こぐれ日録 KOGURE Diary 2009.1/1-1/11


こぐれ日録622 2009年 1/1〜1/11

1/1(木)

舞楽にお能。テレビで明ける。
NHK教育、6時半〜ラジオ体操、6時40分〜舞楽、7時〜8時、新春能狂言。
おめでとうございます。
毎年元旦における恒例の視聴(恒例と書こうとして、交霊と変換されたのは、最近の自分の傾向がよく出ていたな)。
そのまえに、ラジオ体操。親父の遺影にあいさつ。

高麗楽では笙を使わないことが多いのだろうか。宮内庁式部職楽部。
舞楽「延喜楽」(えんぎらく)。
マットの緑がちょっと雰囲気違うような。篳篥をまたいっぱい・いっぱい、聴きたいな。高麗笛とよくマッチしていた。舞の回転は同じ方向ではないし、けっこう微妙な変化とか、斜めバランスとか面白い振りもあって楽しめるな。

能は、観世清和(かんぜ・きよまさ)オンパレード。子役も彼の息子かな。
高砂の舞囃子。囃子がジャズみたいに激しくぐんぐんグルーヴする。
橋弁慶。源牛若(観世三郎太=子役の声がかわいいのはもちろんいい気持ちだ)の1000人斬りって、無差別殺人の走りなのかも(父親の霊を慰めるとか、鬼神がのりうつったとか、部下を探したとか、あれこれと一応の理由があったとしても)。

岩清水八幡宮へ。ゆっくりのぼり、サイダーを二人で分けてのみ、娘たちの無事を祈って降りる。かえり、みぞれ。
ベートーヴェンのピアノソナタ第6番の2楽章を耳に残しながら、ガンバ大阪を静かに応援する。なんとか勝つ。

島津保次郎監督『隣の八重ちゃん』1934年、77分。土橋式トーキー。原作・脚本も島津監督。
小津安二郎はこの頃いまだサイレントで、小津はカラーにも慎重だったが、トーキーでもそうだったようだ(土橋晴夫による土橋式ではなく、録音技師の茂原英雄の茂原式トーキーの完成を待って、36年『一人息子』で小津は初トーキー)。

芝居女優の岡田嘉子(八重ちゃんの姉京子で、離縁して戻ってきて物語が生まれる役がら)の声や演技がいかに芝居がかっておかしいかということがよく聞ける。
他方、隣の八重ちゃん(逢初夢子)とか、大学生の慶太郎(大日方傳)のしゃべり方はずいぶん自然で映画向きで意外と古い映画なのに聞き取りにくい。他方、映像は揺れて揺れて、映画館へ行くシーンはぐるぐる。でも、古いアメリカ製のアニメが見られるのがお得。
映画的には、いささか、中途半端なストーリーで、牧歌的な青春コメディと素直に楽しめないのは、帝大の独法(ドイツ法学)という一応エリートコースの慶太郎のニヒルで他人に罪を押し付けるようないやなキャラクターも一因している。それに、社会的な背景がちらちらして、最後の朝鮮への転勤しかり、姉京子の結婚相手の酷さ(女中に手をつけるは、結婚詐欺もするは、という伝聞だが)とか、1933年を境にぐっと戦時色が出てくる当時の暗い日本の実情もどこか滲んでいるように思える。

観終わってから、NHK総合(21時〜23時)で市場原理主義などの討論を聞く。竹中平蔵さんが、オランダ式の同一労働同一賃金を主張していたのには驚いた(法人税を下げろ、法人税を下げた特区を北海道や四国に作れという政策は新自由主義的なので驚かなかったが)。


1/2(金)

NHK教育新春能狂言、2日目はいつものように狂言。
大蔵流狂言『煎物』、山本東次郎ほかそのご一門。おおぜいで祇園会のお囃子の稽古のようで、行商人?の東次郎さんが、煎じ物を飲ますのに踊らなくちゃいけないといわれて・・・子どもさんだろうね、一緒に踊るが、曲芸ができずに滑稽に回る。
同時に動作が入ったりするところなど、けっこう、複雑で見ごたえあり。

