こぐれ日録 KOGURE Diary 2009.7/6〜7/12


こぐれ日録648 2009年 7/6〜7/12

7/6(月)

なんだか、今年のたなばた(新暦)は、そんなに雨模様というわけではないようで、すこし、ほっとする。昼休み学生学会の総会。うちのゼミ生が会長になってくれて、堂々と説明する(阪本先生がちゃんとシナリオを書いてくださったおかげでもあるが)。

あした、AO研始動。

3回生ゼミ。あんまり書くといけないが、自分がよく知らないアーツジャンルの世界を知っている学生の発表はじつに面白い。もちろん、他のゼミ生もまるで知らないから、これこそ、文化交流のよさだ。
行政法氈B裁判員制度の説明のついでに、ちょっと、正当防衛のクイズみたいなものをした。これが、とても好評だった。大変だなあ、授業作り・・・

帰って、政治学の教科書にあった『ブラザーフッド』(カン・ジェギュ監督、2004年、148分)を観る。はじめと終わりはなかなかいい感じ。あいだが、どうもうるさすぎで、簡略化しすぎでもあるが、ハリウッド的商業大作なのだから仕方がないんだろう。まあ、こういう教材研究でもない限りぜったいに観ない種類の映画だったので、それはそれでよかったかも。

「国民保導連盟事件」。なんという私刑だ(軍隊というよりも、民兵みたいに映画では見えたが、憲兵とかだったのかも知れない)ただほど高いものはない、という伏線があるが、元共産党シンパだった国民を転向させるために食料を与える政策だったのに、アカとして処刑してしまう。それが、戦時の心理なのだろうけれど。

しかし、朝鮮戦争についてはしらなすぎる自分や日本人がいると思う。イム・グォンテク監督の『太白山脈』を思い出す。彼の作品は、これのほかにもこの時代を映した映画がけっこうあって未見である。イム・グォンテクぐらい力があって後に続く監督はいま韓国にはもういないのだろうか。


7/7(火)

AO研の発足。
ひきつづいて、2回生ゼミは、藤浩志論。『かえっこについてかたる。』(水戸芸術館発行)の音読の続き。少し声を低音で大きく読むように指示する。それの方が説得力が出る。就職活動で有利だというと少しは目が覚めたのかも

今日は、藤夫妻の話し言葉ではなく、学芸員(キュレーター)さんのアートをめぐるちと抽象的な文章なので、すぐ眠る学生たち。たしかに、森司さんのはちょっとましだがもう一人の方の文章だと学生にはちと難解で、ぴんと来ないようだ。召還するとかあっても、確かに、ぴんとこないのもうべなるかな。

目で読むときは気にならないが、たとえば、喚起するとあっても、ついこの部屋換気必要だし、とか思ってしまうだろうし、きっと、かんきなら、歓喜の方がぴんと来るのだろう。あと、乾季もあれば寒気もあって・・
より老練になればなるほど、文章もほどけてくるのかも知れないが、まあ、美術館の図録の解説ぐらいは、ちょっと堅くても読めるようにしてもらいたいなと思いつつ。「出自(しゅつじ)」というのもあんまり学生にはぴんと来なかったみたいだな。

たまたまかも知れないが、インスタレーション作品という単語以外にその動詞として展開できるからか、「インストールする」という使い方が2箇所もあって、ちょっと、キーワード(しかもなじみがパソコンであるのでだいたい意味がつかめるもの)かも知れないなと思う。もちろん、見えないものの可視化、もやもや(違和感)の具現化、美の欲望の顕在化あたりは、はじめから予定していたキーワードだったが。

ワードソフトで注をつける仕方を知らない学生が多いので、注について(字数に入るというとこれまた少し起きたかもな)。あと、引用文の扱い方。音読以外にそういうテクニックも言っておく必要がある。初年度教育で全部できるのが理想だけど、なかなかなんだろうな。なお、この本も、段落の一番はじめの一字下げがない(このブログと同じ)。だんだん、印刷物、とりわけ、横書きのもので、改行一字下げがないものが増えてきた。きっと、インターネットの影響だろう。

