷親父になったみたい。 「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」(第1条)。理解と信頼か。確かに理解は不十分かも知れないが、一部の人が裁判に参画することで、国民全体の理解が進むのかな(いままでに電通などを使って裁判員制度広報費の予算をずいぶん消化したらしいが)。司法の信頼が足りないというのは、具体的にはどういうことだろう。そんなに不当な裁判があったんだっけ。犯罪被害者対策なのかな。6名の裁判員の属性や考え方が偏ったりしないかなあ。一見強面の人の犯罪抑制効果はあるかも(逆に、容疑者は一般受けするように振舞うよう、弁護士に訓練されるかも)。司法の劇場化か? 国民(国民でない場合もあるが)の裁きを裁判官だけに任せるのではなく、国民も参加して一緒に裁く(判断をする)ことが、司法参画というわけだろうが、さて、これってそもそもいいことなのか。いいことだとしても、実際にうまくいくのか。アメリカに倣え、ということ?話は違うように見えるが、警察の取締室の監視を警察の人がするようになったらしいが、これこそ、外部の人がしたらいいんじゃないかなあ。 国政の国民参画促進ということでは、司法よりも行政(財政)参加や立法過程における衆議院選出議員の国民の意思反映プロセス、個別案件についての国民の意見聴取の方が緊急のように思える。ところが、首相の選出が衆議院の解散がない限り国民の出番はなく、マスコミの世論アンケートが与党の総裁選びに影響を与えるぐらい(これも報道の偏り、劇場型お祭り促進になってしまいがちだ)。 市町村を中心とする地方分権・市民参画をすすめることのほか、地味だが、福祉や文化などを担いつつある各地の公益法人・NPOへの寄付税制において、行財政改革(改革という名前の切捨て)を議会や行政機関に任せないためにも、是非、より広範な寄付非課税へとその制度拡大・周知を行う必要がある(財源はたばこ消費税アップなどで)。 見た映画。 宮崎駿監督『ルパン三世 カリオストロの城』原作:モンキー・パンチ。1979年、100分。宮崎監督の38歳のときの第1作目。中年になってしまったルパン三世。10年前とは時代が違うと思いつつ監督は作ったということ。でも、なかなかに面白くて、しかも、子どもにまずい表現もなく、上手だなあと感心する。飛行機、それも古典的なもの、あと、飛ぶことと落ちることを楽しんでいる。つまり、上下動がすごくて、日本の舞台でもそうだが、垂直の構造はなかなかなく、人間の動作も平行移動が多いので、ずいぶん新鮮だったのだろうと当時を思う。 旧グッゲンハイム邸 塩屋音楽会に行こうと思っていたのに、ぐずぐずしていて、行かなかった。 テレビなどの映像タレントとしての障害者ということについて、すこし考える。 家人が怖がるので、ヘッドフォンで『学校の怪談―物の怪スペシャル』ディレクターズカット完全版(2001年、4話あって、全部で95分)を観る。関西テレビで放送されたもので、1994年ぐらいから『学校の怪談』という番組が放映されてきていたらしい。 映像よりも、怖いのは音だということがよく分かった。全体的にはあんまり怖くないビデオなのだが、猫が入れ替わってしまった深津絵里(こういっても見ていない人にはわからない説明だな)が、猫のいつもの通り口を開ける。もちろん、入れないのだが、そのバタンというもの音にギクリとする。予想していなかったからでもあるけれど、鋏でちょん切る写真の顔などは特に怖くもない。 第2話「何かが憑いている」、鶴田法男監督、池脇千鶴。宮崎美子がお母さん役で出ていて懐かしい。中学までの仲良し二人が、高校で離れて(相手は来ると思っていたのに・・という恨みから?)。これも、割れる音にドキリ。神霊者と祠の工事のあたりは「まちつかい」的目線で見てしまった。 第4話「花子さん」黒沢清監督、京野ことみ、馬渕英里何、加瀬亮、加藤晴彦。舞台は廃校、もうすぐ取り壊される。高校の同窓生が5年ぶりに集ってきて・・・ ようやく、外へ。 歌をうたう前の10代の浜崎あゆみが、とてもむずかしい役(相原)を、すんなりやっていた。高校2年生役だから、ほぼ実年齢。倒れた伊藤のいる保健室に入って砂がついた伊藤の顔をみる相原・・・彼女がラストで、男二人に砂かけるシーンとか、顔にかからないように工夫していたり、お金を受け取ってしまうシーン、水道の蛇口から水を飲むところなどなど、正直かわいいな(歌手になってからはほとんど知らないのだが)と思ってみていた。 ラストの砂かけ(はやりその直前には吉田におぼれかけの伊藤が助けられるシーンあり)は、冒頭の体育シーンにつながって、じつに自然に出来事が象徴化していく。吉田が好きなこともあって、その秘密な愛プラス白い粉でむせて失神する伊藤の出来事とつながっているのかも。 大阪港へ。なにわーとスクールん♪ アートに深入りするための五つの講座、その第2回。 皆川達夫さんらのバロック音楽の楽しみ。FMでよく聞いていたので、マショー(アルスノーヴァ)やランディーニ(トレチェント)、デュファイ、ジョスカン・デ・プレにジョン・ダウランド、リュリやパレストリーナあたり、名前と曲調はなんとかイメージできたが、歴史的な整理はぜんぜんできていなかったので、とてもよかった。 14世紀までは、ほとんど三拍子だったというのも面白いが、その理由として、三位一体などキリスト教的理由があるんだそうだ。 あと、当時の合唱は子音をはっきり発音していたそうで(だからスティングがダウランドをリュート伴奏で歌うとよく分かるのだ)、これはぜひ古楽では復活してほしいし、できれば、クラシックも含めてみんなそうしてほしいもの。 大学へ。お仕事、一日中。 1度送って、再度書き直したものを送る(じつは、翌朝、3度目の正直になってしまう)。 何かというと、以下の依頼だった。 辛口とか言われてもなあ。甘口でも書ききれないほど議論すべきことがあるし・・と思いつつ、文化施設の是非を映像で判断するのではなく、テレビから抜け出して、じかに知事はじめ職員自身も含めてアーツを体験していくことが、こどもの学力向上とも関係するのでは、という感じで書いてみる。 |