今度は3名のシンプルな和泉流『樋の酒』、野村萬。太郎冠者と次郎冠者が、たのうだおひと(主人)のいない間、酒蔵で酒盛り、そして踊る。じつに典型的な狂言。扇の活躍。はじめ蔵に入るとき、段差があるようにまたぐが、最後の出入りはなくなっていたみたい。

京阪で中之島駅まで行き、野田まで歩くが、メリヤス会館を見て厚生年金病院のほうについ歩いて遠回りをした。下福島公園をつっきれば恵比寿神社にもお参りできたのに、と残念。
家紋を見たりする。

かえって、塩田明彦『黄泉がえり』2002年製作、03年1月公開。
たまたまだが、草なぎ剛が演じる男と竹内結子が演じる女性との関係が、きのう見た『隣の八重ちゃん』の二人と同じだった。最後のRUI(柴崎コウ)のライブシーンが長くてだれる。途中まではずいぶん面白かったのだけれど、トレンディドラマに収斂してしまったな。126分。予想外にヒットした映画だそうだ。


1/3(土)

NHK新春能狂言、能・喜多流『白田村』友枝昭世(新人間国宝らしい)。
1時間以上かかるのだろう、冒頭にすでにワキやワキツレの僧侶が清水寺(せいすいじ、といったり、きよみずでら、といったり)に参拝に来ている。そこに、シテ(はじめは童子で後シテで坂上田村麻呂)がやってきて・・・清水寺の縁起と観音さまのご利益で田村麻呂が勝利する話。
観音というのは、音を観るということだ、よなあ、すごい熟語だ、なにげに。観世音もまた、すごい熟語なり。

映画鑑賞は2本。じつに連関のない取り合わせ。
マリオ・バーヴァ監督『白い肌に狂う鞭』963年、83分、イタリア。すこしイギリスぽい寒さあり。
青黒い海岸と赤が効果的なお城のような邸宅。エロス、サド・マゾとも関係し、ホラーとサスペンスの幸福な結婚。美しいピアノ主題がえんえんと続き、上品な怪奇趣味ですこぶる名品には違いないのだろうが、すこし、途中、自分的には退屈になった瞬間あり。カーテンや嵐、古い建物趣味など黒沢映画を鑑賞するためにとても参考になる映画の一つ。

矢口史靖(しのぶ)監督『ウォーターボーイズ』2001年、91分。妻夫木聡、玉木宏、平山綾、竹中直人。『スイングガールズ』の竹中直人の役割って、『ウォーターボーイズ』から続いているんだ。


1/4(日)

あれれ、もう正月終わったのか。どうしても日曜日の朝はテレビで政治のこととか見てしまう。
企業の内部留保、正規と非正規、所得再分配、グリーン・ディール・・・
自分の領域ではないが、やはり、気になるところ(いま面白い本を読み出していて、それは、歌うネアンデルタールとかいう能天気なタイトルなのだが、じつは音楽の人類学的起源論の本)。

今日はモノクロで美しい心理サスペンスでホラーな映画『回転』を観た。The Innocents。
モノクロの画面、無邪気のなかの「邪」が美しい田舎のお屋敷とお庭に潜んでいる・・・きのうみた『白い肌』より格段に好みだな。しずかにたたずむ幽霊。デボラ・カー演じる家庭教師(40歳前後で美しさが徐々に失われていく境目の恐怖もある)が、徐々に秘めた気持ちを表に出していって・・・何が怖いっていって、人間の、しかも、まっとうな職業意識を持ち、まっとうな信仰心と善良な前向き気分を表面に持っている人が壊れていくところが一番怖いのだから・・・

1961年イギリス、監督(製作):ジャック・クレイトン。100分。兄と妹、二人の子どもが重要な役どころ。The Innocentsとは、この二人だろうが、ここに、家庭教師も一見入りそうで、だれも、違うかもとか、あれこれThe Innocentsという原題は思わせる。ただ、原作がヘンリー・ジェームズ『ねじの回転』なので、邦題は原作に戻るわけだ。回転で想起するのは、どうしても日本的には輪廻とか転移とか憑依とかだ・・
黒沢清が以下のようにホラー映画について、付録の小冊子『恐怖の手帖』p28で語っているが、これは激しく同意する言葉だ(アーツの定義にしてもいいぐらいのものね)。