でも、まあみんな今日はよく寝ていたなあ。来週は、野村誠論へと移る予定にしていて、取手でリンクするつもりだが、こんなに寝られると、より工夫が必要かも。実際に体を動かして経験したことが文章になっていて「かえっこ」、それでこうだからなあ・・・。

じつは、井上信太論(関連で池田朗子論)とか、林加奈論(伝統的紙芝居への言及つき)とか、山下残論(尾崎放哉と山頭火との比較論つき)とか、したい演目は数あれど、宮城道雄序説っていうのも実は準備していたわ(アウトサイダーライブへの道つき)うーん、どうしたら届くんだ・・・

夜、七夕で、清水焼に蝋燭をおき明かりをつけるイベントを織田ゼミ+りんま研でするというので、それまで、時間つぶしにオルガンを弾く。オルガンの上にあれこれ雑多なものが置かれていたので、ぜんぜん弾かなかったのであるが、弾き出すとホントに気持ちが開放される。でも、伴奏しながら優雅に歌うまでにはなかなかいかないもの。短冊(これは夏越の大祓が出自)に、学生が書けというので、「ちゃんと死ねるように」と書く。意味不明だが、一回生ゼミを受け持った男子学生が、アートだアートだとそれを見て言ってくれて、逆に照れる。まあ、いいけど。

かえる途に藤森から来たというりんごとりんごジュースを売る若者行商人女性(米屋とか酒屋さんのまいかけがかわいい)に呼び止められる。ほとんどイベントのリで必要でもないりんごジュースを買ってまた下っていくと、自転車でやってきた仕事帰りのこぐぜみ一期生のWに会い、ゼミ同窓生の消息を聞く。照明をしていた学生のおめでたとか・・、イベントのりということもあり、W(ジュースをプレゼントする)、それに津軽りんごの行商人に京都橘大学で明かりイベントしているので見に行ったら?といっておく。

ほとんど読んだ本。
阿部正路『怨念の日本文化【幽霊篇】』角川選書、1995年。
妖怪もいいが幽霊もまた人間くさいので病み付きになる。
小泉八雲がノーマークだし、読むべき本が多すぎる。泉鏡花は感劇体のお蔭でずいぶん身近になっていて、観劇の効用の思わぬ副産物なり。
さて、天狗研究しなくちゃな。まず、8/30。あとも、うまく、授業に関連付けたい。


7/8(水)

1限目の授業のみ。めずらしくそのあと校務なし。

草津線に久しぶりに乗る。
【障害のある人の実演芸術「パフォーミングアーツ」に関する調査研究事業】のはじまり。
厚生労働省の今年度の障害保健福祉推進事業の一環で、「社会福祉法人オープンスペースれがーと」が受託。

つまり、この前出した『アウトサイダーライブ』の第二段を発行するための研究調査をして、最後、来年2月初旬には、研究結果の発表会もしようというもの(なんと、大津プリンスホテルだということ)。要求額の半額ぐらいにはなったというが、なんとか調査はできると思う。座長はなんだか、私のようである。

で、これからの課題は二つ。
一つは、滋賀か京都大阪あたりで、若手の研究員を募集しようというもの。
全国悉皆調査はできないが、サンプル的な予備調査をしたいので、そのアンケート用紙作成や集計、分析をし、それに基づいて、アウトサイダーライブの分類などをしてくれる人の募集である。

それなりの調査報酬は出るが、それで働くというわけにはいかないので、若手の研究者、大学院生で、自分の研究にも生かしたいなという人が最適。もし、私の知り合いだったら、連絡してほしいなと思っている。
直接わたしは知らない方の場合も、一度、わたしか、滋賀県社会福祉事業団の山之内さんに聞いてみてほしい。わたしも、じつは、大学や研究所で、アウトサイダーライブの研究調査をしている人、青果物を調査しなくちゃいけないという宿題をもらっていて、できれば、こういう宿題を減らしたいので、ぜひ、早くいい人が現れればいいなと思っているところ。