《・・・すなわち「世界には絶対に理解できないものが存在する」とわかった瞬間の恐怖、あるいは「どうやら世界は、それまで自分が信じていたようなものと少し違うようだ」と知った瞬間の、逃げ場のない暗澹たる気分、そういった人間の感情を描くのがホラーである、と私は考えています。》

遅くなったが、2008年、私のアーツ鑑賞(体験)記録数。合計で360本。
演劇ダンス・・・・100本
音楽伝統芸能・・・53本(CDなどは含めず)
美術デザイン・・・74本
映画・・・・・・・133本   
(このほか、小説など文学も一応08年は記載したが、40冊だった。)

夜、篠崎誠監督作品『忘れられぬ人々』2000年、120分。好みだなあ、この映画。
あっという間に進む。朝鮮人なのに日本兵の金山二等兵、彼のハーモニカが、老人の手から一度、金山の孫に渡ったのちに、横須賀の米兵の子どもケンへ・・・

2004年になくなった突貫小僧こと青木富夫の飄々とした老人ぶりがとくにお奨め。バスのシーンは日本の戦前の喜劇そのものだ。『生まれてはみたけれど』から70年・・・
風見章子の変貌ぶり、そして、対照的にずっと変わらない内海圭子。おばあさんの映画ではなく、おじいさん中心の映画(三橋達也の寡黙、大木実の気風のよさ)だけれど、おじいさんを描くためにおばあさんが欠かせない。


1/5(月)

仕事始めだなあと思いつつ、
初詣=お祈りの追加が必要になったので、
上賀茂神社にお参り。しずかだ。
大田神社、もっとしずか。
北山に出て食事をし、四条(ゼミ生がティッシュを配っていた)で靴を買って、帰る。
明日からは授業。


1/6(火)

今年はじめての大学。卒論の要約が2通来ていて、添削して送り返す。
あと一人だ。

2回生ゼミでは、成人式を使って年中行事とアーツマネジメントの関係をやってみようかと朝思うがさて・・・
3限目、授業アンケートのあと、成人式ディベート・・
まずまずみんな優しいので成人式は必要だ、必要じゃない、のディベートをやってみてくれる。
個人的な意見と一般的な意見をどう使い分けるのか、あるいは、個人的な体験をいかに一般化するか、これも、社会人への第一歩かも知れない。でも、自分もディベートってちゃんと勉強しなくちゃ。

ようやく、井之口章次『日本の葬式』ちくま学芸文庫(2002)を読む。
じつに面白かった。1965年に出版され、1977年にも出版、3度目の本なり。
テーマは、民俗学(とくに柳田國男)による葬送、とくに、解説にあるように「死に対する忌(いみ)と死者の霊魂」である。最後の墓をめぐる記述は実に早い時代の一つの卓見だろう(新しく墓地を取得するだけが葬送ではなく多様なあり方が今日ありうることを示唆。それは、過去日本では死体や遺骨さえそんなに大事にしてこなかった伝統もベースとしてあり、墓碑ってそんなに古いものではないことを早くも指摘している)。

その一つ前に「たままつり」として、お盆やお正月など年中行事がもともと祖霊信仰によっていることの記述があって実に参考になる(もちろん、初詣などの習俗はこれらのずっとあと)。

《 年内に不幸があった家々で、正月を迎える前に「仏の正月」をすることは先に述べた。ところが年の暮れは、年内に不幸のなかった家々にとっても、重要な先祖祭りの機会で、盆の精霊祭りに似た点が少なくない。ただ、正月はめでたい祭り、という通念がはびこったために、名称や期日にも意識的な変革のあとがうかがわれ、両者の共通点はいちじるしく薄れてしまった。
 あるいは正月が、もともと先祖祭りであったことを忘れたのちに、正月のほうをいやが上にもめでたい祭りとするために、仏に関する行事はすべて、年の暮れにすませようとしたのである。》p285〜6


1/7(水)

校務の日。
教務委員というのは、ホントに大変だとつくづく思う。
自由学修領域についての2010年度の改訂問題、
履修条件についての09年度対応問題、
それに、これはまったくこれから準備しないといけないことだが、
はじめてする2/2の履修ガイダンスのこと・・・

2回生が今貂子さんたちのお手伝いをしていたり、大阪アーツアポリアのお能とアートの企画に参加するといってきたり、積極的に動いているのを見るのは実にうれしい。

小中千昭『ホラー映画の魅力―ファンダメンタル・ホラー宣言』岩波アクティブ新書、2003年。
小中理論とまったく逆をあえて行った、清水崇監督の『呪怨』も一応観ておこうとか、チェックしつつ、読む。
「4.恐怖の方程式」に書かれたテーゼを一部引用して、「・・・」でコメントしておく。
・恐怖とは段取りである。・・・アーツはプロセスが重要というのとつながるな。
・主人公に感情移入をさせる必要はない。・・・これもアーツ鑑賞全般に必要なことだ(感情移入できないからこの映画面白くないとかいう感想を見ると、がっかりするものね)。
・因縁話は少しも怖くもない(恐怖とは不条理なものだ)。・・・よく、「おち」が分からないので教えてくれとか、面白くないとか言われて、これもがっかりすること。その想像力の余地が面白い(ホラーなら怖い)のだ。
・文字は忌まわしい。・・・ゴダールね。
・情報の統一は恐ろしい。・・・偶然の一致とか。
・登場人物を物語内で殺さない。・・・特に実話ホラーの場合。
・イコンの活用。・・・視覚だけではなく、聴覚にも。
・霊能者をヒロイックに扱ってはならない。・・・不条理ではなくなってしまう(説明可能になってしまうから)。
・ショッカー場面はアリバイだ。・・・使うなら、怖さの段取り(プロセス、システム)が出来てから使うもの。
(以下、略)


1/8(木)

長岡京へ。
受講生たちと桂枝雀を楽しむ。『くしゃみ講釈』は、前回に講談を学習したので、それを復習しつつ、落語が講談(講釈)師をどう見ているのかを考える。
面白すぎるのだが、どうも、この教室は声がうまく聞き取りにくい音環境のようで、字幕を入れて、今度は『鷺とり』に挑戦してみる。

お正月から、古典落語の笑いというのもいいが、この落語の演目のサゲは悲劇といえば悲劇、それに因縁もないし、ノンセンスなもので、学生がびっくりしていた。まあ、その直前のお囃子とともに騒がれる「エライコッチャ」の即興も、じつにシュールで鬼気迫る狂気すら感じてしまうのは、演者のその後を知っているからかな。

そのあと、生協でランチ。そして、図書館でメールをしたりしたあと、ニコラ・フィリベール『すべての些細な事柄』(1996年、105分)を楽しむ。
フランス・ロワール渓谷近くのブロワの森の中。そこにあるラ・ボルド診療所における日常とささやかな非日常(舞台公演発表会)についてのドキュメント映画。しずかな世界。そのほとんどが本番のための稽古シーンを中心としつつ、日常の食事、髭剃り、散歩、広場の木々の揺らぎ、雨、スケッチ、労働(食事の準備や電話交換、鐘を鳴らす・・・)。

電話の取次ぎをしていた人の思慮深さにまいった。マイクが見えないが自分の頭上にあってインタビューされているときの彼のつぶやきがすごい・・「マイクに自分(の声)が吸い取られる。吸い取られて空っぽになった自分は何なのか」(かなり記憶がいい加減)。

最後はお芝居(『オペレッタ』という1960年代に書かれたもの)の本公演(いつもの場所に屋外舞台が出来ている)なのだが、本番の部分そのものの映像は、あっけなく終わる。
私としては、精神科診療所における舞台の本番も、もっともっと見たかったのだが、それは仕方がないし、練習のときにずいぶんやっていたところがあっさり省略されて、終わった後の後片付けに飛ぶのは映画としてはすごくいい構成なのだろうとは思う。

アコーディオンの人が音楽監督なのだろう、じつにフランス的な味を出していた。屋外での練習・公演にはアコーディオンが最適だ。もちろん、ケンハモもいいですけど・・


1/9(金)