もう一つの課題は、これは昨年度調査をしてくれたアサダさんとかに苦労をかけたのだが、全国でどんなアウトサイダーライブがあるか(施設内の発表会などを超えた独自表現の可能性を持つもの)を調べるための、各地のキーパーソン探し。これも、大学で障害者の表現をテーマにして研究している人、院生、あるいは、アートNPOの方になるのかな、と思っている。
一応、有償(でも、これも興味があって自分の活動に活かせると感じる方でないとなかなかむずかしいかも)。ただし、研究会を5回ぐらいするがそのうち3回ぐらいの旅費は出るそうだ。

北海道東北、関東甲信(越を入れるかどうかは検討中)、北陸東海、中国四国、九州沖縄。
6つのブロックに各一名、アウトサイダーライブ地域キーパーソン(あるいは調査員)を配置できればいいなと思っている。
そして、最後の発表会には、1〜2団体は来てもらって、近畿のグループとともに、ワークショップを開いたり、ライブをしたり(観客が100名程度の会場を3日使うことになる予定)するということ。
でも、今日初めて聞いたばかりなので、これから、一緒に作っていこうというもの。


7/9(木)

あさ、西脇順三郎の詩を読む。イスラーム関連で。
佐藤純彌監督脚本『男たちの大和』(2005年、東映、143分)を観る。初めての襲撃のあとの水葬シーンとさいごの散骨をチェック。骨が飛び散らないようにあんまり細かくしていないところが工夫だなあと思う。骨壷も一緒に流すものなのね。

近大の最後。とてもいいレポートがあって、これは、参考になるなあと感心する。

帰って、万田邦敏監督研究で買っていた、『宇宙貨物船レムナント6』(60分)と、『極楽ゾンビ』(1990年、57分)を観る。演技ともいえないような俳優さんもいたりするのだが、それが映画になるとこんなに面白くなるというすばらしい証拠物件だなとみながら思う。とりわけ、『極楽ゾンビ』は葬式研究者としてのバイアスがあるかも知れないが、「ゾンビ」は妖怪なのか幽霊なのか、もうひとつ新しいジャンルなのかと実に悩ましくあたまをめぐらせつつ、観た。


7/10(金)

1限目。120名ぐらいに『トウキョウソナタ』の冒頭を見せる。出席カードを読んでみて、この映画を見た学生は1名のようだ。これは多いのか少ないのか。この2回生の学生(『アカルイミライ』も見たらしいのだが、監督が同じだとは知らなかったとのこと。監督に注目して映画を観るというのはどうもいまの人たちにはないようだな)は態変についてもかなりの興味を示していた。

2001年度からずっとご一緒させていただいてきた青木先生とクリスタルカフェであれこれ。

青木先生いわく、
市場(マーケット)と権力(パワー)が、(それは歴史的というのではなく仮説的に想定するものだけど)「原始共同体」的なコミュニティから分離して独立し巨大化していったと巨視的にいえるわけだが、それだけで、私たちは動いてきたわけではなかったはず。
ところが、いまは、その二つの極を移動するだけが、政治選択、経済政策の議論になってしまった。

そうではないのだということで、私たちは「文化政策」を旗印にしたわけだったのではなかったか?マーケットとパワー、その二つを結ぶ第3極としてのカルチャー。これが、01年度から07年度までの文化政策学部時代の仮設だったのではなかったか。

でももういまは、その3極目を、なんとするのかがどうも見えなくなっってしまった。わたしたちだけではなく、世界全体がである、もちろん、とりわけ、市場原理主義者・新自由主義者でない私たちには。

サッチャー政権以降、イギリスでは、教育の民営化?みたいな動きとして、宗教団体による学校運営が広がったのだという。
また、別の話だが、企業の障害者雇用の評価がなされていないで、みんな、障害者自立支援法を筆頭とする国のせいにしておわりとする発想もあるというような院生の研究の話もされていた。

私は、障害者の表現的自立ということを考えていると初めて自分の脳内からそとにそのコンセプトを出してみた。予想以上にそれはいいね!といっていただき元気になった。でも、マーケットとパワーと表現(文化)なのかどうか・・・ここにイスラームでは、もちろん、信仰(宗教)が入るのだろうし(いや、一番上位かも知れないが)・・・・考える糸口が見えたり見えなくなったり。

坪内稔典『カバに会う―日本全国河馬めぐり』〔岩波書店、2008〕からの引用:
p86
《 ところで、この東山動植物園を訪ねた前日、私は愛知県碧南市の小学校でカバの話をしたのであった。西端小学校の先生たちの研修会で、「水中の河馬が燃えます牡丹雪」という自作を板書し、おおむね以下のように話した。
《 水の中のカバが燃えるということは現実的にはありえない、だが、言葉の世界ではその光景を思い描くことができる。この句は「言葉の風景画」と思ってもらうといいのです。音を組み合わせ、連ねると音楽の世界ができます。絵の具を塗り重ねると絵の世界ができます。言葉もですね、何かを伝えるのではなく、音や絵の具のように組み合わせたり連ねたりすると、言葉自体が世界を作ります。それを私は「表現する言葉」と呼んでいます。何かを伝える日常の言葉は「道具としての言葉」である。道具としての言葉ではカバは燃えません。でも、「表現する言葉」はカバだって燃やしてしまうのです。》

こうネンテンさんは書いたあと、東山動植物園のカバの小福が、水中から顔を出して自分を眺めていることに気づいたと書き添える。

あとがき(p175)も面白い。どうも、ネンテンさんという方はけっこう気難しいタイプで、メランコリックだったりもする人なのかも知れない。だから、沈滞しがちな気分を刺激するために、「過剰なまでに何かを愛すること」を意図的に行い、その結果、「毎朝必ずあんパンを食べるとか、柿を訪ねるとか、カバに会うという行動になった」というわけだ。

でも、そのさい、彼のユニークですてきなところは、彼が愛する何かが、「一般的にはあまり高く評価されていないものがよ」く、「どちらかといえばバカにされたり見過ごされたりしているもの、そういうものを過剰に、しかも意識的にこだわって愛する」ところだろうと思う。

だから、全国の動物園のなかで、えさがとても高いところ、あるいは、有名なところ、上野や旭山については、いささかシニカルに記述してあり、そこが、単純に、カバダ、ガハハ!!とは一筋にいかない小毒の部分、あるいは、闇であり病みでもある渋み、隠し味のようにも思える。とはいえ、95%ぐらいは、のんびりととても楽しい本である。


7/11(土)

親しい人の誕生日。
なぜか、「フランシーヌの場合は、あまりにーもおばかさん」という歌が歩きながら出てくる。
古くていまから考えたらゆっくりしていて単純なメロディー。でも、いまではもう歌われそうにない唄の筆頭のようにも思える。

北浜で、「かえるシステム@藤浩志」の一環として、かえっこ屋、かえる工房の説明会があった。
藤浩志さんのお話がじつに面白かった。ビデオを撮っておけばよかった・・・って雨森さんが言っていた(明日、撮ればいいんだろうけれど)。うちも後期のゼミの一環にしょうかなと思い、一応予約しておいた。どうも早いもの順みたいなので、気候がいいときを押さえておく。

ワークショップといいながら、目的(ゴール)が一つで見本があり、プロセスがあらかじめ決まっているタイプがあって、これってつまらないなあ、苦痛だなあと思ってきた、という。
こういうカルチャースクール的なプロセスなぞり型ワークショップの対極に、何が起こるかわからないことでわくわくする形のワークショップがある。
やってみないとわからないということが面白いのだが、そのためには、工房がいる。購入してすますのではない工作室のようなものだ。
プロセスは決めないが、種は必要だ。それが、たとえば、ペットボトルであり、プラスチックハンガー(これはまだ実物を見ていないが、雪の結晶を大きくしたような模様がステキ)、ポリ袋、いらなくなったおもちゃが、今度のかえっこ工房には用意されるという。