どうしても観たくて、アメフトをビデオ録画していたので、それを飛ばし飛ばしみたあと大学へ。

後期の授業もそろそろ終盤・・・
1回生用の都市とアーツも今日で一応締めくくり。
恐いという感情は、畏まるとか、畏れ多いという自然や人間、世間への畏怖からつながるものであり、そのために、人間は自然のルールを守り、社会のルールを大切にしてきた。

その人工的なルールの束である都市は万能ではなく、自然と分離した人間は完全ではなく、壊れやすい関係のなかに漂っている。すなわち、世界は分かっていないもの、不思議なものに満ち溢れているのだ、というような締め。都市がアーツに出会うことの意味を、不思議さ、不条理さへの愛に求めたり、すこし、年頭なので、大言壮語したな。

政治学概論は、昨日、今日の新聞記事から。
それにしても、定額給付金が10分の10の自治体への補助予算措置であり、自治体としては(いやいやとしても一応は、自主的な判断に基づく)自治事務であることは、酷いものであるとしても、すでに明らかだろうと思っていた。ところが、昨日の衆議院予算委員会で仙谷議員から、「法令に基づいた機関委任事務になっていない」という質問があってびっくり。まあ、機関委任事務というのは、2000年の地方自治法改正でなくなっているので、法定受託事務の間違いなのだが、法令委託事務を増やすというのは自治法の分権志向からは逆行するんで、まずいのは明白。そこをついた質問だったのだろうが、これって、あんまりピンと来る人は少ないのではないかなと授業をしながら思った。
・・・
参考
"http://www.47news.jp/CN/200901/CN2009010801000894.html" より
仙谷由人氏(民主) 法令に基づいた機関委任事務になっていない。
中川昭一財務相 予算が成立したら法律と同じ効果がある。給付金は補助金で、受け取るかは自治体の判断だ。
・・・
それにしても、滞納差し押さえを、定額給付金を給付したところで市町村税を滞納している人には行うということになれば、消費刺激にはならない(税務の部局はうれしいかど)な。


1/10(土)

アーツ鑑賞演習は、小津安二郎『東京物語』(1953年、136分)をしみじみ学生と見て「終」が出て、終了。
もちろん名作ならただ見せれば十分に鑑賞できるというほど、(派手な映画に受身で曝されている)いまの人たちにとっては、甘くはないものなので、資料を配るとともに、2003年にBSであった5分間ずつの紹介ビデオを東京物語をはさんで数本見せたりして、すこし、小津映画の特質、小津という人柄を紹介しておく。

暖房がなかなか効かず、それがちょっと大変だったが、これからは『東京物語』があって、オリザ『東京ノート』があったり黒沢清『トウキョウソナタ』があったりする順序での授業がいいのかも知れない、とはまた反省しつつ、何度見てもいい映画はいい。いや、観れば観るほどその映画のすごさが分かるのだな、これが。1回見ただけでいいとか悪いとかいうことがいかに浅薄なことかとも感じる。

あわてて、應典院へ。コモンズフェスタ2008/2009、減災の身体性〜見慣れたものに、未知なるものを再発見する。30分ほど遅刻したが、小山田徹さんたちが作ったブリコラージュのテント内で小山田さんが話をしていた。
洞窟では一人じゃ生きられない。
アセチレンガスでともるランタンの光は、電池の光とはぜんぜん違って幻想的でびっくりした。
カーバイトっていったか、水さえあればかなり長時間点灯するのだそうだ。

いずれにせよ、災害のなかで、いかに、他者とともに生きられるか、それが一番の減災。もちろん、器用手仕事の職人力、その場の応用力も試される。災害時は、他者とのユートピアが実現するときでもある。しかし、そのためには、他者と共存できるだろうという楽観主義がまず必要なのかも知れない。

ホールでは、remoの協力で、新潟中越地震の被災地、塩谷集落の晩秋から初冬にかけての風景が10分間ループで映し出されていた。12日までで終了なので、山口さんにブログでそのことも伝えて、と言われたが、そういうこととは関係なく、なんか、その静けさのなかで白い自動車が4台、行き過ぎたり止まったり、止まったままだったり、赤い人が降りてきたり、窓がすこし開いたりしまったりするのを、鳥のこえ、雨だれのなかでぼんやり視聴する時間はかなり独特の経験だった。

「超日常な風景から」
3つのスクリーンもブリコラージュで出来ているという。しかし、その映像はもうまるでそこにいるような感じだった。
とくに、寝転がって見られるようになっていて、そのローアングルな視聴方法の設営にも感心した。トークの休憩時間に見たときは、一人だったが、その場所の孤独さは、柿の実がそのままにあったりして、ひとけ(人気)を遠くに感じる、ほどほどの孤独さ、適度にしめりけのあるロンリネスであり、奥の細道的かつ今日的にっぽんの北陸晩秋紀行の風情がその里の映像にあって楽しかった。


1/11(日)

フジハラビルをまるごと楽しむ。
星合倶楽部、まんてん(大阪楽座事業助成事業)。

オーナーの藤原栄祐さんって、建物全体を限界芸術するプロデューサーでありとてつもないブリコラージュイストであることを再確認。それとともに、講談の台本をいただいて読むと、彼の前半生は、民事訴訟などの教員(司法試験も一番だったらしい)から、親が残した負の訴訟遺産に追われたものだったそうで、それを清算して、価値観を一転(でも経営法学的な視線は深化させて)した後半生をはじめたわけで、いやあ、面白い実話である。この講談は一度聞きたいものだ。
無名劇団第15回公演『大阪少女』3部作。脚本・演出:中條岳青。だいたい1時間。平成編がしゃべくり漫才で早口テンポであることもあって、すこし短い感じ。

今日は、11:30からが、大阪少女昭和編「歌劇少女、おどる。」で、しっとりとした悲恋もの。バレンタインデーの縁起もあって、神戸モロゾフなのかとフフフなお芝居。300円で海鮮丼をいただき、4階の展示場で作品を見たり、藤原さんとお話したり。13:30からは、平成編で女性の漫才師が誕生するかどうかというもの「漫才少女、うける。」。そのあと、地下一階の会場に作られた星合の池を見に天満宮(えべっさんでにぎわっていた)へ。そうそう、ここで一度舞踏があった場所だと確認する。うどんが売っていた。

最後は、15:30からで、これが、大正編「探偵少女、かける。」で、なんと、藤原さん自身が、先代の役で出てきて、予想以上に台詞をしゃべる。いやあ、まいったな。これは、まさしく限界芸術なのだが、それよりも、文士劇というジャンルを想起させるもので、歴史的建造物のオーナーを題材とした文士劇とか、講談とか、ちょっとシリーズにしていくと楽しいのかも知れない。大阪府庁もぜひ、入れてみたいもの。もちろん、中央公会堂も悲しい歴史があるし、京都のお寺縁起紙芝居もはじまったので、大阪は建造物講談などはどうだろう・・・と思いつつ、天満橋を引き返す。

フジハラビルって、京阪だったら、北浜からでも天満橋からでも橋を渡るとすぐ(10分以内)なのだが、いつも、南森町まで北浜からわざわざ行っていた。周辺地図に南の最寄り駅を書き足すと便利かも知れない。

帰って、塩田明彦『この胸いっぱいの愛を』130分、2005年。観始めて少しして、これってテレビ放送していて見たなということに気づく。いつもながら、ぼけぼけなのだが、『黄泉がえり』を観たあとだったし、2度観ても、そんなに退屈ではなかった(最後のシーンとかは蛇足ぽいけれど)。

見田宗介『社会学入門―人間と社会の未来』岩波新書、2006年。
入門とはあるが、社会学ってどんな学問かということが、読むだけで大学生にすぐに分かるかどうか少し心配だが、前半は解説するとなんとか伝わるかも知れない。
ただ、後半は、もっと根源的な話になってきて、深い議論が出来そうだ。物語の哲学における、時間は積み重なる、という考えとも呼応しているし、親密な共同体と自由な市民社会との統合を考える道具の一つがここにはある。

他者の両義性:
「生きるということの意味と歓びの源泉である限りの他者と、生きるということの困難と制約の源泉である限りの他者とは、その圏域を異にしている。」
「関係のユートピア」(コミューン、親密圏、交響圏、魂のこと)と「関係のルール」(公共圏、ルール圏、魂の外部にある万人)。
複数の交響圏間をルール圏が組み合わせる、「交響するコミューンの自由な連合」という社会の構想について。


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