つまり、このかえっこ(自由)工房には、
1)自由に使える素材が溢れている
2)自由に使える道具がそろっている
3)誰かがそこで必死に(夢中で)遊んでいる
こうあれば、刺激が生まれ、つくることって難しくないし面白そうと参加するようになるのではないか、という仮説。実証の場が8/22からで、じつに楽しみ。

あと、できてしまった瞬間が一番どきどきして面白いのだが、それを、会場に、そして、まちに「かえる」。つまり、まちにかざることができたらいいなという。かえる工房でつくられたものが会場をかざり、会場が日々変化し、会期終了後、商店街や空き地、お祭りなど、それぞれの地域にかざられていく。

かえっこ屋のライトなワークショップの話で面白かったのが、予定外の変化を楽しむということ。
その例として覚えているのがつぎの二つ。
酪農家の日曜似顔絵書きさんが、牛のかっこうで子どもを書いていたが、なかなか列がすすまないので、逆に、子どもたちが酪農似顔絵書きさんの似顔絵を描くことでポイントゲットした話。
女性が自分で作った衣服の着せ替えショーで、子どもたちがアイディアをだしたら、ポイントゲットだけど、おsじさんの場合は、女性にポイントを渡して着せ替えショーをしてもらうという話。

近くだろうと思い、西天満3丁目のギャラリーwks.に上る。佐藤有紀展。明るい絵の具。ついでに、ギャラリー白。こちらも、彼女を含むグループ展「ペインタリネス2009」。
おなかがすきすぎたので、ちょっとビールとつまみものを居酒屋でひっかけて、かえるシステムの事前勉強会に戻ったが、ちょうど講師の方のお話がおわったところだった。
そのあと、また飲む。



7/
12(日)

真夏の熱。
スペース・イサン、後半かなりひやっこくなって、直後東福寺の大黒でラーメン(470円)を食してしまった。

金乃梨子主宰のてんこもり堂『MOON』(原作:如月小春、演出:藤本隆志)。知り合いの顔が多い。受付に上田さん。110分ちょいか。開演時刻が11分遅れたが、それによって満員になった。すこし、ここの場所は知られていないからかも知れない。ベトナムの本拠地というのが一番分かりやすいかな。

かえり、藤本さんにまた一緒に仕事したいですねといって帰る。こんなに如月戯曲が面白いなと思ったことがなかったからだ。それは、いまとつながる舞台だったからだけれど、でも、いまの演劇には珍しい表現方法だなとも思う。いつもは、後者ばかりに気がとらわれたのだが、今回はそれが全然古いとかいう気にならなかったのが不思議なぐらいだ。
たとえば、棄老の扱いの残酷な軽快さとか、抽象的であっけないビルの倒壊が世界の消失になってしまうこととかの危うさ、とか。

あさ、万田邦敏監督『胎児教育』(1992年、24分)。ビートきよしの顔をほとんど忘れていた。

寝る前、自公が都議選で過半数割れと報道していた。しかし、自民が38名(20名落選)なのに、公明党は23名全員を通している。
すごい力だ。さて、都議会と同じように、衆議院選挙、もし、自民が野党に下ったとして、公明はどうするんだろう。
キャスティングボードを握るには、与党と一緒の方がいいと思うのか、あるいは、与党政党っていうのもいろいろつらいと思って野に下るのか。政治研究には面白いテーマだなあ。

都議選のあと、どういうふうに都政が運営されるのか、注意してみておく必要があるな。民主54と共産8は政策協定を結んだりするのだろうか。そうしなければ、自公が61だから、数的優位にたてない。


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